川村陽菜子 友達だから

 陽菜子ひなこが保護された警察署では、意外なことに逃げ去ったと思った友人たちが待っていた。初めて乗ったパトカーで、渡されたタオルでとりあえず顔や手を拭いてはいたけど、服についた土や泥を完全に綺麗にすることはできていなかった。髪もぼさぼさに乱れてしまっていたし、顔の汚れを取ったことで、転んだ傷は余計に露になってしまっていた。

 そんな姿を見たからだろうか、友人たちは陽菜子の顔を見るなり口々に悲鳴を上げた。


「陽菜子! 良かった!」

「心配したんだよ!?」

「電話も出ないしメッセージも既読にならないし……」

「何があったの!?」


 目を吊り上げて迫る友人たちの形相に、耳に刺さる声にたじろいで、陽菜子は思わず後ずさってしまった。


「え、えっと……」


 取りあえず、と思ってスマートフォンを取り出してみると、いつの間にか画面にひびが入っていて悲しくなった。逃げ遅れた時か、幽霊の人と一緒になった後か、二度転んだうちのどちらかでこうなってしまったのだろう。

 それはともかくとして。改めて見ると、確かに着信履歴もSNSのメッセージも、友人たちからの履歴で一杯だった。今の今まで気づかなかったのは、暗かったからか恐怖と緊張でそれどころではなかったからか。幽霊の人とのやり取りのために、メールばかり気にしていたからかもしれない。


「あっ、ほんと……気付かなくて、ごめん……」


 陽菜子が呟くと、友人たちの口から今度は一斉にブーイングが漏れた。見捨てられてひとりぼっちになってしまった、と。暗闇の中で陽菜子は絶望しかけたけど、実はそうじゃなかったのかもしれない。陽菜子が思っていたよりも、この子たちとはちゃんとした友達だった、んだろうか。


「本当だよ、もう!」

「ねえ、本当に大丈夫?」

「顔、怪我してるじゃん!」


 皆の言葉も表情もキツいけど、怒っているとか意地悪で言っているんじゃないのは分かった。まだ、今ひとつ実感がないけど、陽菜子のことを――心配、していてくれたらしい。


「あの、えっとね――」

「貴方たち、夜も遅いからもうこれくらいで。保護者の方たちがもうすぐ来るから。話を聞かせてもらうこともあるかもしれないけど、日を改めて連絡するから」


 ひとりになった後で見聞きしたことを説明しようと陽菜子が口を開いた時、でも、女性の警官のはきはきとした声に遮られてしまった。陽菜子たちの年齢を慮ってくれたのか、若い、優しそうなお姉さんだった。でも、さすがに警察の人だから、学校の先生以上に有無を言わせない雰囲気があった。陽菜子を囲んで問い詰める体勢だった友人たちも、水を浴びせられたみたいにしゅんと大人しくなってしまうくらい。


「……ごめんなさい」

「すみません、でした」


 保護者、という言葉も重く陽菜子たちに圧し掛かった。きっとものすごく怒られることになるだろう。夜中に、子供だけで集まって遊んでいたなんて。それに、パトカーや救急車も沢山来るような騒ぎになってしまった。陽菜子が保護された時にはテレビ局と思しきカメラを持った団体もいたし、もしかしたらニュースにもなってしまっているのかもしれない。そもそもの原因である「のりこさんごっこ」のことを知られたりしたら――


(そうだ、のりこさん……!)


