川村陽菜子 通う意思

「あ……」


 陽菜子ひなこは、地面にへたり込むような格好で喘いだ。ジーンズに包まれたお尻から、じわじわと冷気が上がってくる。それとも、物理的な冷たさじゃなくて恐怖が這い上がっているということなのかも。きっとそうだ。全身ががたがたと震えて、歯がうるさいくらいに鳴っている。こんなに震えるような季節じゃないし。痛みと恐怖でパニックになって、身体がおかしくなってしまっている。

 陽菜子の目の高さでは、のりこさんのスカートがふんわりとしたラインを描いている。描いている、だけ。風がなくても、佇んでいるだけでも、普通なら少しは揺れるものだろうに。絵に描いたように動かないフレアスカートも、その持ち主がこの世の存在ではないと教えているようだった。


 と、陽菜子が握りしめていたスマートフォンが震えた。バイブ音が異様に大きく響いた気がして、陽菜子は慌てて画面を見る。目の端に映る白い影を、できるだけ意識しないようにしながら。


 バイブは、SNSのメッセージを通知するためのものだった。走って行ってしまった友達から――ではない。メッセージを送ってきたのは、見慣れてしまったアイコン。それと同じ白い顔が、陽菜子のすぐ傍にわだかまって彼女の動きを凝視している。


 ――皆、どこにいるの?早くしてよ。もう始まってるんだから。


 メッセージを一読して、陽菜子は跳ねるようにして白い影を見上げた。真正面から生きていない人の顔を見ることになって、心臓がぎゅっと締め付けられる。喉も。それでもどうにか息を吸って、陽菜子は引き攣った声を絞り出した。


「ご、ごめんなさい……!」


 グズグズしていたからだ、と思ったから。暗いから、怖いからってのろのろと歩いていたから。だから、のりこさんは怒ってしまって、陽菜子たちを急かしに来たんだと思ったから。皆はどうなったんだろう。走って、無事に逃げられたんなら――陽菜子だけが、のりこさんの罰を受けなければいけないんだろうか。


「ちゃ、ちゃんと行く……走って、走る、から……っ」


 ばくばくと鳴る心臓の音が自分の声を掻き消すようで、まともに言葉になっていたか分からなかった。泣きながら、しゃくり上げながら必死に訴えようとしているけど、傍からは何を言っているか分からないような喚き声でしかないのかも。


 だから、嘘を吐いていないのだと、命令を聞くつもりがちゃんとあるのだと、陽菜子は行動で示そうとした。鼻水を啜り、舌を出して荒く呼吸して。手足を懸命にもがかせる。転んだ痛みと恐怖で動きそうにないのを、無理に力を込めて。聞こえてきた悲鳴も、SNSに投稿されていた白いも怖い。でも、のりこさんはもっと怖いから。美月みづきみたいに、殺されたくはないから。


 力が入らない脚を、それでもよろめくように前に――悲鳴が聞こえた方へ、のりこさんに呼ばれた広場の方へ進もうとする。足元がふわふわとして、雲を踏んでるみたいだった。でも――


「なん、で……?」


 白い影が、陽菜子の前に立ちはだかって両手を広げた。動いても、やっぱり空気の流れを感じることはない。は、このは、陽菜子と同じ存在じゃないんだ。生きていない、血が通っていない。何なのか、何を考えているのか分からない。


「なんで!? どうすれば良いの!? ごめんなさい、許して、行かなきゃあっ」


 そんな存在を相手に喚き散らしても通じるか、分からなかったけど。恐怖の源である存在に怒鳴って大丈夫なのかどうかも。でも、とにかく訳が分からなかった。美月を殺したのに。脅してここまで来させたのに。どうして道を塞ぐような仕草をするんだろう。のりこさんは、陽菜子がどうすれば満足してくれるんだろう。


 うっすらと背後の景色を透かすその人は、もしかしたらぶつかっても跳ね返されずに通り抜けられてしまうのかもしれない。でも、死んだ白い色に触れる勇気なんてなくて、陽菜子はただ立ち尽くす。泣いて息が乱れて、頭がしびれて胸が苦しくなる。足も震えて、座り込んでしまいたい。そんなことをしたら、二度と立ち上がれなくなりそうだけど。


