第31話 俺は彼女を解放したい

 俺はホテルを出て、玄関に向かった。彼女からSENNに通知が入ったのだ。


――外散歩しない? 玄関で待ってます


 彼女は俺がやらかした事故を気にしてはいなかった。しかし、彼女の親友――師匠は激昂げきこうしていた。

 あとで謝っておこう。


 玄関につくと、彼女はソファに座り俺に背を向けていた。いつもの外出用のパーカーと白いスカート姿。茶色い髪は風呂上がりのためなのか、照明に当たり光り輝いていた。


「あの、藤安ふじやすさん……待たせてごめん」


 彼女は俺に振り替えると、


「……行きましょう」


 俺たちは二人、ホテルの外に出た。

 秋の夜が更けていき、肌寒くなっていくが、俺と藤安さんは終始無言であった。

 何を言っていいかわからない。藤安さんが俺を呼んだんだから、彼女が話を切り出すのを待てばいいのか……?

 彼女の横顔を見ると何やらもじもじしている。


 いや、俺から促そう。


「あの、藤安さん」

「……」

「寒いよね。どっかの自販機でコーヒー買うよ」

「……ありがと」


 近くの自販機からブラックと微糖のコーヒーを購入し、ブラックを藤安さんに手渡した。

 温かな微糖が口の中に広がり、体温を温めてくれる。同時に、藤安さんの心も落ち着けてくれるといいが……。


 少しの間、俺たちは押し黙ったままだ。


「……落ち着いた?」


 時計の針が動き始める。


「うん。ありがとう……高林たかばやし君」


 とりあえず一安心だ。俺も微糖のコーヒーに口を付けてほっとする。


「それで、話したいことって?」


 単刀直入に尋ねてみた。

 藤安さんは缶コーヒーをベンチに置くと、


――しばらく、一人にしてくれないかしら


 刹那せつな、冷たい強風が俺の頬をかすめた。

 やっぱり、藤安さんはあいつの亡霊に憑りつかれているのか……


「……」


 俺は何も言わなかった。


「ごめんね。いきなりで」

「いいよ……」


 また俺と藤安さんの間に沈黙が入った。時間が止まったように、周りから音が消える。

 あまりの衝撃に脳天を撃ち抜かれ、動けなくなってしまった。

 そして、嫌われてしまった――と重い鉄の塊が心にのしかかり、俺の喉元を押さえつける。

 だが、俺から理由を聞かないと何も始まらない。


 なんとか締め付けを振り切り、俺は問いかけた。


「その……藤安さん」

「ん?」

松田まつだのこと、まだ心残りなの?」


 ついに口にしてしまった。藤安さんは戸惑うばかりか、間髪入れずに首をゆっくりと縦に振った。


「……うん。もう、この世にいないことは知ってる。だけど」


 藤安さんは顔を下に向け、黙り込んだ。

 家族同然の付き合いであり、親しかった彼が突然消えた。ショックなのは間違いないのだ。

 少しして、藤安さんはため息をつくと、


「私ってバカだわ。必死になって守ってくれる人がいるのに、踏みにじろうとしてるんだからね」


 吹っ切れたように、藤安さんの声が明るくなる。


「……」


 俺は彼女の横顔を見つめる他なかった。かけるべき言葉を見失ってしまった。


 ――少しでもいいからハナに寄り添ってあげて。松田君のことはハナが乗り越えなくちゃいけない課題。キミは手助けしてあげればいいの

 宮部さんの言葉が俺に取るべき行動は何か考えろと促してくる。

 彼女自身が、考えを変えないといけない。松田から解放されなければ、振り向いてくれない。


 俺は彼女にそう仕向けるだけだ。


「……藤安さん。その……松田は君がいつまでも思い慕っていることは嬉しく思ってると思う」

「……」

「でも、本当にそれでいいのかな。松田は君を苦しみから解き放ってほしいって思ってるんじゃない?」

「……」


 藤安さんは顔を俯けたままだ。時間だけが流れていく。


「だから、気持ちを入れ替えて――」


――なら、私を連れ出してよ!!