 大事なことを思い出して、陽菜子は恐る恐る口を開いた。怒られるのも、警察の人に話しかけるのも怖いけど、確かめたいことがあった。


「あの――」

「特に貴方。怪我の手当てをしなきゃでしょう。女の子なんだから」


 でも、女性警官は陽菜子に対しては他の子よりも強い声で言い渡してきた。この人も陽菜子の心配をしてくれているのは分かる。だから、陽菜子はそれ以上食い下がることができなかった。


「……はい。ごめんなさい」


 頬についた擦り傷に触れながら、陽菜子は心の中で公園での一幕を思い出す。こうして明るい安全なところに来てみると、全ては夢のようだった。でも、この傷が現実だったと教えてくれる。


 それなら――あの、幽霊の人と同じ顔の遺体も現実のはず。陽菜子を助けてくれたあの人は、一体どこの誰なんだろう。家族はいるのか、ちゃんとお葬式をしてもらえるのか、気になるのだけど。陽菜子が知ることは、できるだろうか。




 幽霊の人について知りたいなら、あの男の人に聞くべきだったんだろう。あの、つじ隆弘たかひろというらしい人に。でも、そんなことができる空気じゃなかった。女の人の遺体の横に膝を突いて、眠ったように目を閉じたままの顔を覗き込んでいる姿を前にすると。


 陽菜子のスマートフォンに残された幽霊の人のメールを読んで、男の人が喋っていたことと突き合せれば、辻という人と幽霊の人との間には色々あったんだろうな、とは分かる。仲が良い友達か元カレか何かで、だからあの人は彼を探していたんだろう。陽菜子にだってそれくらいの推理はできるけど、辻という人の気持ちを思えばこそ、迂闊なことを言ったら傷つけてしまいそうで何も言えなかった。

 陽菜子はしばらくの間、黙って立っていることしかできなかった。状況が動いたのは、ぱたぱたという足音と共に、女性の声が響いた時だった。


『辻さん! どうなりましたか!?』

矢野やのさん――どうやら、成功したようです』

『はい、あのは消えたし、のりこさんのアカウントも消えていたので。でも、連絡がないから――あの、これは……!?』


 現れた人影を見て、辻という人はすっと立ち上がった。ふたりのやり取りを聞いて、陽菜子はまた少し事情が分かった気がした。この女の人も、のりこさんに立ち向かおうとしていた人だったんだろう。今夜集まったのは、SNSを通して呼び寄せられた野次馬だけじゃなかったらしい。あんなに怖いのりこさんをどうにかしようと思ったのが、ごく普通の人たちだったなんて。幽霊の人が消えるのを目の当たりにしていてもなお、陽菜子には信じられなかった。


 ふたりの大人は、遺体を見下ろして少しの間話していた。警察、という単語も聞こえた。突然現れた遺体なんて、事件であることには違いない。だから当然の判断なんだろうな、と思いつつも、今夜ここに来た理由を問い詰められる場面を想像して、陽菜子はお腹がきゅっと見えない手に掴まれるような不安に襲われた。

 そして――


『あの、貴方は……?』

『私……えっと、のりこさん……じゃないと思うんですけど、幽霊、みたいな人に辻という人を探して、って言われて……』


 女の人の視線が向けられて、陽菜子は慌てて舌を噛みそうになりながら答えた。さっき、辻という人に説明した時もそうだったけど、こんなことを言ったら変な子じゃないかと思われそうで。焦るとますます言葉がめちゃくちゃになって、自分が情けなかった。

 陽菜子の残念な説明を、辻という人は補足してくれた。


武井たけいを連れて来てくれた。のりこさんのフォロワーだから、って。だからあいつも姿を見せることができたんじゃないかと……』

『もしかして、のりこさんごっこの……?』


 そうだ、幽霊の人は武井さん、といったのかもしれない。辻という人は、確かに何度かそう言っていた。でも、それは後になって思い出して初めて気付いたこと。その時の陽菜子の心を刺したのは、もっと別のことだった。女の人は、のりこさんごっこのことを知っていた。それをやって死んだ子がいたことも、多分。その人が急に、はっと何かに気付いたように表情を揺らしたのは、陽菜子が死んだ子を知っているんじゃないかと考えたからだろう。

