第8話 辻隆弘?

 契約の時も通された探偵事務所の応接室で、朱莉あかりは一枚の紙とにらめっこしていた。仮の調査結果として、前回も会った事務員だか調査員に渡されたものだ。朱莉が探していたつじ隆弘たかひろという男性と思しき人たちのプロフィールが、ごくざっくりと記載されている。A氏、二十七歳、メーカー勤務、B氏、三十二歳、公務員、といった具合だ。この段階で全ての候補のより詳細な情報を調べ上げてもらったら、朱莉には報酬が払い切れないことになってしまう。だから、この表面上の情報から武井たけい法子のりこが探している人物を選ばなければならない。外れたら他の人に当たる、ということもできるけど、予算的に全員の個人情報を調べ上げることはできない。だから、慎重に考えないと。


(といっても、判断材料なんて……)


 朱莉は、辻隆弘という人のことを何ひとつ知らないのだから。その人を知っているのは武井法子だけ、そしてあの白い影のような女性と接触することはもうできない。メールだろうとSNSだろうと、あの人に呼び掛ければきっとあのも現れてしまう。何より、洋平ようへいはたまたま上手く――不味く、かも――のりこさんを呼び出すことができたけど、次も同じことが起きるとは限らない。アプローチはあくまでも現実リアルから、と。を撃退した夜に決めたはずだ。


「もしかしたら、この人がお勧めかもしれません」

「どうしてですか……?」


 もちろん、考えたところで正解が分かるようなことではないのだけど。思考の迷宮に入り込んでいた朱莉は、不意に声を掛けられて顔を上げる。すると、対応をしてくれていた男性が、指を伸ばしてリストの中の一行を示していた。上から四行目、二十八歳、金融関係。他の候補と同じく、そんな端的なプロフィールからは人物像なんて窺えないけど――


「この人、SNSのアカウントを持ってない人なので。アカウントを消したから連絡が取れなくなったんでしょう?」

「……でも、再登録することもありますよね? それに、SNSにも色々あるし……」


 実際は何も知らない人の調査を依頼するため、その怪しさを誤魔化すためにこじつけた話を思い出しながら、朱莉は首を傾げた。疑問を口にしながら、人を探すのにSNSの検索さえしていなかったように見えるのはまずかったかな、と背中に冷汗を感じる。のりこさんの魔手がどこまで伸びてるか分からないから、メジャーなものだけでもSNSのサービスが幾つもあるのは知った上で、そこから辻氏を探す気にはなれなかったのだ。


「まあ、可能性を考えたらキリがないんですが。あんまり大きな声では言えないですが、アカウント登録した時期を見て、とかですね。消息を絶つなら、どのSNSでも同じ時期に退会してるんじゃないかな、って思うんで……だから、古いアカウントがある人は違うんじゃ、くらいのことですね」

「なるほど……」


 少し声を潜めながら、男性は目線で応接室の扉を窺う仕草をして見せた。事務所の他の人たちには聞かれないように、ということらしい。確かに、朱莉にヒントを与えてはいけないだろう。探偵事務所としては、朱莉がハズレを引いた方が儲けるチャンスになるんだから。


「お客様の満足度も大事ですからね。まあ、ご参考程度に」

「なるほど」


 頷きながら、朱莉の胸を罪悪感がちくりと刺した。この人が何を想像しているのかは分からないけど、若い女の人探しで、悲壮な表情をしているのを気の毒にでも思ってくれたのかもしれない。よほど差し迫った事情があるとでも思われたのかも。実際には、彼女が追っているのはSNS上の怪談とかいう怪しげなもので、思いつめた表情をしているとしても、辻氏のためじゃなく洋平のためなんだけど。……だから、無駄な気を遣わせてしまった、ともいえるんだけど。


「では、とりあえずこの人で。追加の調査を――できれば、連絡先の入手も、お願いします」


 朱莉は、探偵事務所員の厚意に甘えることにした。相手の気遣いを無駄にしないためだけじゃない。彼の提案は、理に適っているかもしれないと思ったからだ。

 辻氏と武井法子の関係は分からない。苗字は違っても親戚の可能性はあるし、恋人や友人なのかもしれないけど、そのどれかは分からない。まして、関係の深さなんて知る由もない。でも、どうして武井法子が彼を指名したか、については、仮説めいたものも立てられるかもしれない、と思う。

 武井法子はSNSのメッセージではなく、メールという形で彼の名前を遺そうとした。洋平も、窓を割ってまでスマートフォンを白い手から守ろうとした。白い手にとって、辻氏が見つかることはよほど都合が悪いことらしい。多分、武井法子のアカウントのパスワードを知っているから、ということなんだろうけど。でも、そこまで目障りなら、辻氏を殺してしまえば良い。……洋平に、したように。それをしない、あるいはできないでいるということは、辻氏はSNSとは無縁の人なのかもしれない。


