第8話 私を消して
スマートフォンは、すぐに
「くそ……っ」
腕に絡みつかれたところから、
指先と爪先だけの力で、全身を引きずるように這いながら、洋平には扉に貼ったお札が彼をも弾き出した理由を何となく悟っていた。一体誰が言い出したのか――のっとり霊ののりこさん、の評判は、伊達でも誇張でもなかったのだ。
(
抜き取られる何かと引き換えに、洋平の頭の中に知らない風景が流れ込んでいる。どこかの会議室と思しき場所、
インタビューなんかをするまでもなく、のりこさんが何なのか、これから何をされるのか、洋平は理解させられているのだ。それはつまり、彼もあの世に引きずられつつとあるということ。彼は既に半分死んだようなものだということ。霊験あらたかな――ネット通販で手に入るとはいえ――お札は、彼の異常さをきちんと判別してくれたのだ。
こうなっては、電波は霊的な何かの干渉を受けないだろうと望みを繋ぐしかない。そもそものりこさんからして、ネットを介してあちこちに出没しているらしいのだから、的外れな期待ではないだろうと思いたかった。
(あと、ちょっと……!)
穴の開いた器から水が漏れ出るように、洋平の中から力が喪われていくのが分かる。腕を指を伸ばし、薄いスマートフォンを手繰り寄せるだけの動作でさえ息を切らせてしまう。でも、とにかく、やっと届いた。かさかさとして滑る指で画面をスワイプし、ロックを外す。メールアプリを立ち上げて、新着のメールを確認して――
(また、norikoかよ……!?)
送信者のアドレスを見て、洋平は絞り出すような溜息を吐いた。白い手に精気を吸い取られているからだろう、息をするのさえ意識しないとままならくなってしまっている。常に酸欠のような息苦しさと目眩がする中で、無駄なことをしてしまった。でも、norikoと、誕生日だか何だかの数字の並びを見ると、落胆というか絶望せずにはいられなかった。結局これも怪奇現象の一環、逃げ場がないと突きつけられたも同然だった。そして肝心のメールの中身も、さっぱり意味が分からない。
――私を消して
のりこさんに消えて欲しいと、誰より洋平が切望しているはずだった。
「……どうしろってんだ? どうすれば、消えてくれる……!?」
叫ぶことはできない代わり、洋平は声に出して愚痴った。酔っ払いが管を巻くような泣き言を、部屋の中に佇む女の影に投げつける。スマートフォンの小さな画面をタップしてメールだかSNSでやり取りするようなまだるっこしい真似はできなかった。白い手は今も彼に巻き付いて、絞め殺そうとしているのだ。
もっとヒントを、はっきりとした情報を、と。這いつくばって強請るのに、女はふるふると首を振るばかり。髪や服が揺れることが全くないのが、この世の存在でないとダメ押しのように教えている。
「……声は、出ない? 通じない……?」
呻くように尋ねると、女は全身を使うようにして頷いた。表情が目に見えて明るくなったのが、意外と可愛いな、と思ってしまったり。多分、若い人生の盛りに死んだ人ではあるのだろう。そんな子が、一体どんな死に方をしたのか――感傷的な疑問を抱いた隙を突くように、スマートフォンが立て続けに震えた。
――アカウント
SNSでのコメントを思い出させる、ごく短いひと言。ついで、URLだけを記載したメールが続く。見覚えのありすぎるアルファベットの並びに、どのサイトかは見当がつく。SNSの、ログイン画面だ。
(自分のアカウントを消してくれ、って……? メールを送ったのは、このアドレスで登録したってことか……?)
酸素の回っていない脳で、洋平は必死に考える。これまで調べてきた色々な情報が、結びつくような気がしていた。ジグソーパズルのピースが嵌った時の快感が、すぐそこまで近づいているような。自分はもう助からないと、何となく思うからこそ、せめて真実に近づきたい、なんて――そんな酔った考えこそ現実逃避なのかもしれないけど。
白い手が触れたところから流れ込んでくる映像は、多分
のりこさんという幽霊、都市伝説、あるいは現象が、前髪で顔を隠した女の姿で語られるのは、norikoというSNSのアカウントが存在するからだ。一方で葉月千夏のアカウントは既に削除されている。norikoに関する投稿ばかりを繰り返していた末期の様子は明らかに異常で、のっとられたという表現が相応しいものだったから無理もない。
(のりこさんはSNSを介して取り憑く……なら、アカウントが消えれば……?)
葉月千夏のアカウントを削除したのは所属事務所か遺族か、いずれにしてものりこさんのことを知っていたとは限らないけど。結果的に、彼女の魂を救ったことになる、のだろうか。武井法子も、同じように救済を求めているのだろうか。
つまりは、彼女はまた洋平の質問に答えてくれたのだ。どうやって助ければ良いのか、というものに。
「パスワード……?」
彼女の意図は分かっても、でも、情報はまだ十分じゃない。アカウントを削除するにはログインした状態でなければならず、それにはメールアドレスのほかにパスワードも必要になる。掠れた声で、ほとんど唇の動きだけで短く尋ねると、女の幽霊はまた微笑むと頷いて、洋平のスマートフォンを指し示した。同時に手の中でスマートフォンが跳ねる。答えはやはりメールでくるのだ。
白い手から逃れようと、せめてもの抵抗として床を転がりながら、メールを開く。そして本文を見た洋平は、危うくスマートフォンを放り出すところだった。のりこさんから来たメッセージの中でも群を抜いて短く、そして意味が分からない文字列。
――辻隆弘
「何だよ……分かんねえよ……」
人の名前だ。漢字はもちろんパスワードにはなり得ないし、どこの誰かも分からない。この状況を解決する――のりこさんを退散させる手掛かりには、ならない。
(これで、終わりか……!?)
初めから幽霊との対話なんて無駄も良いところだったのだ。余計な好奇心で首を突っ込んで、取り殺されることになるなんて。
ぐったりとして仰向けに横たわると、視界の端から白い手が忍び寄って来る。
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