 美月みづきのことを思い出して初めて、呆然としているだけだった陽菜子の気持ちが動き始めた。


『み、美月は、友達でした……』


 またも説明になりきっていない言葉を吐き出しながら、陽菜子の頬を涙が伝っていた。美月の名前を聞いても、この人たちが分かるとは思えなかったのに。

 さっきみたいにパニックになって、置いて行かれた自分が可哀想で零す涙じゃなかった。脅威が去ってほっとして――そして初めて、陽菜子は悲しいと思ったのだ。美月が死んでしまったことを、ちゃんと悼んであげられた。友達のために心を動かすことができたのが嬉しくて、でもやっぱり悲しくて、訳が分からなくて。これまでの緊張と相まって、嗚咽と涙を止めることができなくなってしまったのだ。


 ふたりの大人は、しばらくの間陽菜子が泣きじゃくるのをそっと見守っていてくれた。通報はどうしたんだろう、とちらりと思ったけれど、陽菜子から言い出すことなんてできなかった。喋ろうとしても、きっと泣き声になってしまうだけだっただろう。それに、どうせサイレンの音がますます大きく近くなっていた。放っておいても、多分警察が来るんじゃないか、という気がした。


『のりこさんのアカウントは、もう消えたの。だから、大丈夫だと思うけど……お友達のアカウント、できれば削除してあげたほうが良いかも。本人はいないのにずっとそのままって、可哀想かもしれないから……』


 だから、女の人が労わるように頭を撫でながらそう言ってくれた時も、陽菜子は目を擦りながら小さく頷くことしかできなかった。




 警察署に迎えに来た両親に、陽菜子はひどく怒られた。友人たちも同様だ。やっぱりあの公園での事件は大きなニュースになっていたらしい。娘がその現場にいたという、それも警察からの連絡は保護者をひどく心配させたようだった。皆、嘘を吐いて外出していたんだから当然なんだけど。


 特に怪我はなかった皆とは違って、陽菜子はしばらく自宅療養を言い渡された。怪我と言っても大したことはないんだけど、念のために、ということで。そうさせた親の心配も分かるし反省もしているから、大人しく引きこもり生活に甘んじている。予習も復習も、友人に持ってきてもらった塾の課題も、毎日時間を決めて取り組んでいる。

 スマートフォンは当分の間没収ということになった。これも、仕方のないことだ。親には「のりこさんごっこ」のことまで知られることはなかったけど、スマートフォンがあるから友達同士でこそこそ悪だくみしていた、と思われているようだったから。実際、そう的外れなことではないし。陽菜子としても、少なくとも当分はスマートフォンに触る気にはなれなかった。


 スマートフォンがなくて困るとしたら、友人たちとの連絡が取りづらいこと、それから、あの夜が世間ではどう処理されたか調べづらいこと、だろうか。親たちは、陽菜子の心身を心配してか、テレビのニュースがその話題になるとすぐにチャンネルを変えてしまったから。陽菜子はまだ自分のパソコンを持っていないし、新聞ではそれほど詳しい情報を得られなかったし。だから、陽菜子があの後について知っていることはごく限られる。


 あの夜、あの公園にはとてもたくさんの人が集まっていたということ。多分、のりこさんをフォローしていた人たちだけじゃなくて、投稿された心霊画像を見て興味を持った人たちも押し掛けていた。SNSのイベントでパニックか!? みたいなキャプションが、チャンネルを変えられる寸前のテレビ画面に映っているのをちらりと見た。集団幻覚とかヒステリーとか、そんな説明がされていたんだろうか。

 犠牲者は、押し合って転んだりした怪我人が何人か。パニックになって過呼吸か何かで――それか、あののせいで――倒れた人もいたらしい。あのサイレンは、そんな人たちを運ぶための救急車でもあったんだろう。

 そして――遺体が、ひとつ。陽菜子が知ることができた段階では、身元不明の女性、と表現されていた。辻という人が名前を呼んでいた以上、すぐに名前は分かりそうなものだったけど。でも、いきなり現れた遺体なんて、扱いには困るんだろうか。


(あの人が疑われていないと良いな……)