「お願い……許してよぉ……」


 呼吸がますます荒くなって、倒れてしまう。そう、覚悟しかけた瞬間だった。手の中のスマートフォンがまた震えて、陽菜子を飛び上がらせた。


「――っひゃ」


 バイブレーションに腕が跳ねて、画面が目に入ってしまう。ロックされた画面に、メール受信の通知がある。送信者は、登録されていないアドレス――noriko。


「なんでっ、何なのぉ……」


 メールなんて見たくない。何を言われるのか、何を命じられるのか見たくない。でも、厚い前髪の下からじっと睨まれている気配がした。視線だけじゃない。もっとはっきりと、白い手が持ち上がって、スマートフォンを指す。ちゃんと読め、と。逃げられないのを悟って、陽菜子はぎゅっと目を瞑ってから画面をスワイプした。すると現れたメッセージは、予想だにしないものだった。


 ――辻隆弘を探して。


 怖いことでは、ない。でも、意味が分からない。


「つじ、たかひろ……?」


 そこに書かれた人の名前を読んでみると、「のりこさん」の頭が微かに縦に動いた。それにつられて髪が揺れることは、相変わらずなかったけど。信じられないけど――陽菜子の声に反応して、「のりこさん」は頷いた。幽霊と、意思疎通することができた、んだろうか。


 泣くことも、怖がることさえ忘れて白い人をまじまじと見ていると、スマートフォンが立て続けに振動した。一度、二度。SNSの通知じゃない、メールの受信だ。いずれもさっきと同じアドレスから、さっきのように短い文章のもの。


 ――あいつに見つかる前に。

 ――彼ならあいつを消せる。


「何、なに、これ……」


 意味もなく呟きながら、陽菜子はスマートフォンと「のりこさん」をせわしなく見比べた。暗闇に浮き上がるような白い影。前髪で目を隠した自撮り画像。女の子らしい格好で、女の子らしいSNSのアカウントを持っている――それが、のりこさんだと、疑うことなく信じてきた。のりこさんごっこ、なんて言っていたくらいだったし。

 でも――メールが言うところのが何なのか、分かる気も、する。SNSに投稿されていた、白い手の画像と動画。美月のフリをして、陽菜子たちを騙して脅した、ヤツ。見つかってはいけない存在。それが、それこそが、のりこさんなのだとしたら。


「あなたは……何なの? のりこさんじゃ、ないの……?」


 どうみても「のりこさん」な存在に対してそんなことを聞くなんておかしい、とは思った。普通じゃない存在なのは間違いがないんだろうし、怖いことにも変わりはない。でも、気付きかけたことを確かめたくて、陽菜子は思わず呟いていた。


 震える声での問いかけに、そのの色のない唇が、ふ、と緩む。まただ。また、陽菜子の言葉が通じている。SNSのメッセージを通じて繋がってしまったよりも、の方がまともに話ができるんじゃ、なんて希望も、ほんの少しだけだけど湧いてきてしまう。だって――を消す、って言ってるんだもの。このなら――


「こ、殺さない……? あの、えっと……た……助けて、くれる……?」


 図々しい期待かもしれない、怒らせてしまうのかもしれない。信じて良いのかも分からない。何もかも不確かで、辺りはやっぱり真っ暗で、安心できることなんかひとつもない。でも、陽菜子の目の前にはこのしかいない。自分では何も分からないから、指示や指針を求めて尋ねずにはいられなかった。そして。

 のりこさんではない――何者かも分からない幽霊は、陽菜子に対して先ほどよりもはっきりと頷いてくれた。口元の静かな微笑みも、少し深まったように見える。


「じゃ、じゃあ……その……辻、さんを探せば良いの……? ば、場所は……?」


 その笑みに励まされて、陽菜子はもう一度、問いかけることができた。辻隆弘という人が何者なのかも、分からない。知らない男の人だって、怖い。でも、これをしなきゃいけない、これをすれば良い、という方向があるのは嬉しい――のかもしれなかった。これまでは、美月。そして今はこの白い――多分――幽霊。陽菜子に指示をしてくれる存在がいるのは、心強い。


 白い幽霊はまたはっきりと頷くと、す、と音もたてずに宙を滑らかに動いた。公園の中を走る道が、別れるところへ。スマートフォンのライトをかざしてみると、白い手が指し示す方は「のりこさん」が指定した広場の方では、ない。


「わ、分かった……!」


 幽霊を追って走り出す陽菜子の耳に、また遠くから響く悲鳴が刺さった。

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