第3話 逃がさない
「っきゃあああっ!」
木製の引き戸にもろにぶつかって、身体が跳ね返る。肩の痛み。でも、昨日と違って動ける。動けることに心から喜びながら、まだ目は
「ちょっと麻里……どうしたのよ!?」
扉を引き開けた勢いのまま、麻里は廊下に倒れ込んでいた。向かい側の壁にまた激突した痛みと衝撃で
「貧血? やだ、洗面台割れちゃうじゃない……」
ぱたぱたというスリッパの足音が麻里の傍らを通り過ぎて行った。そういえば、派手ながしゃんという音が聞こえた。ドライヤーが洗面台に落ちたなら、確かに陶器の台には傷がついてしまったのかも。でも、そんなことはどうでも良い。
「駄目……っ!」
駄目だ、そちらに行っては。入ってはいけない。
「どうしたのよ、本当に……?」
壁に張り付くようにして悲鳴を上げた
「何でも……ちょっと、寝惚けたのかも」
髪に手をやると、芯の方はまだしっとりと湿っていた。明日のセットを楽にするためにも、髪を痛ませないためにも、いつもならもっとしっかりブローしておきたいところだった。でも、そんなことができるはずもなかった。鏡の前に立つ。密室で、ひとりきりになる。どちらもあり得ない。耐えられない。
「スマホのやりすぎじゃない? 早く寝なさいよ?」
「…………うん……」
苦しい言い訳を、母親はとりあえず信じたらしい。でも、深く問い質されなかったとしても、麻里にとっては何の救いにもならなかった。
自分の寝室こそ、恐怖が始まった場所なのだから。
両親はもうそれぞれのベッドで寝ているらしい。家の中はしんと静まり返っていた。麻里もやはり自分の部屋にいる。ただし煌々と電気をつけたままにして、頭から毛布を被った姿で。目ははっきりと開いて、眠気なんて感じる余裕もない。
(お母さんたちが起きませんように……)
ぎゅっと自分の身体を抱きしめながら、切に願う。両親がトイレか何かで夜中に起きたなら、きっと夜更かしを咎められて電気を消されてしまうに違いないから。
昼間と変わらない明るさの中でも、窓の外には闇が広がっていると思うと何の心強さも感じられない。安心できるはずの自分の部屋でも、昨日はあんなことがあった。ついさっきも、
乾いてかさかさになった唇を舐めながら、麻里はスマートフォンを覗き込んでいる。ベッドの枕元のコンセントで充電しながら、この状況にまでも持ち込まずにはいられなかった。夜更かしの友人たちや、プログラムに従って定時に決まった画像や文章を流すbotの投稿で気分を紛らわせるため――だけでは、ない。
自分自身の荒い呼吸を聞きながら、痛いほど高鳴る心臓をパジャマの上から抑えながら、麻里はnorikoのホーム画面を開いていた。あのアイコンを見てしまうから、どうしてもできなかった。さっきの脱衣所の一件までは、まだ偶然だと信じたかった。でも、こうなったら認めるしかない。昨夜からの恐怖は、このアカウントをフォローしたのが原因だ!
自分のスマートフォンの画面に触れるのが、こんなに怖いと思うことがあるとは思わなかった。norikoの投稿の数々だって、最初にちらりと確認した時と同じ、可愛らしいものばかりなのに。
(もう、やだ……!)
あのアイコンも、norikoの名前も、もう見たくないし考えたくなかった。だから麻里は、息を詰めて思い切って、「ブロック」を選択しようとした。そうすれば、フォロー関係は解除されるはずだから。でも――
「なんで……!?」
親を起こさないよう、抑えた声で悲鳴を上げる。何度画面をタップしても、壊れてしまったかのように何の反応もしない。でも、スマートフォンの故障という訳ではない。だってその証拠に、通知は正常に表示されている。
norikoさんからメッセージが届いています、と。
――させないよ。
その文章を認識した瞬間、スマートフォンを投げ出そうとして――ギリギリのところで、麻里は思い留まった。毛布から手足を少しでも出してしまうのは、怖い。こんな、彼女が何をしているかを見通しているようなメッセージが来ているのに。
くすくすと、笑う声が聞こえた気がして麻里は身震いした。実際に聞こえたかどうかは分からない。でも、norikoはきっと笑っている気がした。狂ったようにスマートフォンの画面を叩く彼女のことを。文章の後ろについた、可愛いはずの絵文字からそんな印象を受けるのだろうか。いたずらっぽく、麻里のパニックを笑っているのだ。
――だめ。逃がさない。
満面の笑顔の絵文字に、でも、麻里の目から涙が伝う。メッセージの通り。何度画面をタップしても、norikoをブロックすることはできない。
また、脱衣所で感じた冷気が忍び寄ってきていた。毛布に包まって、暑いくらいだったはずなのに。これ以上やっていたら、きっと
「しない……しない、から……っ!」
画面の向こうの相手に、画面のこちら側で語りかけるのは、本当ならおかしいのだろう。でも、今の麻里にそんなことを考える余裕はなかった。ただ、大声を出さないように――それによって親を起こして、電気を消されて、暗闇の中で夜を過ごさなければならないことだけを恐れていた。それに、彼女に手を伸ばそうとしているかのような冷気も。だから口元を片手で覆って、くぐもった涙声で懇願する。
「来ないで……お願い……」
スマートフォンを胸元に抱き締めて縮こまる。目も閉じて、毛布が透けた向こうに何かの影が見えたりなんかしないように。新しい通知が来ているのが、目に入ったりしないように。
それでも、すぐ傍を
見えない――直視できない気配に怯えながら、麻里は朝までの長い長い時間を息を殺して過ごした。
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