 藤安さんの悲しみの混じった声が濁流となって俺に押し寄せた。俺は硬直して動けなかった。


「あなたに私の気持ちがわかるって言うの? 私だってひと段落付けたいわよ! あなたのことだってもっと知りたい……もっと仲良くなりたいって思ってる」


 そして藤安さんは絶えず流れる涙をぬぐった。


「でも、ごめん。私は……松田君が好き。今でもね……」


 藤安さんの声は透き通っていて奇麗だった。だが、俺にはその声が冷たい氷の刃となり、心臓に突き立てられていた。

 冷たい風が尚更俺の身体を凍てつかせていく。


 俺は何も返せなくなった。

 わなわなと口元が震えるだけだった。


「ごめんなさい。ひどいこと言ってしまって」

「……」


 十分すぎる一撃だった。彼女を振り向かせることが難しいのは予想できていた。少しずつでも前に進んでいけばいいと思っていた。

 彼女を取り巻く壁は想像以上に高いハードルとなっていた。


「……大丈夫。わかったよ」


 なんとか発した言葉は氷の刃の一撃で虫の息になっていた。

 すべての努力が一瞬で瓦解した気がした。俺は今すぐその場から逃げ出したかった。


「……寒くなってきたね。ホテルに戻ろう」


 逃げるふりをして、無理やり彼女に提案する。

 顔には、焦りが出始めている。


「……ごめん。先に帰ってて。すぐに戻るから」

「……」


 暗い夜道に女の人一人にするのはまずい。引き留めるべきかもしれないけど、そんな気は残っていない。


「わかった」


 とりあえず、何かあったらすぐに連絡するように伝えると俺はホテルに戻った。


 その日の夜は眠れなかった。

 これまで何をしてきたんだろう。すべての後ろ盾を失ったようで、俺は辛くて辛くて……布団の中で人知れずすすり泣いた。

 男は涙を見せぬものというけれど、こんなときは泣きたい。


――あいつらの言葉を真に受けちゃダメ

――本当か嘘かなんてどうでもいいの。相手にしたらあいつらの思うつぼなんだから……!


 あの時、慰めてくれたのは藤安さんだっけか。

 ふっ……今度は彼女に泣かされるなんてな……。


 そして泣きつかれたのか俺は深い眠りに落ちて行った。


***


 翌朝、俺はこっそりとホテルを出ることにした。敗れた者にここに残る理由はない。

 荷物をまとめてチェックアウトし、外に出た。


 晩秋の朝はとても寒く、俺はマフラーをきつく抱きしめた。


 身を震わせていると、ホテルの看板越しにあいつがいた。


「よう、よく眠れたか?」

「伊達……冷やかしかよ」

「ちげーよ。冷やかす理由がないだろ。それより、お前もう帰るのか?」

「ああ」


 ゆっくりと首を縦に振る。


「せっかくのカノジョとのひと時なのに、いいのかよ」

「……」


 俺は空を見上げた。秋晴れで空は青く澄んでいる。

 俺の心なんか、無視するように。


「ほっといてくれ」

「ほう。まあ、何があったかわからないけど、過去をなかったことにできたら、今はもっと良くなってたかもしれねーな」

「は?」


 伊達の言葉に俺は歩みを止めた。


「どういう意味だよ」

「昔、悲しい出来事が無ければ今はもっと幸せだったかもしれねえってこと」

「話の辻褄が合わないんだけど」


 伊達はいきなり俺に近寄ってきた。身を引く。


「お前、藤安にフラれたんだろ」


 奴は俺の心理を見抜いているがごとくにやついている。

 図星である。

 俺はため息をついた。


「フラれたわけじゃねえけど、思ってる以上に藤安さんのガードが固くてさ……」

「諦めたほうがいいんじゃね? 実質フラれたようなもんじゃん」


 俺は心が一気に熱くなった。やっぱり「諦めろ」とダイレクトに言われるのは胸に刺さる。

 しかし、理性で水をかぶせて鎮静化させる。


「まだわかんねえよ」

「まあ、見栄張るのはいいけど足掻いたって意味ないぜ? じゃあ、俺用があるから先帰るわ」


 伊達はにやけながらも手を振ってホテルをあとにした。

 入り口には俺だけが残された。


 俺はただ茫然と立ち尽くすだけだった。


***


 一方その頃、某所。


――そう、舞台の練習でね

――ちょうどいい機会よ? 来週行くんだけど

――あの坊やも呼んでくれない? まあ、絶対に来ると思うけど

――りょーかいっ


 女はぴょんぴょん跳ねながら部屋を出て行った。


――ついにこの時が来たようね。待ってなさい……貴女の全てを奪ってみせるから

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