終章

川村陽菜子 闇の中へ

 陽菜子ひなこも、その公園のことは知っていた。名前と場所と、何となくのイメージと。春の花見シーズンに、夏は花火。人が集まるイベントがテレビで紹介される場面は何度か観たことがあると思う。そういう時は、たとえ夜でも沢山の人がいて賑やかだったし、テレビ用の照明のお陰か、暗いだなんて思うことはなかった。でも、考えてみれば、それは明るい家の中で見るからこそ、だったんだろう。テレビ画面で切り取られてしまえば、夜の闇も恐れることはない。でも――自ら闇に足を踏み入れるとなれば、また話は変わってくる。


「こんなに、暗いの……?」


 誰かが呟いたことは、その場の全員の想いを代弁していた。誰の声かは、分からない。というか、どうでも良い。

 美月みづきというリーダーを喪った陽菜子たちのグループは、もう誰が誰でも同じようなものだ。それぞれに名前があるし、顔も性格も違うはずなのに、その違いを意識することがどうもできない。美月が死んでしまって――その後に、あまりにも色々なことがあったから。恐怖と混乱で頭がいっぱいになってしまって、考えるだけの余裕がない。

 だから、皆して寄り添って押し合って、公園の入り口で怖々と闇を覗き込んでいる。ドキュメンタリーで見た、弱い動物の群れみたい。羊とか、サバンナの鹿みたいなのとか、南極のペンギンとか。ああいう動物は、強い肉食獣が来たら仲間の誰かが食べられてる間に逃げるしかないんだ。そんなことを思いついてしまって、背筋にぞくりとした冷気が走る。


(転んじゃったりしたら……どうなるの……?)


 暗闇の中に一人取り残されて、遠ざかる皆の足音を聞く――そんなところを想像するだけで頭がおかしくなりそうだった。息も呼吸も浅く、早くなって。周りの皆の息遣いも同様だから、余計に息苦しくて、闇に喉を絞められているかのよう。


 闇――そう、とにかく暗い。大きい道路に面したこの場所ならまだ明るいけれど、その分、木々に囲まれた公園の中の闇が一層濃く見える。誰も、懐中電灯が必要かも、なんて思いつかなかった。内部にも街灯くらいはあるだろうけど、圧倒的な闇の質感の前には心元なさすぎる。


「でも、行かないと……」


 これもまた、皆の総意だろう。陽菜子たちが草食動物の群れだというなら、捕食者の牙は確実にすぐ背中に迫っている。美月がいなくなった後、このグループを率いているのは――のりこさん、だ。姿は見えなくて、スマートフォン越しの、SNSを介しての繋がりでしかないけど。のりこさんは、今も陽菜子たちを見張っている。


 のりこさんの機嫌を損ねたら何が起きるか分からない。美月みたいに殺されてしまうかもしれない。それは、夜の闇よりも怖いことだ。この闇の中では、もしかしたらさらにもっと怖いことが待っているのかもしれないけど――それでも、行かないという選択肢はなかった。のりこさんは、それほど深くしっかりと、美月以上に、陽菜子たちを支配している。


 光を背に、闇の中へ進む。その瞬間、陽菜子の頬を涙が伝った。




 ――まだ許してないよ。逃がさないからね。


 美月の告別式が行われていたあの葬儀場の片隅で。のりこさんからのメッセージを受け取った陽菜子たちは甲高い悲鳴を上げていた。静かな啜り泣きやひそひそ声だけが流れていた会場にその悲鳴はとてもよく響いて、周囲の人たちの目を惹いてしまった。


『高校でのお友達だね? 落ち着いて、……ありがとう、そんなに……』


 駆け寄った大人たちの中には、こんな時に騒いで、という感じで眉を顰めている人もいた。でも、陽菜子たちを叱る前に、真っ先に声を掛けてくれたのは美月の――お父さん、だった。美月の死を悼んで声を上げて泣いてしまった、とでも思われたんだろう。自分自身も目を潤ませて別室に案内してくれたその人を前に、陽菜子たちも周りの人たちも、何も言うことはできなかった。

 取り乱してがたがた震えて、ろくに口も利けないで涙を溢す陽菜子たちは、明らかに様子がおかしいと思われたんだろう。美月の両親はタクシーを呼んでくれて、それぞれの自宅まで送り届けてくれた。お互いに一緒にいたいと手を握り合うのを、やんわりと引き離されて、宥められて。車に乗せられてしまっては逃げることもできず、陽菜子たちは自宅に帰るしかなかった。自分の部屋でも安心できない、自分の親だって頼りにはならないというのに。一番怖いスマートフォンを、ずっと手元に置いておかなければいけないというのに。


 怖いことは、スマートフォンを介して起きたのに――陽菜子は、それを覗き込まずにはいられなかった。少なくとも夜の間は、そうすることしかできなかったから。朝になれば、学校で他の皆と直接話すこともできたんだろうけど。多分、他の皆も陽菜子と同じように息を潜めてスマートフォンを、SNSでの動向を見つめていた。のりこさんの発言に対する反応が、どうなっているのかを。

 皮肉にも、というべきなのかどうか。のりこさんのアカウントさえ見ていれば、SNS上でどんな反応が起きているかは手に取るように分かってしまった。


 ――この子って事故死?病死?自殺だったりしたら…

 ――どうせなら死んだとこ実況してくれれば良かったのにw幽霊ならできるでしょww

 ――うーん、女子高生の死亡記事が見つからない。事件性はなかったのかなあ?

