第50話 俺は彼女を抱き止めたい

――カズキくん……ありがとう……


 微睡まどろみの中、俺の頬を甘い声と吐息がなでた。

 まだ覚醒していない目を開けると、見たことのある天井が、目に映る。宿泊しているホテルの一室のようだが、今まで俺は何をしていたんだ? 


――ねえ、今いいかな


 しかし、俺は甘い声に引き寄せられる。

 顔を右にやると、目の前には……なぜかバスタオルをまとい、愛しく優しげな顔で俺を見つめる藤安ふじやすさん……。

 バスタオル越しだが、胸のふくらみやキュッとくびれた腰、そして舞台や温泉でも見せてくれたなあでやかな脚。ボディラインがあらわになっており、いやでも注意を引き付けてしまう。


 俺は心臓が止まりかけた。

 そしてなぜか、身体のいたるところが反応している。


「え……どうして?」


――あなたを心配したんだから……


 そして彼女は俺のベッドに座り、顔を近づけた。


――でも、もう大丈夫……今は私と……


 彼女はまとっていたバスタオルを取り去らい……


***


――おい! 起きろ!!


 いきなりやけに現実的な声が耳に響く。

 目を開けると、いきなり脳が頭蓋骨にバウンドするような激しい痛みが襲った。


「っ……」


 言葉にならない声を上げる。

 しばらくして痛みが引くと、俺はふと額に手をやった。

 包帯が何重にも巻かれていた。


「……どうやら生きていたみたいだな。よかったぜ……」

「え?」


 どこかで聞いたことのある声。重い体を振り向かせると、そこには美女ではなく見知ったイケメンがいた……いや、そこに変な意味はない。

 つまり、文芸部の部長である千葉ちば部長が呆れと安堵が入り混じった顔を俺に向けていた。


「あの、俺今まで何してたんすか?」

「覚えてないのかよ。お前、よくビルから飛び降りて生きていたぜ」


 ビルから飛び降りた?

 呆れ顔の部長を尻目に、俺はハテナを浮かべた。


「お前、藤安を背負って窓から飛び降りたんだよ。そして、真下の車に直撃。幸い命に別状はないが、二日間意識がなかったんだぜ?」

「へえ……そうだったんだ……」


 なぜか他人事のような感想しか思い浮かばない、というより何も思い出せない。

 確か、窓に向かって突撃したのは覚えているが……

 あの時、藤安さんもいたよな……


ーーわかった。あなたを信じる


 脳の中で反響した彼女の言葉に俺はハッとした。

 折山から逃げる際にイチかバチかの賭けで、藤安さんを背負ってビルから飛び降りたのだ。


 俺は助かったけど、彼女は……俺の大切な彼女は……


「部長、藤安さんは大丈夫なんですか?」


 最悪の事態をも考えてしまい、俺の語気は微かに荒くなっていた。部長が身を引かせている。

 あそこから飛び降りたんだ。怪我の一つや二つしていてもおかしくはなかった。


「いや、近いって……藤安は無事だよ」

「怪我は……」

「お前がかっこつけたお陰で、擦り傷程度で済んだそうだ。今は別室で休んでるよ」

「あ……」


 よかった……。

 き物が落ちたようで、思わず胸を撫で下ろした。

 しかし部長曰く、俺が落下した先の車は大きく凹んでしまったという。

 持ち主は名乗り出ていないものの、下手したら損害賠償されるかもしれない……ぞっとするけど今は考えたくない! いや、命が助かったんだからやむなしだろ!? 金より命が大事だろ? 金も大事だけど、命あっての物種ものだねだろ!?


