矢野朱莉 作戦会議②

「のりこさんが、たまたまフォロワーが居合わせることに期待してる、なんてことはないでしょうね……」


 つじ氏の頬が小さく震えたのは、朱莉あかりと同じことに思い至ったからだろう。のりこさんがフォロワーに呼び掛ければ、待ち合わせの時間、その公園にはスマートフォンを手にした人たちがうろうろしていることになるのかもしれない。のりこさんを心霊画像に収める、のりこさんチャレンジ、なんてものもあった。この時間にここに来ればに会えるよ――そんな呼びかけが、堪らなく魅力的に思えてしまう人だっているのだろう。実際、SNSと連動した肝試しとでも思えば、そういう企画だ、と信じ込むことだってあるかもしれない。


「時間と場所を指定したのはそういう狙いか……。クソ、現実リアルで居場所を特定しようとしてたのはあっちも同じだったってことか」


 辻氏が荒い口調で吐き捨てたので、朱莉は思わず身体をびくりと震わせた。カラオケルームという閉じた空間で男性とふたりきりの状況で、その相手が乱暴な言動をするのは怖かった。たとえ辻氏の怒りや苛立ちの対象がのりこさんで、朱莉には何の関係がないと分かっていても。彼が、との待ち合わせの危険を、正しく理解してくれているのだとしても。


「辻さん……やっぱり、パスワードは教えていただけないんでしょうか」


 だから、そう切り出すのには少なからず勇気が要った。

 置きっぱなしのドリンクのグラスの中で、溶けかけた氷がからんと音を立てる。視界の端では、若いアイドルグループのミュージックビデオが流れているようだ。いつもなら楽しそうな歌声が満ちているはずの部屋に、今は重苦しい沈黙が降りている。別の部屋で、学生だかの若い声が笑っているのが微かに聞こえるほどに。

 背筋を正し、膝に手を置いて辻氏を見つめていると、彼はやがて小さく溜息を吐いた。


「今のうちにを消した方が良い、そういうことですね……?」

「……はい。その、武井たけいさんのことを気にされているのは分かるんですが。その武井さんだって、アカウントを消して欲しい、と言っていたんだし……」


 辻氏は、のりこさんから武井法子の行方を聞き出すつもりなのだ。危険を承知で待ち合わせなんかに応じたのもそのためだ。でも、幽霊の一体ならまだしも――それだって、洋平のお陰でお札やお守りも効かないことが分かっているから不安要素が大きすぎるけど――不特定多数ののりこさんのフォロワーを警戒しなければならないなんて、リスクが高すぎる。通りすがりの人が鞄やポケットに収めた、あるいは覗きながら歩いているスマートフォンから、いつあの白いが伸びてくるか分からないのだから。無関係の通行人だっているかもしれないのだから、誰彼構わず殴り掛かる訳にもいかない。というか、たとえのりこさんのフォロワーだって、そんなことはできないだろう。


 会ったこともない武井法子の心情を、朱莉が慮るなんてできないのだけど。彼女の遺志、なんて言いながら、洋平の復讐をしたい気持ちが勝っているのを、自分では分かってしまっているのだから。もっと悪くすれば、単純に怖いからでさえあるかもしれない。またあの白い手と向かい合いたくないから、手っ取り早い解決を望んでいるだけなのかも。


「……その方が安全だろうな、というのは俺だって分かってます」


 言いながら、辻氏は鮮やかなブルーのドリンクを、ストローを使わずグラスに口をつけて飲み干した。多分、その仕草の数秒の間で、言葉を選ぶことにしたんだろう。朱莉に対しては礼儀正しく、気遣ってくれる――良い人なんだろう、と思う。そしてそんな人がここまで気に懸ける武井法子という人は、一体どんな女性だったんだろう、とも。