(洋平とはまるで逆の人なのかなあ……)


 そんな感傷も、また違う心の痛みをもたらしたけれど。それでも、少しずつ前に進んでいるはずだと信じたかった。




 探偵事務所からの次の連絡は、意外なほどに早かった。実のところ、調査はもう終わっていて、朱莉の判断を待つだけの状態だったのかもしれない。洋平の死からここまで、一か月も経っていない。待っていた間は、洋平が遺したメモを再読しているうちにあっという間に過ぎて行った。


 目的の人の情報――住所や、電話番号――は、配達証明で届いた。パスワードをかけてメールの方が早いですが、と言われたけど、朱莉はもうネットを介して情報をやり取りすることが怖くなっている。SNSじゃない検索や、それこそメールまではあのは把握していないのかもしれないけど、もちろん実験して試してみる気にはなれなかった。とにかく――


(まずは電話、だよね……)


 送られてきた紙片、そこに記載された数字を眺めながら、スマートフォンを握りしめながら、朱莉は何度目かの深呼吸をしている。いきなり自宅に押し掛けるのは、いくら何でも怪し過ぎるだろう。それに、とても失礼な想像なのだろうけど、朱莉は若い女で相手は男性だ。もしも相手が逆上したりなんかしたら、お互いにとって不幸な結果にもなってしまうだろう。

 だから、どんなに気が重くても緊張するとしても、電話をしなければ。というか、手紙や直接会いに行くのと比べたら、かなりハードルは低いはずではある。手を滑らせる汗を服で拭ってから、朱莉はひとつひとつ慎重に、電話番号を打ち込んだ。


 呼び出し音が鳴る。少なくとも、この電話番号は生きている。探偵事務所は、料金分の仕事をしてくれたのだろう。問題は、誰が出るか。それから、出てくれるかどうか。

 ぷつ、と音がして、朱莉は小さく身を乗り出した。自宅で、ひとりだけの状況ではあるけど、傍から見たら滑稽な姿だったかもしれない。

 でも、一層の緊張に身体を強張らせたのも束の間、スマートフォンから流れてくるのは合成音声だった。ただ今電話に出られません、御用の方は――という、おなじみの留守番電話の案内だった。とはいえ朱莉もこれくらいは予想している。見も知らぬ番号からの着信なんて、たとえ電話が手元にあっても普通は無視するだろうから。だから、伝言を残すことで悪戯ではないと相手に伝えなければならない。伝言を聞いた上で悪戯と判断される恐れもあったし、そもそも留守電を聞いてもらえない可能性だって十分あるけれど。


「……辻隆弘さんのお電話ですね? 武井法子さんからのご伝言を預かっています。人違いでなかったら、折り返しをお願いします」


 できるだけはっきりとゆっくりと、どもったり声が上擦ったりしないように。冷静に――全く、冷静ではないけど――語っていると、相手に思ってもらえるように。朱莉は、考えていた伝言を吹き込んだ。

 まずは、相手の名前を知っていることを伝える。間違い電話ではないということを。そして、相手がだったら反応するであろう名前を出す。武井法子は、辻氏にとって特別な相手だろうから。伝言、という表現をしたのは、武井法子が多分既に亡くなっていることを、辻氏が知っているか分からなかったからだ。武井法子さんが探している、とかいう言い方だと、死者の名前を騙っていると思われかねない。もしも亡くなっていると知っていたとしても、生前関係のあった人間からだと考えてくれれば、と期待していた。


 無事、伝言を言い終えると、朱莉は通話終了のボタンをタップして、深く息を吐いた。後は、相手の反応待ちだ。今のところは、彼女にできることはない。もしも反応が全くなかったり、心当たりがないと言われたら、また次の人の情報を探ってもらわなければならなくなるけど。




 数日の間、朱莉は常にスマートフォンを気にしながら過ごした。まるでかつての洋平みたい、と思っては少し悲しくなりながら。仕事にも集中できないから、いっそ休もうかとも思ったけど、踏み切ることはしなかった。辻氏の自宅は、新幹線とは言わなくても、電車で一時間以上かかる場所にある。もしも彼と直接会うことになったとしたら、その時こそ会社を休まなければならないだろう。


 ミスをしそうだと自分でもひやひやしながら何とか仕事を終えた、夜。食事を終えてひと息吐いた朱莉の耳に、スマートフォンのバイブ音が刺さった。いつ着信が来ても分かるよう、テーブルに置いておいたそれが、木の面と触れ合って鈍い音を立てている。


「……っ!?」


 掴むようにスマートフォンを手に取って、何の通知かを確認する。メールでも、前以上に使わなくなったSNSでもない。朱莉の手の中で振動を続けるスマートフォンは、電話の着信を知らせていた。その、相手は。


 辻隆弘?


 期待を持ち過ぎないように、という戒めを込めて、クエスチョンマークをつけて登録した、例の番号だった。

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