第9話 彼女への遺言

「やめろ……来るな……」


 迫りくる白い手から逃れようと洋平ようへいは手を振った。自分の意思で振る、というよりは、辛うじて掲げた腕が力なく落ちる、という程度の動きだったけど。もうダメだ、と悟ってはいても怖いものは怖い。理屈では分からない怪奇現象も、自分が死ぬ――殺されるということも。出ることはできない狭い密室の中、芋虫みたいにみっともなく床を這いずってできるだけから距離を取ろうとする。でも――


(なんだ……?)


 手は、真っ直ぐに洋平を狙ってはこなかった。彼を絡め取ろうというのでも抑えつけようというのでもなく、手の中のスマートフォンを目掛けて迫ったそいつを、洋平は咄嗟に身体を丸めて避けた。こんな場合であっても、スマートフォンを守らなければ、と思ってしまったのは多分滑稽なことなのだろうけど。

 転がったところに、白い手がまた襲ってくる――やはり、彼の手元を目掛けて。手は、洋平自身ではなくスマートフォンを狙っていると考えて間違いなさそうだった。だが、どうして?


武井たけい法子のりことは別の存在で……狙いも、別……?)


 パソコンのモニター越しにのりこさんとメッセージのやり取りをしたのが、もう遠い昔のことのようだ。まるでふたりの人間がひとつのアカウントを使っているようだ、と思ったけど――実際、のりこさんという現象はふたつの意志によって構成されているのではないだろうか。すなわち、SNSに現れる女の幽霊と、関わったアカウントに感染し、その主を死に至らしめる、と。


 武井法子らしき幽霊は、norikoのアカウントを消したがっている。それなら――彼女とは違う思惑を持っているは、消されたくない、のだろうか。


 武井法子からのメールに記載された、誰とも知れない人の名前。それは、今の洋平にとっては何の意味もない、というか活用しようがない情報だ。でも、辻隆弘とかいう人物は、生前の彼女の知人なのかもしれない。彼女がパスワードに使うような数字や単語に心辺りがある人物だとしたら。武井法子は、彼を探せと言っているのだ。


「これを、消したいのか……」


 床に肘をついて半身を起こし、メールを開いた画面で、スマートフォンを白い手に掲げて見せる。すると、獲物を見つけた蛇さながらの早さで襲って来る。パソコンのモニターから、もうどれほど伸びているんだろう。それか縮んだりもしているのか。とにかく生きた人間の腕ではあり得ない動きは蛇の喩えがぴったりだろう。


(どうすれば良い……!?)


 紙一重のところで腕の襲撃を躱しながら、洋平は必死に脳を働かせた。もはや避けられないであろう死に怯えるよりは、謎を解こう、真実に迫ろうと足掻く方が、少なくとも怖くはなかった。その好奇心と探求心、あるいはもっと俗っぽく言えば野次馬根性こそが、彼をこの状況に追い込んだのだろうとは思うけど。


 洋平が思い浮かべるのは、葉月はづき千夏ちかの主を亡くした後のSNSアカウントの有様だ。のりこさんにのっとられたとしか思えないような投稿の数々からは、のりこさんは接触したアカウントに干渉できる、ということなのだろう。でも、多分、SNSの外に対してはは無力で、だからこそ物理的にスマートフォンを破壊しようとしている……のだろうか。


「ヒント、なんだよな……!? パスワードそのものは、教えてくれないのか!?」


 首を捻って、今度は武井法子の方を向いて、怒鳴る。と思われる、なんてまどろっこしい但し書きなんてつけていられない。急な動きに、貧血のような目眩にも襲われるけど、それに構ってもいられない。白い手が迫る中で、残り少ない時間で何ができるかの方が大事だった。


(わ……!)


 また急角度で襲ってきた白い手を避ける洋平の、視界の端で武井法子がふるふると首を振るのが見えた。ぱくぱくと開閉する口が訴えることは分からないけど、手の猛攻で何となく悟る。パスワードそのものを教えられたりしたら、手の攻撃はもっと激しくなるんだろう。どうにかしてメールの情報を後に遺そう、なんて考えることができるのも、手がまだ油断しているからだ。スマートフォンを壊す、というよりは、洋平の手から離れさせたいだけなのかも。それで、彼をした後にゆっくりスマートフォンも、とか。


(転送? どっか保存できるか……?)


 手の攻撃を躱すべく転がりながら、薄く透けた手足を振り回す武井法子の援護(?)も受けながら、洋平はメールの転送ボタンをタップした。誰でも良い、この貴重な情報を転送して、それから時間と彼の体力が許せば、事情を説明できれば良い。


「あ……」


 一番少ない操作数で、と思って送信履歴からアドレスを呼び出そうとした洋平は、でも、表示された名前を見て、指を止めて吐息を漏らした。


 あかり。


 毎日のようにメールやメッセージをやり取りしているのだから、当然と言えば当然だったけど。彼女の名前を前にすると、洋平はどうしても送信ボタンをタップすることができなかった。だって朱莉あかりはSNSでも彼と繋がっている。のりこさんの仕組みが完全には分からない以上、朱莉にのりこさんを消すヒントを送ることで、彼女を危険に巻き込むことにはならないだろうか。朱莉は、のりこさんの噂に興味がない様子だった。ブロックしてはいけない、とか。を知らないままフォローされたら――いや、そもそもこのが彼女のもとにも現れるかもしれないのだ。


(ダメだ……!)


