第8話 白い手
「っきゃあああああっ!」
「何だ、お、お前っ、どこから入ってきた!?」
沢村も佐竹も叫び続けているけど、千夏にとってはどこか遠いことのようだ。ただ、自分自身の荒い呼吸と、心臓がどくどくと脈打つ音がひどく大きく聞こえて。こめかみのあたりに熱くなった血が集まって頭痛がするほどだった。
(なんでなんで、どうしよう……!)
――のりこさんに見つかってはいけない。
千夏の頭に、嵐のように疑問と恐怖と混乱だけが渦巻いていた。あんなに気を付けていたのに、あんなに怖かったのに。見つかってしまった。絶対に良くないことが起きる。怖いことになる。きっと逃げ切ることなんてできない。でも、怖い。逃げたい。そんな、言葉にならない本能のような思いだけに突き動かされて、無我夢中で手足を動かし、あちこちをぶつけて引っ掻きながら。思うように動けなくて転がって泣いて、髪を振り乱してずるずると這う。そんな彼女の姿こそ、幽霊とか化け物じみて見えてしまうのかもしれないけど。
「く、来るな! 何なんだよ、お前はぁあ!」
「佐竹さんっ、ドア、開かない……!」
でも、二人の悲鳴を聞き取った千夏は、殺虫剤をかけられた虫みたいな無様で不器用な動きを、ふと止める。沢村の声の方から聞こえる、ドアノブをがちゃがちゃとさせる音――ドアが開かない、逃げられない。……逃げようとしても、無駄。そうと分かると、
千夏は、床に手をついて上半身をもたげ、恐る恐る顔を上げた。
(あれ……?)
覚悟はしていても、のりこさんの
「やめろ、やめろよおぉおおっ」
千夏は、目の焦点を動かした。怖いほどはっきり見えてしまうのりこさんから、絶叫の源――佐竹の方へと。半狂乱、とでもいうような叫び声が必死過ぎる気がして不思議で。幾ら訳の分からない現象を目の前にしているとしても、千夏や沢村よりも激しく喚いているなんて。
とても、不思議だったから――だから、恐怖よりも好奇心が勝ってしまった。見てはいけない、見たくないと思うのに、眼球が勝手に動く。目蓋と眼窩を擦る水晶体の動きさえ感じられるほど、神経が鋭敏になっている。
「――え?」
佐竹たちと千夏の間に
だから、千夏はその情景をじっくりとたっぷりと眺めてしまった。顔を引き攣らせて、目を見開いて叫び続ける佐竹の頬に、白い指が伸びているのを。
最初は、のりこさんに襲われている、と思って心臓が縮みあがった。でも、それは違う。のりこさんの両手は、身体の側面にだらりと垂れている。じゃあ、沢村が佐竹に駆け寄って、落ち着かせようとでもしている?
(違う、あれは――)
じわじわと何が起きているかを認識するのは、喉を締め付けられるような感覚だった。
「佐竹さんっ!」
「来るなよぉ、やめろ、やめてくれよお」
だって、沢村は
「何、なんで……っ!?」
その
佐竹がそうしなかったのは。あるいは、そうできなかったのは。スマートフォンから伸びる手に、その先の指に掴まれて囚われているからだ。ううん、その
「なんで? のりこさん、出てきたんじゃないの!?」
やっと、事態が呑み込めた。でも、やっぱり怖い以上におかしかった。SNSに千夏の居場所がリアルタイムで投稿されてしまった、だからのりこさんに見つかってしまった。ここに、現れてしまった。だから、それならのりこさんは
「佐竹、さん――」
沢村に倣って、千夏も佐竹の方へ向かおうとして――ぞくりと、身体の芯から凍るような寒気を感じて、止まる。彼女と佐竹たちの間には、のりこさんが立ちはだかっている。その名前が正しいのかも、そういえばネット上での噂でしかないんだけど。もうこの
「ひ――」
ただ、あの真っ黒な目が、画像の中では空ろなだけだった目が、今は千夏を睨んでいた。来るな、と。はっきりと拒絶の意志と感情を伝えてきていた。まるで、邪魔をするなとでも言うかのように。
「お前、お前のせいだろこのガキっ! 何とかしろよ……!?」
千夏が身動きして声を出したことで、佐竹も彼女の存在を思い出したらしい。白い手に顔を覆われたまま、スマートフォンを持ったまま、千夏の方へ足を踏み出し手を振り回してくる。
「そんなこと……っ」
言われても、どうしたら良いか分からない。千夏は最初から助けて欲しかったのに、SNSの使い方だってちゃんとしていたのに。何も聞いてくれなかったのは佐竹の方だ。千夏の画像を勝手にアップしてしまったのだって。
「……いやっ、こないで……!」
駆け寄ろうとしていたのも忘れて、千夏はテーブルを乗り越えて迫ってきそうな勢いの佐竹から逃げようとした。また、背中に壁があたる。のりこさんもSNSの無責任な反応も、のりこさんのものか何だか分からない白い手も。それに佐竹の怒鳴り声も。何もかもが怖かった。
「くそがあ、どけよ、こら――ぁ」
恐怖が振り切れて訳が分からなくなっているのは、佐竹も同じだったのかもしれない。千夏と佐竹の間に佇むのりこさんにさえ掴みかかろうとして、殴ろうとでもいうのかスマートフォンを振り上げて――でも、その腕が、力を失って垂れ下がる。操り人形の、糸が切れたかのように。
大の男が無防備に床に倒れる音は、千夏が転んだ時の比ではなかった。驚いたとはいえ意識があった千夏に対して、倒れる直前の佐竹は完全に白目を剥いていた。興奮のあまりに失神したならまだ良い。受け身はおろか、顔や頭を庇う素振りも見せずにばたりと倒れ込んで、佐竹はぴくりとも動かない。
「佐竹……さん?」
この間、BGMのように叫び声を上げていた沢村が、怯えたようにおずおずとした声を掛けても、返事がなくて。代わりに、とでもいうように消えていた照明がぱっと点灯する。
「きゃ……」
急な明暗の反転にも驚いて声を上げてしまった千夏は、目を慣らそうと何度も瞬きした。のりこさんの白すぎる肌、スマートフォンから伸びた指、佐竹の白目。そんなものの残像がちらついて焦点が合わないのをどうにか振り払おうとして。
そしてやっと明るさに馴染むことができた時。部屋の中にいるのは千夏と沢村、佐竹の三人だけだった。沢村の方を見ても、訳が分からないと言うように激しく首を振るだけ。佐竹は――動かないままだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます