第6話 二度目の死

(何なの……何これ……!?)


 頭の中を嵐が荒れ狂っている、と思った。ばくばくという心臓の鼓動も、こめかみに感じる血管の熱さも、激しい雨風のようで。朱莉あかりにそんな混乱をもたらす元凶は、ひとつではない。

 まずは、視覚。目に入るもの。パソコンのモニターに立ち上げたウェブブラウザ、そこに表示されたSNSのプロフィールページ。彼女は確かに洋平ようへいのアイコンをクリックして、彼のページを訪れたはずなのに。

 洋平の日頃の投稿は、彼が日常食べたものや行った店、読んだ本の感想が多かった。後はぼかした仕事の愚痴や面白かった出来事、友達や――朱莉とのエピソード。もちろん個人を特定できる具体的な固有名詞はある程度ぼかしていたけれど、投稿やアイコンを一瞥するだけで若い男性のアカウントだと容易に判別することができただろう。朱莉の記憶によると、確かにそのはずだったのに。


(これが……のっとられる、ってこと……?)


 洋平のアイコンは、彼がプライベートで使っていた黒いフレームの眼鏡だ。太めのデザインは明らかに男性ものだし、背景の机の色も暗めのもの。そのアイコンが投稿している内容は、なのに、ひどく可愛らしいものばかりだった。花や子猫や、華やかなスイーツ。男性が、低い声やがっしりした体格で女言葉を喋っているところを見るかのような違和感がある。ううん、そんな捉え方をするのは差別になるのかもしれないけど。でも、尊重すべき趣味や嗜好や性自認ジェンダーの問題ではなくて。これじゃまるで、洋平が全く違う人格になってしまったかのようで――不快、だった。彼はもう死んでしまったのに、彼のアカウントはいつまでも活動を続けている。しかも、彼が投稿するはずのないことを垂れ流している。


(のりこさんにのっとられる……!)


 そしてまた、norikoだ。洋平のアカウントは、発言を自ら投稿するだけでなく、他のアカウントの同じような投稿を共有・拡散してもいる。話題になバズっているのであろう、四桁の「いいね」がついた投稿もあるけれど、目立つのはnorikoというアカウントが発したものだ。さほど注目を集めるような呟きでもなさそうなのに、画面をスクロールさせてみるとやけに目につく。のりこさんの目的は拡散してもらうことだ、という洋平の推論が朱莉の脳裏を過ぎる。


(モデルの人も、こうなったんだ……)


 洋平と最後に会ったあのバーで、のりこさんの話をしていた彼はかなり興奮していたようだった。あの時の朱莉は、それを下世話な野次馬根性だと思い込んでほとんど聞き流してしまっていた。でも、洋平も違う人のアカウントがなったのを見て、この違和感を強烈に感じたんだろう。たとえ女性のアカウントだったとしても、投稿する内容や傾向が突然変われば――心霊画像騒ぎもあったというし――異様さを見逃すことなんてないだろう。


 彼の話をもっとちゃんと聞いて分かってあげていれば、という後悔が改めて胸に押し寄せる。洋平のアカウントをのっとる――まるで、彼の死を弄ぶかのようなのりこさんに不快と怒りを感じる。洋平の死後の日付の投稿に目の奥が熱くなる。それはどれも本物の感情で朱莉の頭を揺さぶっている。でも一方で、ある種の現実逃避でもあった。


 朱莉を混乱させている、もう一つの理由は触覚だ。肌に、首筋に感じる異様な冷たさ。室内で、こんな急激な気温の変化があるはずがない。しかもこの冷気は、朱莉が洋平のアカウントにアクセスした、その瞬間に現れたのだ。


 。朱莉の背後に、絶対に。何かがわだかまっている。


 朱莉がパソコンのモニターを見つめているのは、脇を見てが何かを確かめたくないからだ。首筋の冷気は、刃物を突きつけられているようにひりひりと感じられる。洋平のスマートフォンに残っていた動画を見た今なら、ありありと想像できてしまう。朱莉の背後に、ぴったりと貼りつくように佇む白い女の姿が。朱莉を覗き込むようにして、今にも視界の端にあの白い影が見えるのではないかと思ってしまう。だから、努めてモニターだけを見るようにしているのだ。


 でも、あの女の方ならまだ良いのかもしれない。あちらなら、まだ意思の疎通ができていたようにも見えたし、消して欲しい、なんて伝えて来ていたんだから。


(パソコン……つけちゃいけなかった……!?)


 背後の気配に帯びるだけではない。もうひとつの脅威もあったことを思い出して、朱莉の心臓を恐怖が鷲掴みにする。マウスを握る手が震えて、冷汗で滑る。洋平を襲ったのは――そして多分、彼の命を奪ったのは、白い女の影ではなかった。パソコンから生え出たかのようなが、彼を襲ったのだ。それも、今まさに彼女がしているように、SNSでnorikoに接触している時に!

