第7話 行くよ。

 唇をわななかせて凍り付く千夏ちかの目と耳に、処理しきれないほどの情報が飛び込んでくる。


佐竹さたけさん、これは可哀想ですよ……!」

「だからすぐに消すって。何? 君も信じちゃってるの?」

「その、本当に幽霊なのかとかじゃなくて……。女の子だし……うちの所属の子でもあるんですよ? 不意打ちで撮った写真をアップするなんて――」

「消すって言ってんだろ!」


 耳からは、佐竹と沢村さわむらのやり取りが。あくまでも千夏を信じていない佐竹に、遠慮がちにでも抗議してくれるマネージャーの気持ちは嬉しいと思えた。でも、上司である佐竹は取り合う気配がない。

 そして、千夏の目が追うのは。佐竹に突きつけられたままのスマートフォン、そこに表示されたSNS、勝手に投稿されてしまった千夏の泣き顔。それへと寄せられる反応だった。


 ――千夏ちゃんどうしたの? 大丈夫?

 ――何コレ釣り宣言?

 ――△△というブログを運営している者ですが、お話聞かせていただけませんか?

 ――あーあ怒られちゃったw


 ひどい顔を心配してくれている声もあるけど。多くは、千夏の発言を嘘扱いして面白がるものばかりだった。


 それも、ひどいし辛いし悲しい。でも、一番の問題はそれでさえない。今の千夏の頭を占めるのは――のりこさん。彼女に付きまとっているとしか思えない、SNS上の――でも、それだけじゃなくて、現実のあちこちをも行き来しているのことだけ。


(ひどいひどい……っ!)


 佐竹のやったのは、千夏の昨夜からの怯えと緊張を嘲笑うようなことだ。それだけじゃない、彼女が今まで気を配っていた全てを踏み躙ること。心の中に渦巻く激情を吐き出すように、千夏は激しく手を振りながら叫んだ。


「私っ、今までリアルタイムで投稿したことなんてなかったのに……! そうしろって、気を付けろって、言われてたからっ! ちゃんとやってたのに、何で……!?」


 ――のりこさんに見つかってはいけない。


 フォロワーから教えられた情報はあまりに断片的で、のりこさんの正体も目的も分からなかった。でも、千夏の過去の投稿を追うように現れるを見れば、絶対に良くないことが起きるだろうと思ってしまう。千夏が今まで無事でいられたのは、多分撮った画像をその場で投稿することをしてこなかったからだ。時間を置いてSNSに投稿された画像からは、彼女がいつどこにいるのかリアルタイムでは分からなかったからだ。

 そしてそれは、ただの幸運という訳じゃない。ファンとかストーカーとか――恐れていたのは人間だったけど、千夏が言われた通りにSNSの使い方を気を付けていたからこそ、マネージャーの沢村の言いつけをきちんと守っていたからこそのはず。だから、千夏は褒められて労われるべきだと思う。こんな風に疑われて嗤われるのではなくて。もっと親身になって、守ってくれると思ったのに。


「こんなことして、見つかっちゃったら……っ」


 怒りと恐怖と悲しみに胸が詰まって、整然と気持ちを述べることなんてできなかった。さっきはギリギリのところで堪えていた涙も、堰を切ったように頬を伝ってしまって。泣き顔を見られまいと俯く千夏に佐竹が投げるのは、やっぱり乱暴なものだった。


「はいはい、今消すからね!」


 千夏が泣いてしまったのは、佐竹にとっても予想外で、やり過ぎだと思ったのかもしれない。千夏の視界に映るのは白っぽいテーブルの表だけで、彼の表情は見えないけど。多分、気まずそうな顔をしているのではないか、というような声音だった。でも、後ろめたさを感じたからといって謝ってくれるような人では生憎なかった。


「――でも、何も起きなかったよね!? 幽霊が写るんでしょ? そうやって泣き真似してさあ……俺が早く消しすぎたからですう、なんて言わないでよね!?」


(やっぱり、信じてもらえないの……?)


 のりこさんに見つかりたい訳じゃない。あの黒い虚ろな目が千夏の傍らに現れるのなんて、見たくない。だから、一秒でも早く佐竹が勝手にアップした画像を消して欲しい。でも、そのせいで信じてもらえないなら、千夏はどうすれば良いのだろう。


 テーブルの上で佐竹の影が動いた。千夏のスマートフォンを手に取って、画像を消すべく指を動かそうとしているらしい。投稿を取り消す動作は、ほんの一度か二度のタップで済むはず。千夏の恐怖を証明できるかもしれないチャンスは、それで失われてしまう。


 きっと投稿を消した後は、佐竹の説教が待っているのだ。そしてその後は、何も解決しないまま家に帰らなければならなくなる。それを覚悟して千夏は唇を噛んで待つ。……でも、佐竹の動きが止まった。


