第10話 着信

 暗い病室でベッドに横になって、でも、千夏ちかは眠ることなんてできそうになかった。病院の消灯時間が、普段彼女が寝る時間より大分早いからだけじゃない。結局、千夏はひとりきりで夜を過ごさなければならなくなってしまった。呼べば看護師や、もしかしたら医者も来てくれるのかもしれないけど、付きっ切りという訳にはもちろんいかないし。

 沢村さわむらが手配してくれたのか、千夏は本来は六人用と思われる部屋を独り占めする格好になっている。他の人に気兼ねしなくて良いように、という配慮なのかもしれないけど、カーテンで区切られた空間の広さと暗さを、意識しないでいることはできなかった。


(寝なきゃ……)


 目を開けていても、良いことなんかない。視界に映るカーテンレール、その隙間やその上から、あのが伸びてくるなじゃないか、とか。が覗き込んでくるんじゃないか、とか。余計なことを考えてしまうんだから。

 でも、たとえ硬く目を瞑ったとしても、想像が黒い翼を広げるのを止めることは難しかった。この病院、救急車が搬送されるだけあってかなり大きかった。病室も多いようだし、亡くなった人も沢山いるんだろう。もしかしたら、この部屋、千夏が寝ているベッドでだって。そもそも、病院には霊安室がつきものなんじゃないだろうか。今この瞬間にも、冷たくなった遺体が同じ建物の中にいるのかもしれない。――ううん、いる。少なくとも佐竹さたけは、まだこの病院にと思う。原因不明の不審な亡くなり方を――普通の人から見たら――したんだから。きっと、調べなきゃいけないことも多いはず。


 佐竹は、千夏のとばっちりで亡くなってしまった、ということになるんだろうか。のりこさんは、最初は千夏に憑いていたんだから。あの時佐竹が持っていたのも千夏のスマートフォンで――だから、佐竹も千夏を恨んでなんてことも、あるだろうか。


(私、何もしてないのに……!)


 でも、やっぱりそんなのは理不尽だ。佐竹は自分で千夏の画像をアップした。それでのりこさんに見つかってしまった。千夏は止めてと懇願したのに。だから、千夏が気に病むことはないはずだ。


(大丈夫……大丈夫)


 ……自分に言い聞かせて身体を縮めていると、静寂を破る電子音が響いた。千夏は毛布に包まったままで飛び上がる。スマートフォンのバイブ音――沢村から預かった、予備の機体に着信があったのだ。枕元に裏返して置いてあったスマートフォンは細かく振動して、それ自体が立てる音と、サイドテーブルと触れ合う音が合わさって、看護師に怒られるのではないかというくらいの騒音が出てしまっている。

 振動によって微妙に位置をずらしていくスマートフォンを見つめて、でも、千夏はそれを止めることはできなかった。ただ、ベッドに半身を起こして、毛布を引き寄せて遠巻きにするだけで。


(誰からなの……? 沢村さん……?)


 沢村が千夏に連絡したいことが発生したなら、もちろんすぐに出なければいけない。でも、架けてきているのは沢村とは限らない、のではないだろうか。予備とはいえ、沢村が仕事で使っているんだから、他の人が何かしらの用件で架けてきているのかも。でも、こんな夜中の電話なんだから、それなりの急用――つまりは、のりこさんとか、霊能者とかに関わることだろうと思って良いのかもしれない。


 霊能者とやらが何時に到着するのか、深夜にでも連絡をもらうことがあり得るのか、聞いておけば良かった。千夏にとって良い報せだと確信することができれば、この息詰まるような状況を打開することができると思うことができれば、躊躇うことなく電話を取ることができるのに。たとえ自分のものでなくても、千夏はもうスマートフォンに触れるということだけでも怖くて仕方ないのだ。


(あ……誰からか、分かれば……?)


