辻隆弘 ばいばい
スマートフォンの画面、そこに表示された文字列を見て、
でも、手放しで喜ぶことはできなかった。スマートフォンを持つ手が震えるのはなぜだろう。怒り、悲しみ、後悔、呆れ。複雑な感情が混ざった溜息が声となって、隆弘の口から零れた。
「やっぱりか。お前、何やってるんだよ……!」
――sakurasaku377
パスワード欄に打ち込んだ文字列が、それだった。武井法子がパスワードとして好んで使うものだと、隆弘は知っていた。他ならぬ生前の彼女から教えられたのだ。
誕生日でも、電話番号でもない。自宅の住所とも全く関係がないその番号は、武井法子の高校受験の時の受験番号だった。受験票が届いた時、合格発表を見に行った時、高校生活に入ってからのこと。その番号に関する武井法子の生き生きとした声が、隆弘の耳に蘇る。
『ラッキーセブンだから合格できそうじゃない?』
『ほら言ったじゃん! 私のラッキーナンバーにしよ』
『あの受験番号ね、色んなとこのパスワードにしちゃってるんだ。他の人には分からないだろうしね!』
そして、それらに対する隆弘自身の答えも。自分の言ったことだからちゃんと覚えている。
『そんなことより勉強の成果だろ』
『ああ、良かったじゃないか』
『俺に言っちゃダメだろ、パスワードなんだから』
今思うと必要以上に素っ気ない気がするのは、武井法子への哀れみがそう思わせるのか。思春期の異性への態度としては妥当なものだっただろうか。――それとも、武井法子からの感情を察して、どうすれば良いか分からなかったからだろうか。少し背伸びをして、隆弘と同じ高校を受けたこと。きわめてプライベートなパスワードのことを、彼に打ち明けてきたこと。その理由を考えたくなかったからだろうか。
とにかく、そのパスワードは彼女のラッキーナンバーで、希望と喜びに満ちた瞬間を象徴するもののはずだった。SNSのログインに毎回入力するようなことはなかったとしても、他のアプリやサービスでも使っていたなら、武井法子にとっては日常的に触れる文字と数字ではなかったのだろうか。取り憑かれてのっとられるほどSNSにのめり込んだ最期の日々、一体どんな気持ちで、この希望の数字を打ち込んでいたのだろう。
「大学行って……卒業したら、やりたいこともあっただろ。なんでもできたはずだろ。なのに、何やってるんだよ……!」
説教めいた言葉は、今となっては遅すぎる。武井法子も、困ったように微笑むだけだ。死んでしまった相手に対して、隆弘はなんて残酷なことを言ってしまっているのだろう。武井法子こそ、自分がしたこととしなかったことに対して誰よりも悔やみきれない想いを持っているだろうに。
(俺にも責任がある……)
隆弘にとって、武井法子は断じて恋愛対象ではなかった。でも、彼女からしたらどうだったんだろう。直接でも友人を介してでも、そうと言われたことはない。だけど、そういう雰囲気は感じるものだ。薄々察した上で、つかず離れずの同級生、幼馴染の関係を壊すのが怖くて――違う、面倒で。彼は何も言わず何もしなかった。
でも、それもせいぜい高校卒業までのことだった。大学に入ってしばらくすると、武井法子はSNSに夢中になっていた。隆弘が彼女と距離を置いたのは、ほっとしたからではなかっただろうか。もっと悪い自己分析をするなら、面白くない、という感情はなかっただろうか。俺はもう良いのかよ、というような。何もはっきりさせなかった癖に、何という自意識過剰な拗ね方をしていたんだろう。
「俺は――」
何かを言いたくて言おうとして、でも、言葉が見つからなかった。結局、何もかも遅すぎることなのだから。
隆弘が口を開けたまま固まっていると、武井法子が、ゆっくりと瞬きをした。言葉を紡ぐことはできなくても、意図はちゃんと伝わってくる。もう良いから、早く。
「武井……ごめん」
取り戻せない過去の想いも情景も走馬灯のようなもの。隆弘が佇んでいたのはせいぜい数秒に過ぎないだろう。でも、この状況では重大なタイムロスになるかもしれない。だから、やらなくては。
ログインボタンをタップする。読み込みに数秒。そして、武井法子の自撮り写真が表示される。のりこさんは第三者に見える形では新たな投稿をしていない。矢野氏にかかり切りになっていると考えて良いのだろうか。
「きゃ、来た……!」
隆弘が設定画面に移ると同時に、少女が小さく悲鳴を上げた。
大きくうねって再度彼に目標を定めた手は、でも、武井法子に阻まれて届かない。それを目の端で捉えながら、隆弘は画面の最下部にごく小さく設置された「退会」のボタンをタップした。再度パスワードの入力欄。sakurasaku377。確認画面で更にもう一度パスワードを。それでやっと、「キャンセル」と「退会」の選択肢が表示される。
「――消えろ……っ!」
叫びながら「退会」ボタンを叩くようにタップする。読み込みで画面が固まる数瞬が、ひどく長い。武井法子のディフェンスを突破した
「消えた……」
少女のぽかんとした声が響いた。隆弘の身体に迫る
上空を見上げれば、地上の灯りで一層暗く見える都会の夜空が広がっていた。はっきりと見える星は大きいのが幾つかだけ、雲に隠れた月。それらを覆い隠すように絡み合っていた無数の腕は――もう、見えない。
「終わった、のか……?」
隆弘は息を吐くと、スマートフォンを握っていた手を下ろした。どれだけ力が入っていたのか、それだけの動きにも関節がぎしぎしと軋む感覚がする。緊張を強いられていた神経も緩んで、どっと疲れが押し寄せる。と、軽く俯いた彼の頬に、温もりが触れた。誰かがそっと、手を伸ばしたかのような。
「ありがとう」
「武井……?」
はっきりと鼓膜を打った声は、懐かしいものだった。彼が親しく喋っていた頃の、武井法子のもの――本当にそうだったかどうか、幻聴ではないのかは、はなはだ自信がないのだけど。
はっとして顔を上げると、武井法子が微笑んでいた。寂しさの陰りはもうない、晴れやかな笑顔だ。そしてその笑顔が、溶けるように消えていく。笑顔の向こうに黒い木の影が透けていく。
「待って――」
せっかくのりこさんを消したのだ。白い
武井法子の姿は、もう目を凝らさなければ見えないほどに薄くなっている。贈ることができるしたら、あと一言だけ。それも、短いものを。
「……じゃあな」
何の捻りもない挨拶に、武井法子の口元が綻んだ。応えて、唇が動く。開いて、横に引く動きを、二回――ばいばい。最後に微笑んだ形になった唇も、すぐに消えた。後に残るのは、何事もなかったような夜の公園の風景だけ。
「あ……あのっ、そこ……っ!」
「あ――」
いや、違う。少女の悲鳴と指さす動きに促されて、隆弘は
ちょうど武井法子が最後に佇んでいた辺りに、さっきまでは存在していなかったものが、
何度となく心霊画像に写っていたのと同じ、ブラウスとふわりとしたスカートは、今では確かに実体をもって地面にくたりと広がっていた。それらを纏う腕も脚も、同様に。冷え切って硬い質感は、実際にそこに
忽然と、どこからともなく。武井法子の遺体が、地面の上に横たわっていたのだ。
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