第35話 俺は彼女と行きたい

 いつもの朝が、地獄に突き落とされるきっかけになったのは一通のメッセージからだった。

 私は朝食を買いに近くのコンビニに出かけようとしたとき、スマホの通知音に引き止められた。

 不意に画面を見ると、背筋が凍りついた。

 SENNの画面に映るメッセージの送り主。


 こいつの名前は……思い出したくない、女……。

 心臓を抉ってめくり上げる過去が想起される。


 私の目の前にいきなり分厚く、真っ黒い壁が四方八方に塞がった。徐々に迫りくる、壁……。


 逃げたい、逃げられない……。


 浅木あさぎ陽子ようこ。彼女は私にとって悪魔そのものだった。


 どうしたらいいかわからない。わらにもすがる思いで、私は部屋を飛び出した。その途中で、偶然彼と鉢合わせした。


 高林たかばやしくん。合宿の時、彼に冷たいことを言ってしまい機嫌を悪くしていないだろうか――そんな不安が脳裏によぎった。

 しかし、その時の私は誰でもいいからすがりたかった。

 ちょっとでもいいから、安心を得たかったのだ。


 ……この安直な行動が、彼を窮地に追いやるとは知らずに。


***


 近くにある公園。天気は秋晴れの快晴だが人は誰もおらず、冷たい北風が吹いていた。

 俺と藤安ふじやすさんは近くのベンチに座り、俺は彼女が落ち着くのを待つことにした。


 強い木枯らしが頬をかすめ、目の前で多数の落ち葉が舞う。

 藤安さんは身を縮こませるように、ベンチの下の地面を眺めていた。体が震えているようだ。

 恐怖が、すぐそこまで迫っているのが俺でもよく分かった。

 あいつは、俺たちにとって共通の敵である。

 ふと藤安さんを見ると、彼女はゆっくりと顔を上げた。


「落ち着いた?」

「うん……」


 そして、一番知りたかったことを尋ねる。


「いきなり質問して申し訳ないけど、松田が殺されたって……何があったの?」


 藤安さんは自販機で買った緑茶を一口飲むと、ゆっくりと口を開けた。


 五年前の秋、俺への事件から少し経った日のこと。その日は今日みたいな透き通るような青空が広がっていた。

 藤安さんによれば、事件は中学からの帰り、車の往来が激しい幹線道路で起きたらしい。

 藤安さんは浅木に因縁をつけられており、彼女に激しく責め立てられていた。

 彼女は事前に浅木から呼び出されていた。そんな時、松田が通り掛かった。


「松田君、浅木を止めに入ったの。初めは口論だったんだけど、そのうち押し合いになって……」


 二人は押し合いになるうちに、歩道から道路に出てしまった。

 その時、道路の向こうから猛スピードでトラックが突っ込んできたのだ。

 トラックに気づいた刹那、浅木に押された松田は足を踏み外し、道路に倒れこんでしまった。


 鼓膜を突き破り、脳を揺さぶるブレーキ音。間髪入れず、ドスっ、という重い物音が藤安さんに現実を突き立てた。


 目を開けると、大きなトラックが停車しており、浅木が目の前で息を荒げて立ちすくんでいた。我を失った浅木の視線の先、トラックの先は血の海になっていた。

 その中央で松田が頭から血を流し、ぐったりと倒れていたという……。


 あまりに凄惨な光景が頭に浮かび上がり、一瞬俺の時間が止まる。

 しかし、藤安さんは話を続けた。


「事故かもしれないけど……事実は隠されたの」


 表向きは事故として処理されたが、松田は殺されたのだ。藤安さんの目の前で。

 彼女は最大の友人、いや恋人を目の前で奪われてしまった。三日三晩我を忘れて、泣くこともできなかった。


 だが、事態は思わぬ方向に展開する。

 しばらくして、浅木は藤安さんを学級裁判にかけて松田の死を非難したらしい。


ーー松田まつだくんはあんたのせいで死んだのよ! 学級委員なら責任取りなさい!


 批判の矛先は藤安さんに向けられた。クラスメイト達も浅木と一緒になり彼女に集中砲火を浴びせた。

 中には彼女と松田が付き合っていたことを引き合いに出して、攻撃する者もいたという。

 彼女は攻撃に耐えられず膝をつくほかなかった。


 ただ、表向きは事故だったため当時の教師の仲裁もあって事件はいったん終息した。


 だが、五年を経ていきなり浅木からメッセージが送られてきたのだ。


 藤安さんから知らされた話があまりにも衝撃的だった。何も彼女にかけられる言葉が見つからないが、辞書からかけるべき言葉を引く。


「辛かったんだね……」

「……」


 話している途中でも、藤安さんの声に嗚咽が混じっていた。

 彼女にとって、浅木や松田の事件はトラウマになっているのが、嫌というほど分かった。


 しかし、ある疑問が浮かんだ。


――どうやって浅木は藤安さんにメールを送ったのか。そして、本当の目的はなんなのか


 藤安さんに危害を加えようと思っているのだろうか。

 しかし、藤安さんに危険が迫っているのは間違いない。執筆なんて、後から時間を取ればいい。人の命と比べたら小説なんて二の次だ。


 そして……中学時代に光を与えてくれた、彼女への恩返しだ。


「藤安さん、俺も京都に行くよ。出来るだけ……いや、絶対に君を守る」

「え……?」


 藤安さんの顔に一条ひとすじの光が差し込んだ。

 彼女にとって、俺はどう映っていただろうか。俺はただ、藤安さんを守ることと、失った関係を取り戻すことだけを考えていた。

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