 執拗に思えるほど振動を続けるスマートフォンを前に困り果てて――やっと、千夏は当たり前のことに気付く。沢村が誰をどんな名前で登録しているかは知らないけど、スマートフォンを表に返してみれば、仕事上の架電なのか千夏に関わるものなのかは分かるはずだ。


 どきどきと高鳴る心臓を宥めながら、恐る恐る手を伸ばそうとした、その瞬間。そっと触れようとしていた心構えに反して、千夏はスマートフォンを引っ掴むと同時に叫んでいた。


「きゃああぁああ!?」


 目が、合ったのだ。画像ではもう何度も見て、でも慣れることなんかできなかった虚ろな黒い目。SNS上に現れた時は感情が見えなかったのに、昼間の事務所でははっきりと千夏を睨みつけていた。のりこさんの、あの、白過ぎる顔がベッドの横に現れて、千夏を見下ろしていた。昼間以上に険のある目で、色のない唇が動いて何か言おうとするかのような――それを見ないように、千夏は慌てて目を逸らした。

 そして沢村のスマートフォンを掴むと、画面も見ずに画面をタッチして電話に出る。相手が誰でも良い、助けに来てもらえるように。ベッドの上を転がり落ちるギリギリのところまで後ずさりして、のりこさんから距離を取りながら。


「沢村さん!? 助けて――」

『あ、千夏ちゃん? やっと出てくれて良かったあ』


 スマートフォンから明るい声が響く。そろり、とベッドに乗り上がってくるのりこさんの鋭い眼差しとは対照的に。でも、誰かと連絡が取れる状況になったからといって、千夏の恐怖は全く和らぐことはなかった。むしろ、氷の刃で胸を貫かれるような衝撃が襲う。ショックと、のりこさんから逃れようと、身体が跳ねてベッドから落ちる。テレビ台だったか何だかが倒れる派手な音が夜の病室に響く。


(嘘……嘘……!)


 スマートフォンから聞こえる声は、全く予想だにしない人のものだった。沢村ではない、男性の声。馴れ馴れしくて、どこか纏わりつくような軽い口調。昼間聞いたばかりだから間違えるはずがない。でも、絶対にあり得ない――佐竹の声。


、千夏ちゃんの番号知らんのよねえ。沢ちゃんに番号聞かなきゃって思ってたんだけどさ。手間が省けたみたいで良かったわ』


 スマートフォンを耳から離して画面を見てみれば、「佐竹さん」との表示。沢村が登録していたのは不思議じゃないけど、が架けてくるのはあり得ない。だって佐竹は死んだはずなんだから!


「なんで……なんでっ!?」


 あちこちをぶつけた痛みも忘れて、パニックに駆られてスマートフォンに怒鳴りかけると、佐竹が笑う気配がした。本当に、気配だけ。人間なら吐息が雑音になって聞こえるんだろうに。はっきりと聞こえるのに、佐竹の声からは息遣いというものがまるで感じられなかった。


『何で、って。見てたでしょ? 俺、持ってかれちゃったの。ぜーんぶ。沢ちゃんの番号とか含めて、さ。だから――』


 軽薄な調子の佐竹の声が、ぐっと低くなった。空気にまで干渉しているのか、千夏の恐怖のせいなのか、肌が粟立つのを感じる。その肌をねっとりと撫でるように。鋭敏になった神経に、直に爪を立てるように。佐竹の声が、鼓膜に刺さる。


『てめえだけ逃げようったって許さねえぞ』


 覗き込んだスマートフォンから突風が吹いたような気がした。白い突風――違う、白いだ。佐竹を襲ったあの手が、また現れたのだ。


「いやああっ」


 叫びながら、千夏は病室の床を転がった。手足だけでなく、頭にも鈍い痛みが走る。ベッドの脚にぶつけた。埃が口に入る。回転する視界に踊る、白い手指とのりこさんの白い顔。


「やだああ、やだ、やめてっ」


 その全てを振り払いたくて、闇雲に手を離す。でも、ほのかに熱を持ったスマートフォンは千夏の手から離れてくれない。佐竹の時と同じだ。白い手が千夏の腕をしっかりと掴んで、離されまいとしている。それだけじゃなく、彼女の顔を目掛けて這い上がって来る。


 視界が白に覆われる。顔の半分ほどを、あの手に掴まれたのだ。

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