 ――のりこさんごっこしてた他のJKは?保護してあげた方が良いんじゃないの?


 陽菜子たちを心配してくれたのかもしれない書き込みも、彼女を震え上がらせるだけだった。注目なんてされたくない。特定されたくない。美月は、から殺されてしまったのに。そっとしておいて、話題に出さないでほしかった。でも、そんなことをSNSで叫ぶ訳にはいかなかった。その悲鳴自体が、更なる注目を引き寄せてしまうのは目に見えていたから。何より、のりこさんはもうすでにフォロー関係という鎖を通して陽菜子たちをしっかりと縛り付けて捕まえていた。


 顔色の悪い陽菜子を心配して、母親は学校を休んでも良いと言ってくれた。それが良いのか悪いのかは分からなかったけど。家に引き籠っていられるのは良かったかもしれないけど、皆と直接会うことができなかったのは悪いことだったかもしれない。会ったところで、どうしようと言い合うことしかできなかったかもしれないけど。

 とにかく、カーテンを閉め切った部屋の中で、陽菜子はずっとスマートフォンに齧りついていた。いつもなら叱られたかもしれないけど、場合が場合だからか母親は何も言わなかった。友達と慰め合っているんだろう、と思っている気配もあったし。実際は、陽菜子たちの間でメッセージのやり取りはほとんどなかったんだけど。ただ、ある子が「紹介」を試したけどのりこさんはフォロー解除してくれなかった、と報告してきた。それで陽菜子は、のりこさんの気はまだ済んでいないことを思い知らされた。


 そしてまた夜になって、呼びかけがあった。


 ――○月○日、××公園に△時。皆来てね☆彡


 のりこさんがその投稿がした瞬間も、陽菜子は捉えてしまった。そして悲鳴を上げそうになって、慌てて唇を噛んで呑み込んだ。「皆」の中に自分も含まれている――のりこさんからの招待だと、思ったから。


 ――行かなきゃダメだと思う?

 ――夜だよ。真っ暗なのにやだよ。

 ――塾の日なのに。

 ――何があるんだろう?


 グループの子たちも、同じ瞬間にスマートフォンを見つめていたのが、一斉に届いた通知で明らかになった。陽菜子自身が指を動かして送ったメッセージも、その中にはあった。指定の公園が行こうと思えば行ける距離で、塾や部活も、サボろうと思えばサボれるからこそ、どうしたら良いか分からなかった。もちろん、できることなら行きたくはなかったんだけど――


 ――皆にも言ってるんだよ。絶対、来てね^^


 のりこさんは、にこやかなトーンでダメ押しのメッセージを送ってきた。来なかったら分かっているな、と。言われる必要もないくらい分かってしまった。静かに目を閉じていた美月の死に顔が、やけに青白い頬や目蓋が、陽菜子の脳裏に蘇ったから。


 ああなりたくなかったら、従うしかないのだ。




「暗い……」


 呟いた声が、夜の中に消えて行った。大通りの光が消えると、公園の中の暗さは想像以上だった。陽菜子たちの足音も息遣いも、闇に吸い込まれて呑み込まれていくよう。あるいは塾を、あるいは部活をサボって。それか、友達と会うと嘘を吐いて。陽菜子たちはこの公園に集まった。


「人、結構いるのかな……」

「そうみたいだね」


 抑えた声で囁き合うのは、何もかもが怖いからだ。暗いのも、のりこさんも。闇の中に感じる、他の人の気配も。生きている人間だからって安心なんてできない。たまたま通りすがった人もいないではないのかもしれないけど、今夜ここに来ているということは、のりこさんのフォロワーかもしれないんだから。拡散された美月の画像を見て、面白がっていたような人たちだ。その人たちにだって、見つかりたくないのは変わらない。


 ――そよ風の広場だよ。早く来てね。


 スマートフォンの画面がこんなに眩しいものだなんて、陽菜子は今夜初めて知った。目立ちすぎるんじゃないかと怖いくらいの青白い輝きに浮かぶのは、のりこさんからのメッセージだ。公園内に幾つかある広場のひとつへ、陽菜子たちを――フォロワーたちを導いている。


 足元を探って進みながら、絶対に間違ったことをしている、取り返しのつかないことをしているという感覚が陽菜子の胸を締め付けていた。

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