第11話 乗っ取り
白い手は氷のように冷たかった。この世のものではないはずだから、感触、というのはおかしいのかもしれないけど。ドライアイスを押し付けられでもしたかのように、冷気が肌を刺す痛みとして感じられた。
「助けてっ、誰か……!」
唇にもその鋭い冷たさが刺さるのを感じながら、
(聞こえてないの……!?)
昼間、事務所の会議室で。
「やだ……助けて……!」
そんなはずはない。扉まで行けば、開けることさえできれば人を呼べるはず。根拠のない、儚い希望に過ぎないけど、蜘蛛の糸に縋るような思いで千夏は懸命に扉へと這おうとした。床のタイルの溝に爪を立てて――でも、それだけだ。形を整えて磨き上げた自慢の爪が欠けて割れる、悲しい感覚がするだけで。千夏の身体は、少しも前に進んでくれない。
『はは、良い気味だ。泣け、喚け。もうどうにもならねえよ!』
スマートフォンから、
(やだやだ怖い……死にたくない……!)
事務所で、先に白い手に襲われた佐竹が、どうしてあんなに叫んでいたのかも、分かる。手が触れたところから、千夏の
SNSに書き込まれたことが、頭を過ぎる。
――のりこさんはSNS上ののっとり霊ですよ。取り憑いた人のリアルを探し当てて、取り殺しちゃうんです。
のっとり、って。投稿した画像にいつの間にか写り込んでいることかと思っていた。画像をアップできるのは、本来アカウントの持ち主だけなんだから。佐竹に疑われたように、普通なら千夏自身がその画像を投稿したとしか思えないだろうから。アカウントをのっとたかのように見える、ということなのかと。
でも、そうじゃなかった。のっとり、っていうのは、文字通りのこと。千夏の全てが奪われていく――のりこさんに、のっとられていくのが分かる。佐竹がのっとられて、
「や……だぁ」
少しでも扉に近づこうと手足を動かそうとしても、でも、千夏はもう自分の身体を思い通りにすることさえできなかった。声を上げて泣き叫びたかった――助けを呼べるなんて思ってないけど、恐怖を紛らわせるために――けど、舌にも喉にも力が入らない。五感の全てが鈍って、千夏という存在が溶けてぼやけていく。白い手が、彼女を撫で回してまさぐっていくうちに。
もがくのに疲れて頬を床につけてぐったりとする。と、視界に可愛らしいパンプスが目に入った。エナメルに、リボンをあしらったデザイン。続いて、フレアスカートのレースをあしらった裾が。
「あぁ……」
千夏を覗き込む
(この人は……違ったんだ……)
生者のものではない虚ろな黒い目で千夏をあんなに怯えさせた彼女は、のりこさんと呼ばれる存在では、
(あなたも乗っ取られたの……?)
もう声が出ないから目線で問いかけると、彼女は必死の表情で顔を上下させた。千夏に張り付いたままの白い手を剥がそうとする身振りをしているのを見て、本当は優しい人だったのかもなあ、なんて思う。思えば事務所ではこの人は千夏に背を向けていた――庇って、くれていたのだ。睨んだのも、敵意を示すというよりは佐竹に近づくなという警告だったのかも。
(あはは……分からないよ……)
だって幽霊なんて怖いもの。ましてあんなに沢山の画像に写り込んで、千夏に追い詰められているような気分にさせて。今だって、この人の姿に驚いて電話を取ってしまったのに。
苦笑で済ますことができるのは、もう何もかもがどうでも良いからだろう。死への恐怖も、のりこさんへの恐怖も。怖がるということそれ自体が、結構な気力と体力を必要としていたんだな、と。千夏はこんな時になって初めて知った。
(ああ、でも……嫌……!)
佐竹の嗤う声が、遠い。白い手が千夏の中を
霞む視界に見せつけるかのように、白い手がスマートフォンを千夏に突きつけてきた。そこに映るのは、ホームでも待ち受け画面でもない、とても見慣れたSNSの画面。それも、千夏のアカウントでログインした画面のものだ。ほんの少し前までは、一日に何度も喜んで覗いていたのが遠い昔のことのよう。
千夏の名前で、千夏のアカウントを使って、のりこさんは一体何をしようというんだろう。知りたい気もするけれど、知らないまま逝った方が良いのかもしれない。何であっても、きっと怖くて嫌なことには違いないんだから。
(うん……知りたくない……)
安心するような。でも、この後のことが気になっても少しだけやもやするような。相反する思いを抱えながら、千夏はそっと目を閉じた。
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