第5話 自作自演

 質の悪い睡眠しかとれなかった翌朝、千夏は肌のコンディションに軽く絶望しながら身支度を整えた。スマートフォンにはチェックするのも億劫なほどの通知が溜まっている。中には、昨夜のひと言以来何の発言もないのを心配してくれているものもある。確かに、普段なら「おやすみ」や「おはよう」の挨拶をフォロワーにするものなのだけど。「のりこさん」に触れた発言が最新のものになってしまっているのは、不本意ではあるのだけど。でも、文字を打ち込む気力がなかった。


 サングラスと帽子を着用して、千夏は家を出る。普段の「有名人ごっこ」とは一線を画する、必死の思いでの出で立ちだった。家の周辺――最寄り駅までくらいなら、SNSに上げたことはないから大丈夫なはず。でも、そこから先は分からない。

 今日の外出先は、千夏の所属事務所だ。そこに行くまでには駅を幾つか通らなければならない。人が多い駅、賑わっている駅、比較的地味というか目立たない駅だって。千夏が降りたことがない場所はないだろう。雑誌の撮影なんかだと、あえて下町っぽい風景を探すことだってあるんだから。――それはつまり、千夏はそれだけあちこちで画像を撮ってはSNSに投稿してきたということ。その多くに、「のりこさん」は写っていたということ。


(地縛霊とか言うじゃん……! は、何なのよ……!)


 幽霊が移動できる距離はどれくらいなんだろう、なんて。考えたくもないし、考えたところで分かるはずもない。ただ、とにかくも「のりこさん」はSNSに投稿された画像のところには移動できる、ということなのかもしれない。千夏の投稿を辿って、画像から抜け出して、現実のその場所を徘徊する。他の人の画像にも写り込んだりもする。それを繰り返すのだとしたら、通りすがりにと鉢合わせてしまうこともある――のだろうか。


 馬鹿馬鹿しい、気にし過ぎだ、とは思いたい。でも、あの画像の一覧を見て気にしないのは不可能だ。「のりこさん」にまつわる沢山の――それぞれ矛盾しているようにさえ思える――噂も。どれが本当か分からないからこそ、最悪のものがそうだった時が恐ろしい。


 ――のりこさんに見つかってはいけない。


 見つかったらどうなるかも分からないけれど――絶対に、良くないこと怖いことだろうという確信だけはあった。


 だから千夏はできるだけ身体を縮めて、顔を俯かせて、人目に付かないように息を潜めていた。いつもなら時間潰しに弄っているスマートフォンは、拡散やコメントを報せる通知でを見てしまうのが怖いから、触れることができなかった。




 その部屋は、事務所の社員やスタッフ、所属モデルや俳優が会議や打ち合わせに使う場所だった。タレント事務所、といっても誰もが名前を知っているような大手ではないし、建物や内装も特別洗練されているという訳でもない。折り畳みのテーブルを、固い座面と背もたれの椅子が囲む、どのオフィスにも――あるいは学校とかにも――あるような絵に描いたような「会議室」だった。部屋の隅には観葉植物。それに、所属モデルたちが載った雑誌やフリーペーパーを並べたラックがあるのだけは業界それっぽいかもしれない。


「あの――」

「千夏ちゃん、おはよう。早速だけど、幾つかオーディションの話が来てて。どう?」


 幽霊に取り憑かれた、なんて話をどう切り出そうかと千夏が言い淀むうちに、マネージャーの沢村さわむらが数枚の紙を取り出してテーブルに並べた。仕事のチャンスは、いつもなら歓迎するもののはずなのに、今の千夏には喜ぶことができない。オーディションやイベント、撮影の会場として記載された地名の中には、「のりこさん」がかもしれない場所が幾つも含まれていたのだ。


「やだ……あの、できません……!」

「ええ? どうして……?」


 千夏程度の立場で仕事を選ぶなんて生意気だ。沢村は気さくな人柄で、最初に顔合わせをした時もお姉さんだと思ってね、とまで言ってくれた。今までも、注意をされたことはあってもあくまでも千夏が受け入れやすいように気遣ってくれていたと思う。

