エピローグ
矢野朱莉 歩いていく
改札を出た
「
声の方を振り向くと、
「すみません、お待たせしましたか?」
「いえ、勝手に先に来てないと、と思って。こっちの方が分かってますから」
軽い挨拶を済ませると、辻氏はこっちです、と言って朱莉の前に立って歩き始めた。彼が言った通り、案内は任せるのが良いだろう。何しろこの駅は彼の実家があるのと同じ市内、初めて訪れた朱莉よりもよほど土地勘があるだろうから。
辻氏の地元ということは、すなわち
「バスに乗って行くんですよ。ちょっと駅前を離れると結構原っぱだけなんで。霊園が、あるんです」
「お墓って、こんなに早くできるものなんですね」
「武井さんちのお墓、ですね。あいつのおじいさんが亡くなった時に建てたそうです」
駅前のロータリーでバスを待つ人の列に並びながら、そんなことを話す。他愛ない雑談、というにはやや陰りのある話題ではある。でも、のりこさんのこと――SNS上の怪談にどう立ち向かうか、なんて話をしていた頃と比べると、格段に平和なやり取りではあるだろう。
のりこさんと対峙したあの夜から、もう一か月半も経っている。
あの夜、朱莉はもうダメだ、と思った。襲い来る白い
恐る恐る目を開けて見れば、ぽつぽつと点る街灯に照らされるのは、ただの夜の公園だった。そこここに倒れる人影や、微かな呻き声、もがく手足が地面を擦る音を無視すれば、ということだったけど。
『辻、さん……?』
呼び掛けても、もちろん答えがあるはずもなかった。その時の朱莉にできたのは、スマートフォンを見ることだけ。辻氏のアカウントでログインしたままだったSNSの画面では、「のりこさん」とのやり取りが残っているはずだった。でも、画面にあるのは朱莉が入力したメッセージだけ。のりこさんからのメッセージがあるはずの返信欄には、「表示できません」と出るだけ。アカウントが削除されるとこうなる、のだろうか。norikoのアカウント名でSNS内を検索しても、ヒットはなかった。ただ、のりこさんに呼び掛ける投稿や、公園の画像の投稿はまだまだリアルタイムで行われているようだった。
のりこさんが本当に消えたのか、朱莉には確証が持てなかった。白い
辻氏がいるはずのせせらぎの小径に向かって走りながら、朱莉は119番に通報した。
『××公園、そよ風の広場です。倒れてる人が沢山います!』
絶え間なく聞こえるサイレンからして、既に救急車やパトカーが詰めかけていたのかもしれなかった。でも、パスワードを知っていながらのりこさんをのさばらせた責任感が、朱莉にそうさせずにはいられなかった。詳しい説明を求められてもまともな答えは返せないから、叫ぶように告げた後は、すぐに電話を切ってしまったけれど。
そうして、息を切らせながら走って、せせらぎの小径に辿り着いて。朱莉が目のあたりにしたのは、地面に膝を突いて項垂れる辻氏の姿だった。どこか怪我でも、と心臓が飛び上がる思いをしたのは一瞬のこと。朱莉はすぐに、暗い地面に横たわる
バスは駅前の商店街を抜けて、住宅街へ、そして郊外へと進んでいる。辻氏が言った通り、確かに建物は次第にまばらになり、田んぼや畑が目につくようになる。車窓から見える緑に目を細めながら、朱莉はふと口を開いた。
「この前、
朱莉の亡くなった恋人のことを聞いて、辻氏は軽く眉を寄せた。反応に困ったのかもしれない。
「それは……改めてお悔やみを。報告した、ということですか?」
「ええ。『辻隆弘』さんとも会えたし、のりこさんの正体も分かった。それに……消すことができた。だから、伝えなきゃ、と思って」
それで洋平が喜ぶのかどうか、正直に言って朱莉にはよく分からなかったけれど。そもそも、ブログの取材と称してのりこさんを調べていた彼だから、のりこさんの正体についてなら知りたがっただろうか。だから、仇を討った、なんて彼女の自己満足でしかないのかもしれない。
「きっと、喜ばれたと思います」
「そうでしょうか……そうだと、良いですけど」
自己満足で、良いと思っている。それでも、辻氏が肯定してくれるのは朱莉にとっては救いだった。のりこさんのこと――洋平の死の真実を知るのは、彼女の他にはこの人しかいない。つまり、彼女の心情を汲み取れるのは辻氏かいない。その彼の言葉なら、縋っても良いかもしれない、と思うことができた。
辻氏に聞くまでもなく、降車すべきバス停は分かった。次は○○霊園前、とアナウンスが流れたし、墓石が整然と並ぶ光景は少し近づけばすぐに分かったから。
「こっちの方です」
石畳に花壇が整えられた霊園の入り口は、そこだけ見ればちょっとした公園のようだった。水場に積んである桶と柄杓を借りて、色も形も様々な墓石の列の間を縫って、目的の一角へ向かう。列ごとに番号の標識が掲げてあるのは、墓参の客には助かることだろう。
「武井家」の墓石の側面には、真新しく「法子」と刻まれていた。他の名前と違った断面の綺麗さに、その死を家族が知ったのはつい最近のことだと思い出させられて背筋を正す。行方不明だった女性が、突然遺体で発見されたのだ。家族の驚きと衝撃はどれほどのものだっただろう。
武井家の墓の前には、沢山の花が供えられているのが救いと言えば救い、だろうか。灰と化して崩れ落ちそうな線香の数も、訪れたのが朱莉たちだけでないのを示していた。
「お花、多いですね……」
「同期の奴らが来たんでしょう。ニュースになっちゃったから……俺も色々聞かれて。呼び出されて、同窓会みたいなことにもなりました」
「そうでしたか……」