「――な、何だよ。オトモダチまで仕込んでたのかよ」

「……え……?」


 苛立つのでもなく、嘲笑うのでもなく。佐竹の声が初めて驚きと――怯えによって揺らいでいるのを聞きつけて、千夏ははっと顔を上げた。


「仕込み、だろ? ビビらせやがって……」


 引き攣った笑顔の佐竹が、スマートフォンを突きつけてくる。SNSが表示されたままの画像。涙ぐんだ千夏の画像に、次々と寄せられるコメント、拡散の通知。その中に、特に短いメッセージが目についた。


 ――行くよ。


 佐竹が投稿した文章に応えるかのような、そのメッセージを送ってきたアカウントのアイコンは、千夏がもうよく知ってしまっているの顔だった。前髪で目を隠した女の顔。のりこさん。見つかって、しまったのだ。


 反射的に、千夏は腰を浮かす。逃げなきゃ、と思って。でも、身体が上手く動かせない。パニックで頭に血がのぼっているのか、それともショックで貧血にでもなってしまったか。くらりと、目眩を覚えてふらついてしまう。そして少しぼやけた視界に映ったものを見て――


「きゃああああっ」


 千夏は、悲鳴を上げて倒れていた。尻もちをつくように、無様に。椅子が倒れるがしゃんという音が響く。めちゃくちゃに振り回した手が何を指しているのか、彼女が何を見て叫んだのかが分かったのだろう、佐竹が手を翻して千夏のスマートフォンを覗き込む。――床に倒れ込んだ千夏からは見えないけれど、空気の流れや息を呑む音で分かる。佐竹も、今度こそ恐怖に心臓を掴まれているのだろう。


「嘘だろ、おい、これっ! どうやったんだよ、おい……っ!」

「佐竹さん、どうしたんですか……!?」


 佐竹に駆け寄ろうとする沢村を、止めてあげたい、と思う。を見たら誰だって悲鳴を上げるに決まっているんだから。でも、千夏は動けなかった。腰が抜けてしまって、立ち上がることもできそうになかった。ううん、這うくらいならできるだろうけど、彼女の手足はできるだけ佐竹から――彼女のスマートフォンから遠ざかろうと、勝手にもがいている。


「な――」


 ああ、沢村の喘ぐのが聞こえる。沢村もスマートフォンを覗き込んだんだろう。そして、見たんだろう。さっきまでは確かに千夏だけしか写っていなかった画像に、写っているのを。前髪の間から覗く真っ黒な目と、視線を合わせてしまったんだろう。


「やり過ぎだろこれ! 満足か? 人を馬鹿にしやがって……!」

「ちが……私、知らな――」


 佐竹の見開かれた目が千夏を見下ろす。大きく開閉する口から飛ぶ唾の飛沫もよく見えた。あくまでも千夏が何かトリックを仕込んだのだと言いたげなのは、多分佐竹も信じたくないからだ。こんなことが現実に起きるなんてことを。でも、千夏はスマートフォンに触れてさえいない。トリックのはずがないことをよく分かっているからこその、佐竹のこのパニックぶりなのだろう。


「おい! ネタ教えろよ。お前がやったんだろ……!?」

「止めて! 早く消して……!」


 佐竹が闇雲にスマートフォンを振り回して突きつけてくる。そこにのりこさんを見たくなくて、千夏はぎゅっと目を瞑った。暗く閉ざされた視界に、目蓋越しに感じる蛍光灯の照明――それが、不意に瞬いて消える。


(何……停電……?)


 照明のスイッチの場所は、ドアを入ってすぐのところ。佐竹も沢村もそちらへ動いた気配はないし、そもそも今照明を消す理由がない。訳が分からないまま、それでも暗い中に蹲っているのが怖くて、千夏は恐る恐る目を開けた。


「――え」


 限りなく吐息に近い声は、一体誰のものだったのだろう。もしかしたら、三人の口からほぼ同時に漏れたのかもしれない。


 床に倒れた千夏。テーブルを挟んで掛けていたはずの、佐竹と沢村。のりこさんの画像を見て、慌てて腰を浮かしていたのだろうか。がたがたと騒がしい音を、佐竹の喚き声の合間に聞いた気もするのだけど。今は、ふたりがどんな格好でいるのか見ることはできなかった。


 カーテンのかかった窓から射し込む陽光は、ほんのりと鈍いものだった。でも、もちろん部屋の中の様子が見えないほどではない。千夏が佐竹たちの姿を捉えることができなかったのは、間にがいたからだ。


 テーブルの上に立つような。あるいは、生えているような。膝丈くらいのスカートに、背中にかかるウェーブがかった髪。……意外と長いんだな、とか。千夏はの髪型に初めて意識を向けた。だって、だって後ろ姿で写っていたことはなかったと思うし。


 薄暗い室内の真ん中に、のりこさんが佇んでいた。

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