 陽菜子を優しく見守ってくれた人たちのことをぼんやりと思い出しながら、思う。親に付き添われて改めて警察に呼ばれた時、陽菜子が彼女から見えたことを伝えると、警察の人たちはとても困惑していたようだった。本当に? 見間違いじゃなくて? と何度も言われたし。親にも隠していることがあるなら言いなさい、と叱られたし、陽菜子の言葉を信じてくれてはいないようだった。大人たちのそんな態度もあって、陽菜子は幽霊の人やあの人たちのことを聞くことができないでいるのだけど。


「あ、間違えちゃった……」


 もう遠くなってしまった夜に思いを馳せていると、ペンを握っていた陽菜子の手元が狂ってしまう。考え事をしながら書きものなんて無理があったらしい。といっても学校に提出するようなものではないから、誤字をラフに塗りつぶして、ついでに目玉を描き足して毛虫みたいなイラストに仕立ててみる。


 陽菜子が書いているのは、友人たちに宛てた手紙だった。スマートフォンでのやり取りができない代わりに、ノートにメモを挟んで文通をしている。今日は何があったとか、陽菜子からは退屈に対する愚痴だとか。こんなことをするのは小学校以来かもしれない。もちろん、スマートフォンで文字を打ち込むより手間も時間もかかるんだけど。皆も付き合ってくれているのは、揃ってスマートフォンを没収されたからだけではない、だろう。あの夜、陽菜子を心配して怖いくらいの顔になっていた、皆の気持ちは、信じなければいけないような気がしている。


 だから、今日こそはこんなことを切り出すことだってできる。


 ――美月のアカウント、消してあげよう。あのままだと、のっとられたままみたいだし。


 のりこさん、という単語が陽菜子たちのメモに出てきたことはまだない。陽菜子も、皆に突かれてあの夜にあったことを少しずつ書き記そうとしているけど、名前を自分の手で綴るのはどうしても嫌な感じがしてできなかった。のっとられる、という表現でさえ、辺りを見渡しながら、乱暴に走り書きしたくらいだ。自分の部屋で、他に誰がいるはずもないのに。


 でも、あの夜にあの女の人が言っていた人がどうしても忘れられなかった。全部を理解できた訳じゃないけど、幽霊の人と辻という男の人とのやり取りも。

 のりこさんは、あのアカウントの元々の持ち主じゃなかった。多分、幽霊の人が最初にのっとられた人で、ずっとアカウントを使われていた。のりこさんはもういない、ということだけど――死んでしまった人のアカウントがずっと存在し続けるのは、確かに可哀想かもしれない。お葬式もされないで、ほったらかしにされてるみたいで。しかも、美月のアカウントの最後の投稿は、のりこさんが美月のお母さんを装ったものなんだから!


 ――パスワード、皆で考えよう。美月が好きだったアーティストとか、マンガとか、ヒントはあると思う。色々思い出したら、分からないかな?


 もちろん、美月のご両親ならパスワードを変更することもできるだろう。どこかにメモが残されてるかもしれないし、こんな推理ごっこは回り道に過ぎないのかも。でも、ご両親に相談するのは最後の手段にした方が良い気がした。自分じゃない存在が自分の振りをして娘のアカウントに投稿しているのを、美月のお母さんはきっと不気味に思うだろうから。「のりこさんごっこ」は、陽菜子たちがやってしまったことだから――陽菜子たちが、責任を取らなければいけないと思う。


 ――友達だったから。どうにかしてあげたいの。


 美月とは何を話して、何をしていただろう。顔色を窺って、少し怖いと思うこともあったけど、憧れたり、眩しいと思ったりした瞬間もあった。良いことも悪いことも、もう思い出の中にしかないことが切なくて悲しい。でも、前は悲しむことさえできなかった。だから、今の方が良い、はずだ。


 皆と一緒に美月のことを思って、考えて、笑って、泣こう。あの子のことを忘れないであげよう。のりこさんなんかから解き放ってあげよう。

 友達、だったんだから。

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