あの夜の事件をどう報道するか、警察もマスコミも扱いに困っていた風があった。取り調べを受けたり、――ほとんど断ったけれど――取材の申し込みがあったりしたから、朱莉も彼らの困惑を直に感じている。辻氏と武井法子の共通の知人だというならなお更、真実を求めて彼にあたるのはありそうなことだった。
都会のオアシスに沢山のパトカーと救急車が押し寄せ、搬送者も多く出た事件の、世間に対する説明は概ねこんな感じだ。
SNSで注目を浴びようとした「何者か」が、フォロワーたちを深夜の公園に呼び出した。宗教的、あるいは政治的な集会だったとか、ゲリラライブの類だったとか、理由はメディアによってバリエーションがある。そして、教祖的な存在に扇動されて熱狂したフォロワーの中には、心身に変調を来たした――ヒステリーのような状態に陥った者もいた。白い手、なんていう証言があるのは、幻覚症状だということになった。もちろん、証拠ともいえる動画や画像は、SNSでは拡散され続けていたのだけど。それを持って何らかの陰謀だの実験だのと、怪しい説を唱える研究者や雑誌や個人のブログもあったのだけど。大方の
「武井さんが見つかって、本当に良かったです」
「ええ、本当に」
桶に汲んだ水を、柄杓で墓石にかけて清める。用意してきた花を、活ける。線香を点して手を合わせる。そんな一連の「儀式」を終えると、朱莉はぽつりとつぶやいた。こんな風に弔う場所と機会があるということ。かつての友人たちがその死を周知して、語り合えるということ。そのために集えるということ。それらは全て、奇跡のように尊く貴重なことのように思えたのだ。
「武井が見つけて欲しくて呼んだんだろう、って皆言ってました」
辻氏はやや陰りと苦みのある微笑みを浮かべて言った。しばらく会っていない知人のアカウントを見つけたから、話しかけて待ち合わせの約束をした。当日、生身の彼女の代わりに現れたのが遺体だった。――そのように、彼は警察に話していたのだ。
第一発見者が一番怪しい、というミステリのセオリーを、現実の警察も信奉しているかどうかは分からないけど、辻氏はひと通り疑われたようだ。とはいえ武井法子の遺体には外傷も、どこかから運ばれてきたような痕跡もなかった。事実、忽然とその場に現れたのだから当然と言えば当然なのだけど。
そして何より
結局、辻氏の疑いは晴れた。幾ら調べたところで彼の犯罪の証拠など出るはずがないから疑い続けようもなかっただろう。彼が関わった警察の面々は、釈然としない表情ではあったということだけど――多分、科学的に説明がつかないことというのは、彼らも時々経験するのではないだろうか。武井法子の遺体は今になって現れた、と。そう、認めるしかなかったらしい。
「……それも間違ってないです。皆さんで、そう思われておけば良いんじゃないか、と」
武井法子の両親は、娘の失踪に気付いていたものの、周囲の噂を恐れてか表だって探すことはしていなかったらしい。地元を離れて就職していたこと、それに、彼女のSNSへの中毒振りに呆れてもいたから、
「本当のことは言えないですからね……。俺は、何もできなかったのに」
花束の切り落とした茎や葉をまとめ終えて伸びをする辻氏に、朱莉は何も言えなかった。彼はちゃんとのりこさんを消した。武井法子と最後の言葉を交わして見送った。何もできなかったなんてことはない、はずだ。でも、彼女は彼と武井法子の関係の全てを知らない。彼の表情に落ちる影がどこから来ているのか分からない。だから、ただ黙って先客が供えた白い薔薇の花びらに触れた。いつからそこにあるのか、花びらの端は萎れて、水気を喪い始めている。
「お花、どうしましょうか。置きっぱなしにはできないですよね?」
「同期の奴らと近々また来ます。それこそ同窓会という感じで……集まる口実にもなりますし」
場を繋ぐために尋ねたのへ答える時には、辻氏の表情は平静なものに戻っていて、朱莉は少し安心した。この霊園に武井法子の友人たちが集って歓談する光景は、多分救いになるだろう。武井法子自身にとっても、その遺族や、辻氏にとっても。
辻氏も朱莉と同じ光景を思い描いて、何か気分を切り替えることができたのだろうか。次に朱莉に向けてくれたのは、自然な笑顔だった。
「この後は、どうしますか。軽く、何か食べたりとか……?」
「そうですね。辻さんが良ければ」
「大した店はないけど、ご要望があれば応えたいですね」
ふたりして、花に囲まれた墓石に最後の一瞥を向けてから、背を向ける。霊園の門へと、歩き始める。つまりは、死者は思い出の中において、生者は連れ立って先に進む。
辻氏とあと何度会うのか、どこまで時間を共に過ごすのかは、分からない。のりこさんの件が解決したことで、朱莉が彼と会う必要はもうなくなった、とも言える。でも一方で、のりこさんの事実を全て知るのはこの世にふたりしかいない、とも言える。洋平がどうして死んだのか、武井法子の死の真実は――誰かと語り合いたいと思った時、朱莉には相手はひとりしかいない。辻氏にとっても同様だ。
ただの知人や友人ではない。でも、恋人、なんて想像もできない。やはり、あの夜のために計画を立てていた感覚そのままに同士、というのが一番しっくりくるだろうか。奇妙なような、とても近しいような不思議な関係――でも、いずれ変わることもあるだろう。生きていれば、変わることも成長することもできるのだから。
一歩一歩、地面を踏んで歩く。その感触は、決して当たり前のものではない。生きているからこそ、未来があるからこそのものだ。その事実に不意に気付いて、朱莉の胸に熱い衝動がこみ上げた。
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