 そんな沢村の、整えられた眉が顰められるのを見ると、心臓が縮む思いがした。失望されるのも、我が儘を叱られるのも、「のりこさん」とは違った種類の怖さだから。


「あのっ、最近変なことが起きてて……これ、見てください……!」


 どう説明すれば良いか分からない。だから、千夏はSNSアプリを起動させたスマートフォンを沢村に差し出した。百聞は一見に如かず、ということ。少なくとも、千夏のアカウントは鳴りやまない通知で「炎上」したようになっている訳だし。事務所への連絡と相談は、むしろやるべきことのはずだから。


 案の定、というか。スマートフォンの画面を一瞥するなり、沢村の眉が寄せられた。きっちりとメイクを施した顔に、緊張が走る。


「これ……。――ちょっと、待っててね」

「あ、はい」


 スマートフォンが他人の手に渡ることは、普通なら居心地が悪いことなのだろうけど。今回に限っては、沢村がスマートフォンを持ったまま慌ただしく部屋を後にしたことにほっとしてしまった。のりこさんが潜んでいるのはネットの海。スマートフォンを手放したからといって、千夏のアカウントが狙われていることは変わらないのだけど。


 しんとした会議室で、千夏はしばらく時計の秒針が回る音を聞いていた。この部屋でこんなに静かにしていたことはない。いつも、沢村や他の社員やスタッフと喋っていたから、時計の針の音が聞こえるものだなんて初めて気付いた。耳が痛くなるような沈黙に不安になってもおかしくなかったけど、千夏にとっては安心の方が勝った。ひとりだということ、見られていないということ――フォロワーにも……のりこさんにも――は、スマートフォンやパソコンを見ている限り得られない、貴重な瞬間だから。ネットと現実リアルは全く別物で、切り離して考えているつもりだったのに。ネットからの恐怖が、千夏の現実へと浸食してきているようだった。


 と、会議室の扉が再び開いた。


「千夏ちゃーん、これ、大変だねえ」


 馴れ馴れしいような軽いような男の声はチーフマネージャーの佐竹さたけのものだった。千夏の担当マネージャーの沢村の、更に上司ということになる。沢村よりも更に歳上とあって、千夏も話したことはあまりない。ただ、軽薄な口調だからといって、同じように砕けた接し方をして良い訳ではない。立場に相応しい経験も能力もある人だから覚えておいて、と。沢村には言われている。


「はい……あの、すみません……」


 何に対しての謝罪なのかは分からなかったけど、目上の人間に対する構えから、千夏はまず頭を下げてしまった。視界いっぱいに迫ったテーブルに影が動いたのと衣擦れの音で、佐竹が向かいに掛けたことが分かる。更に、沢村も多分その隣に。


「しっかりしてる子だって聞いてたからあんまりうるさく言って来なかったからかなあ? こういうの、ちょっと良くないねえ」

「あの……?」


 千夏のスマートフォンは、まだ佐竹の手の中だ。しきりに指を左右させているのは、SNSの「炎上」ぶりを見てのことだろうか。本業と関係のない形で話題になバズってしまったのは、確かに良くないと思う。不本意だけど――叱られてしまうことも、あるかもしれないと思っていた。でも、佐竹の口ぶりは厄介事に巻き込まれたから、というよりは千夏自身がしでかしたことを咎めるようで、訳が分からない。


「あのね、千夏ちゃんには結構期待してるの。仕事も選んでるし、テレビにもちょとずつ出られてるでしょ?」


 何と反応して良いかも分からなくて、ぼんやりと首を傾げてしまったのが良くなかったのだろうか。佐竹は苛立たしげに少し声量を上げた。いかにも業界ギョーカイ人らしい、整えた髪型と洒落た服で凄まれると、声が出なくなってしまう。何か――ひどい誤解をされていること、ちゃんと説明しなければいけないことは分かっているのに。


「だから、無理にこんなことしなくて良かったの。私、霊感あるんでぇ~、とかさあ、そういう必死なことする子たちと君は違うの。フォロワーも結構増えたみたいだけど、結局炎上しちゃってるからでしょ? ファンにならない連中に注目されても、面倒なだけなんだよねえ」

「……違います……! 私、そんなこと――」


 千夏の、自作自演だと思われている。コメントで幾つか指摘されたように、のりこさんの画像は彼女が作ったものだと思われている。


 思ってもない疑いに声を上げても、佐竹は苦笑のような苛立ちを隠したような歪んだ笑みを浮かべて千夏を見返すだけだった。

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