 だが俺の気持ちは顔に出ていたようで、部長は顔をしかめた。


「お前何考えてるんだ。それより、藤安のところに行ってこいよ。あいつ、めっちゃ心配してたぞ? 宮部みやべいわく、不安で食事が喉に通らなかったらしい」

「あ、はい……」


 藤安さんに心配かけちゃったな……


 俺は松葉杖をつきながら、部長に支えられながら廊下を歩

 いていた。

 部長から俺が意識を失っていた時の事情を聞いた。

 あれからビルに警察が突入し、浅木や折山をはじめ事件の関係者は逮捕されたという。事件を起こした動機を聞く事情聴取などはこれからだった。 


 当然ながら、事件直後の俺たちが彼らの詳細な動機について知ることはできない。

 数年して、風の噂に聞いた話では浅木は数年前に事故で両親を亡くしており、兄や近衛が心の支えとなっていたという。

 兄の義明よしあきは彼女にとって唯一血を分けた兄妹きょうだいであり、まるで我が子のように妹に接していた。浅木自身は兄からの強い愛情をシスコンとドン引きしながらも、彼を信頼していたようだ。

 一方の近衛は彼女と非常に親密で関係で、中学時代にはすでに一夜を明かすほどの関係だったという。

 中学時代にゴムが持ち込まれた事件があったが、浅木と近衛が持ち込んだと噂になったほどだ。

 彼はいじめグループでは浅木の右腕であると同時に、まるで家族のような関係だったらしい。

 しかし、家族同然であった彼が突如消えた。それは浅木にとって家族も奪われたことと同じだった。


 事件に至る経過は俺の推理通りだった。

 今年の四月に近衛の遺体が発見され、ショックを受けた浅木は様々な手を用いて事故当時一緒にいた藤安さんの居場所を突き止めた。

 偶然、演劇部員の中に大金持ちの折山がいたことや大学の近くにかつての下僕であった伊達だてがいたことは彼女にとって好都合だった。折山に接近して演劇部の情報を収集したり、伊達の心情を利用して俺や藤安さんの動向を観察したりしながら計画を進めていったという。

 しかし折山は事件に協力的だったものの、兄の義明はあまり乗る気ではなかったらしい。

 義明はかつての妹に戻ってほしかったようで、近衛が殺されたかどうかも疑問に思っていたという。


 事件のほとぼりが冷めた未来の俺は、少しばかり浅木や兄の彼気持ちが理解できる気がした。しかし、勝手に犯人扱いされ、俺たちを殺そうとした連中の気持ちなんて知ったことではない。


 そして、一連の騒動の黒幕であった折山。やはり彼女はお金の力でやりたい放題しようと考えていたようで、骨の髄から髪の毛の先までお金に支配されていたようだ。

 彼女にとってこの世界は一つの「舞台」だった。というのも、彼女の金の力で警備員を雇い、早乙女さおとめさんや浅木のための舞台を用意した。その中で演劇の駒がどう動くかを「見物」することが好きだった。

 言うまでもなく、彼女は浅木よりも重い罪を償うことになったという。


***


「ここだよ。お前が来るのを待ってるそうだ」


 千葉部長の目線の先に「藤安ふじやす羽菜はな」のネームプレートが飾られていた。

 藤安さんがいる病室だ。


「……なんか、どう声かければいいかわかりません」

「おいおい、ヒロインを助けたラブコメの主人公がそんなんでどうするんだよ。相手はお前の無事を祈ってるんだ。元気な姿を見せるのが一番いいに決まってるだろ」

「ラブコメの主人公って……」

「お前、自分と藤安の恋愛模様を小説にして、コンテスト出すって言ってたよな? 忘れたのか?」


 確かにそうだけど、俺はただの人間だ。

 コンテストも、もう締め切りだろう。


「忘れてないですよ。でも……」

「とにかく! 胸張って行ってこい。ついでに言うなら、お前、まんま理想的な展開を経験したじゃん」

「あ……」


 数日前、部長に小説の展開が行き詰まった時にした相談。いま思えば、ヒロインである彼女が危機的な状況になり、主人公は危機から彼女を救った形になった。

 まあ、敵に対して無双するわけでもなくだいぶ地味な主人公だと思うが。


「でも、締め切りが」

「大丈夫。まだ時間はある。今日の夜十二時までならいいんだろ? 後で俺のパソコン貸すから、今は藤安のところに行け」

「はい」


 俺は扉に向き合い、奥にいるであろう彼女を思った。

 この前、逃避中に感じた彼女の愛しい表情、体温のぬくもり……俺はすべて、抱き止めたい。


 俺の元気な姿を見て、彼女が元気になるなら……。


 俺は、病室の扉を開いた。

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