「でも……それじゃ武井の――死体の、場所も分からないままだ。どこで、何があってなったのかは分からないけど……ちゃんとしてやらないと、可哀想じゃないですか」


 辻氏と武井法子の関係について、朱莉は幼馴染ということしか聞いていない。つまり、恋人ではなかったということだ。最近の消息を知らないようだったから、疎遠になっていたのかもしれない。だから、朱莉が洋平の死に際していだいたような激しい悲しみや理不尽さへの憤りとは、また違った感情が辻氏の動機になっているんだろうか。


「はい。……私は、お葬式ができたから……気持ちが、違うんだろうとは思うんですが」

「すみません。これは、俺の勝手です。その、彼氏さんを見てしまった矢野やのさんの方が、お辛いと思うんですが」

「いえ……きっと、辻さんの方が……」


 辻氏の心の中を推し測ろうとしていたのが後ろめたくて、不幸や悲しみを比べるような考えが恥ずかしくて、朱莉もグラスを手に取った。甘くて冷たい、ということしか分からない液体が、喉を落ちていく。


 結局、ここなんだろう。相手の死を、自分の目で確かめられているかどうかが、辻氏と朱莉の違いなのだ。どうしようもなく洋平が死んでしまっていると知っている朱莉と違って、辻氏の気持ちはまだ宙ぶらりんのままなのかもしれない。あの日、洋平の遺体を見つけたのではなくて、彼が跡形もなく消えて失踪してしまったとしたら――朱莉だって、どうしても見つけたいと思っていたかもしれない。そう考えると、辻氏にそれ以上強く言うことはできなかった。

 人ひとりがいなくなってしまうということは、それだけ大きなことだから。ぽっかりと心に空いてしまった隙間を埋めないことには、「次」なんて考えることもできないと、朱莉も身をもって知っているから。


 再び沈黙が降り、そしてまた辻氏によって破られた。


は、矢野さんも来てくださるんですよね……?」

「はい。もちろん」


 の当日のことだ。どんなに怖くて不安要素に満ちていても、この期に及んで行かないなんていう選択肢はあり得ないから、朱莉は勢い込んで頷いた。お互いの悲しみや個人への想いとは違って、百パーセントの確度で断言できるのが心強かった。

 朱莉の勢いに、辻氏も少しだけ笑ってくれる。彼を少しでも安心させてあげられたのだったら良い。この人だって、全く怖くないなんてことはないはずだから。

 辻氏の微笑みに、朱莉も少しぎこちない笑顔を返そうとして――でも、彼の次の言葉によって凍り付いてしまう。


「……当日、直前に心当たりのパスワードをお知らせします。俺は……トライするだけ、してみたい。消してやるぞ、って脅して、が武井のことを教えてくれるかどうか……俺がダメだったら、やってやってください」


 辻氏が言うのは、朱莉は物陰で見ていろ、ということだ。そして、たとえ辻氏に危機が訪れても、出て行ってはいけない、ということ。白い手に襲われる彼、苦しむ彼を横に、落ち着いてパスワードを打ち込まなければいけない。全てを、見届けなければいけない。それだけ、なんて言うことはできない。安全度はともかく、気持ちの上では決して簡単なことではないんだから。


「……はい。分かりました」


 でも、朱莉に首を振ることなどできなかった。全て彼女の思い通りに、なんて。我を通すことはできないんだから。それは、辻氏の想いを曲げさせることにもなる。だから――ここが、お互いにとってギリギリのところなんだろう。

 辻氏は、武井法子の行方を知りたい。朱莉は、のりこさんのアカウントを知りたい。相手の願いを叶えるチャンスを残しつつ、自分の目的も諦めない。これが、ギリギリのライン。辻氏も、今この場でパスワードを教えてくれないくらいには、朱莉を完全に信用することができないのだ。そして、その懸念は、多分当たってもいる。

 それでも。目的は少し違っていても、朱莉と辻氏は共にのりこさんに立ち向かう同士なのだ。だから、頷かないと。相手の意志を尊重する姿勢を見せないと。


 その上で、約束の日に臨むのだ。

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