 迂闊だった。気になったからと、すぐにネットに接続してはいけなかった。SNSを徘徊する幽霊で、人を殺した存在だと知っていたのに。手の震えによってポインタの定まらないマウスを操作して、朱莉がブラウザの右上の「閉じる」アイコンをクリックしようとした、その時だった。

 洋平のアカウントに、新着の投稿が表示された。それは、短くひと言。


 ――何見てるの?


「ひゃ……!」


 悲鳴を上げてのけぞると、朱莉の背は冷気に受け止められた。前には白い手を操っているのかもしれない謎の存在。後ろには死んだ女性の幽霊。前後を怪奇現象に挟まれて、朱莉のパニックは加速する。洋平と違って、コメントを送った訳でもないのに――どういう訳か、のりこさんは、彼女の存在に気付いているのだ。


 ――スマホ持ってる? 消しに行くね。


 なぜ、どうして、と。泣き喚きそうになった朱莉の目に、また新しい洋平の投稿が入ってくる。洋平の、というか、のっとったnorikoのもの、ということになるのだろうけど。


(洋平の携帯があるから、なの……!?)


 ちょうど疑問に思ったところを、説明してくれたかのようなコメントに、ほんの少しだけ冷静さが蘇る。洋平のものだったスマートフォン、のりこさんの姿を撮影し、白い手に弾き飛ばされたそれは、彼女たちからすればGPSでもついているかのように見えるのかもしれない。

 そして同時に、消しに行く、というコメントを見過ごすことはできない。洋平が、窓を割ってスマートフォンを投げ捨ててまで部屋の外に出したのは、白い手に奪われるのを避けたためだと思うから。のりこさん――武井たけい法子のりこのメールアドレスと、幾つかのメッセージが遺っているスマートフォンは、きっと、norikoにとってはこの世にあってはいけないものなのだ。


(アカウントを、消せば……!?)


 洋平が遺してくれたものを無にはしたくない。その一心で、朱莉の脳はかつてない閃きを見せる。自身のアカウントを消して欲しいという武井法子と思われる女の願い。亡くなったモデルは、SNSのアカウントを消されたことで異常はとりあえず見られなくなったとか。それなら――


「こっちから、消してやる……!」


 マウスのポインタを素早くずらすと、朱莉は自分のアカウントからログアウトした。すると現れるのは、SNSのログイン画面。入力しようとキーボードに手を伸ばすと、でも、画面が遮られる。


(来た……!)


 画面の読み込みにかかったほんの数秒を突くかのように現れた、白い手によって。白い手の出現は部屋の気温を一層下げる。一方で朱莉の背は冷汗で濡れる。白い指が伸びて朱莉の首に掛かる。でも、無駄な抵抗だ。


 洋平のアドレスと、朱莉も傍らでよく見ていたパスワードを入力するのに、画面もキーボードも見る必要はないんだから。

 白い手が触れたところから体温が持っていかれると、貧血のような感覚が全身を襲う。それでもどうにか入力を終え、朱莉はエンターキーを叩いた。すると、洋平のプロフィールページが再び現れる。今度は閲覧者として見るのではなく、がログインした状況となって。


 次の目的のページに辿り着くには、ログインよりも苦労が必要だった。白い手に体力を持っていかれて、視界を遮られて。マウスを再び持った手も、思うように操作できなくて。でも、一瞬だけ視界が晴れた。モニターから現れた方じゃない、もう一対の手が背後から伸びて、邪魔者を払いのけてくれたのだ。

 だから、朱莉は無事に設定画面を開くことができた。更に一番下にごく小さく表示されたアイコンにポインタを移動させる。今までは意識したこともない場所――アカウントを削除する、というアイコンだ。


「消えろ……っ!」


 叫びながら、マウスをクリックさせる。確認のメッセージもろくに見ないで、闇雲に、何度も。パスワードの再入力を求められるのが面倒で、再び襲おうと迫る白い手を首を振って交わしながら、キーボードを叩く。最後にもう一度、確認画面で「削除」を選ぶ。


 退会しました、の素っ気ないメッセージがモニターに表示された途端、部屋の空気は緩んでいた。白い手はもちろん、白い女も消えた、のだろう。振り返って確かめるまでもなく、背後からの気配は消えていた。


「はあ……っ!」


 朱莉の口から、息の塊が漏れる。恐怖に遭遇してしまったことへの緊張、そして、それからどうやら助かったことへの安堵が、彼女の息と鼓動を乱していた。それを落ち着けるために、深く何度も深呼吸する。


「洋平……」


 そして最後に湧き上るのは、やっぱり悲しみと後悔だった。


 のりこさんに乗っ取られたといっても、投稿をさかのぼれば洋平本人の発言も沢山遺っていたはずだったのに。彼の日常や考えていたこと、撮影した動画や画像。それらは彼の一部で、朱莉も後で眺めて思い出に浸ることができたかもしれないのに。長谷川夫妻に、彼の形見として渡すべきものだったはずなのに。


 のりこさん――あの、白い手によって洋平はまた死ななければならなかった。朱莉にはそう思えてしまったのだ。

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