 不満もあったし喧嘩もした。でも、だからといって嫌いかどうかというと話は全く別だった。大体、洋平こそ朱莉にとっては不満だらけの彼氏のはずだった。彼をここまで突き動かしてきた探求心は、脳内に浮かんだ朱莉の笑顔の前に、萎んでしまった。彼女と行った場所、食べたもの、話したこと――思い出が走馬灯のように駆け巡り、洋平の目の奥が熱くなる。

 洋平は、転送メールを破棄すると、代わりに短い文面を打ち込んだ。


 ――色々ごめん。好きだった。


 だった、と。ごく自然に過去形にしてしまったのが切なかった。突然こんなメールを送られて、彼女はさぞ驚き怒るだろうに。それとも悪戯とでも思われるだろうか。それも、彼への信用がないからだけど。

 メール送信に成功したとの表示を確認して、洋平は軽く息を吐いた。安堵のものなのか、今度こその諦めのものか。少なくとも、死ぬ前にやるべきことは成し遂げられた。


 後は、に対してどれだけ抗えるか、ヒントを後に遺すことができるかどうか、だ。


「怒ってるな……?」


 武井法子を突き飛ばすようにして襲って来る手を前に、洋平は薄く嗤った。彼がヒントをどこかに転送したと勘違いして激昂したのだろう。的外れな誤解をしてやがる、と思うとほんの少しだけ愉快だった。

 手で床を探り、丸く硬いものを掴む。水晶玉だろう。ネットで買った程度のものでも、除霊だか退魔だかの力があるのは証明済だ。投げつければ、多少の時間稼ぎにはなるだろう。の方でも痛みを感じるのかもしれない、視覚なんてあるはずないのに洋平の動きを警戒するような動きを見せている。水晶玉を握りしめて手を振り上げても思ったように上がらなくて、コントロールが効くか怪しかったけど――やるしかない。


「くらえ……っ」


 やや頼りない、ひょろひょろした弧を描いて飛んだ水晶玉を、白い手はあっさりと躱す――洋平の、思った通りに。彼が狙っていたのは、手の後ろ、例によってお札を貼っておいたガラス窓だ。硬度とか靭性とか、物理の話は分からないけど、現実に起こる結果はごく単純だ。つまり、ガラスに水晶をぶつければ――割れる。


 派手な音と共に窓には亀裂が入りぎざぎざの穴が開いた。そして何より重要なことに、お札を貼った部分は無事だ。紙を貼ったことが補強になっているんだろう。


(今だ……!)


 最後の力を振り絞って窓に這い寄り、窓枠を掴んで上体を引き上げる。ガラスの尖った欠片が皮膚を傷つけるのに構わず、スマートフォンを掴んだ手を、窓に開いた穴に近づける。もちろん、のりこさんに取り憑かれた状態の洋平の手は、お札に弾かれてしまうけど――


(やったっ!)


 スマートフォンは、思った通りに穴から窓の外へと落ちて行った。慌てたようにも追いかけるが、お札が通さない。洋平と同じように弾かれて、悲鳴を上げるように悶えている。


「はは……ざまあみろ……」


 笑いながらその場に崩れ落ちる洋平に、手が八つ当たりのように迫って来る。それをぼんやりと眺める彼が思うのは、投げ捨てたスマートフォンのことだった。プラスチックのケースに入れて、画面には保護シールを貼ってある状態で、彼の部屋はマンションの二階にある。窓の下はちょうど植え込みになっていたはずだけど、うまい具合に葉っぱや土のところに落ちただろうか。アスファルトのところに落ちて破損したりしていないと良い。もっと言うなら、誰かが室内にスマートフォンがないのや窓に穴が開いているのを、ちゃんと不審に思ってくれるだろうか。あれが見つからないと、彼が殺される意味もなくなってしまうのだ。


(朱莉が……見つけてくれる、か……?)


 さっきは巻き込みたくないと思った癖に、勝手なものだ。洋平は、朱莉に彼の欲求を理解してもらいたいとまだ願っている。この件に彼が傾けた熱意や好奇心、真実を求める思いを。


(ああ、でもやっぱり無事でいてくれ……!)


 メールをもう一通くらい送っておけば良かった。のりこさんには関わるな、とか。思いつかなかったのは――切羽詰まっていたからか、朱莉が遺志を継いでくれるのを無意識に期待してしまったのか。


 朱莉のことを考えると胸が苦しくなった。でも、それもすぐに終わるんだろう。洋平の視界一杯に、白い掌が迫っていた。

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