第2話 鏡の中に
耳元に響くバイブ音で
(朝……!)
カーテン越しに注ぐ光の明るさ、眩しさ。まだ涼しい空気を、苦しさの欠片もなく吸い込む爽やかさ。そんな、いつも通りの朝に安堵の息を吐きながら、麻里はアラームを止めた。同時に彼女の指は滑らかにロックを解除してSNSアプリを立ち上げる。寝起きのSNSチェックも、彼女の日常の動作だから。同じように寝起きだったり、あるいは朝食を摂りながら、部活の朝練などのためにもう登校しながら。それぞれの日常を伝えているであろう友人たちの投稿を見ることで平常心を取り戻したかったのか、あるいはまったく意味がないことなのか。彼女自身にも分からないまま、指が無意識に動いていた。
多分、日常の動作をなぞることは確かに効果があったらしい。目覚めたばかりはまだどきどきしていた麻里の心臓も、スマートフォンの画面をタッチするにつれて収まっていった。それに、そう。賑やかな絵文字や顔文字のコメントの中に紛れれば、彼女自身の昨夜の異常な体験も、きっと馬鹿馬鹿しく見えるだろう。
――金縛りにあっちゃった! 寝起き最悪!
投稿ボタンをタッチした瞬間、麻里の心はすっと軽くなった気がした。ほら、明るい画面に並ぶ文字からは、昨夜の
――大丈夫?
――大変だったね。
――私もなったことある!
ありきたりな日常のことではないからだろうし、オカルト的なことへの興味や好奇心もあるのだろう、友人たちからのレスポンスも早かった。次々に増える通知に、寄せられる慰めのコメントに、麻里の口元には笑みが浮かぶ。十五分とはいえ寝坊した分、早く身支度を整えなければいけないのだけど。
(でも、少しだけ)
少しくらい良いだろう、と。自分に言い訳をしながら、麻里はいそいそとコメントへの返信を書き込んでいく。友人に気に懸けてもらっている、心配されているという感覚は気持ちの良いもの。自室にいながら、中には違う学校の子からも反応をもらえるなんて。今の時代に生まれて良かった。
あらかたの返信をし終える間にも、「いいね」のハートは増えていく。コメントをもらえる訳ではなくても、ハートの数は関心を示されていることの証拠になる。だから、誰が「いいね」をしたのかチェックするうち――
『norikoさんがいいねしました』
「え……っ」
一件の通知と、その脇に表示されたアイコンを見て、麻里は思わずスマートフォンを投げ捨てていた。といってもベッドの上のこと、ぽす、という柔らかい音がしただけだけど。大事なスマートフォンを拾い上げるより、身支度のための時間がどんどん短くなってしまっていることより、彼女の注意はただ一点に集中していた。
スマートフォンの画面に表示された小さなアイコン。昨日繋がったばかりの、知り合いとも言えないどこかの誰かの自撮り――多分――写真。目を前髪で隠した女性。白い肌と少し微笑んだ口元。
それは、昨夜麻里の胸の上に乗っていた女の顔とそっくりだったのだ。
昼休みに友人たちと喋りながら。放課後、電車に揺られながら。麻里はいつものようにスマートフォンを弄って遠くの友人たちと交流したりハートを送りあったりした。でも、今日に限ってはいつもよりも「作業」感が強かったかもしれない。だって、昨夜の出来事と「noriko」さんのアイコンに、かなり動揺してしまっていたから。いつも通り楽しくやろうと思っていても、不意に画面を過ぎるあのアイコンに、どきりとさせられずいはいられないから。だから、できるだけ誰がどんな発言をしているか見ないように、できるだけ当たり障りのない、最低限のコメントで済ませるようにしていたのだ。
(気のせい、だと思うけど……)
熱くなったスマートフォンが、じりじりと指先を炙る気がする。その熱によって、彼女の心までもが焦がされるようで。画面をフリックしながら、気が付くと麻里は昨夜のように息を詰めてしまっていた。
気にするのは馬鹿馬鹿しい、とは思っている。金縛りなんてただの生理的反応に過ぎなくて、頭は覚醒しているのに体が眠っているから起きることだ、なんて聞いたことがあるし。norikoのアイコンのような影を見たのも、説明がつかない訳じゃない。寝る直前にスマートフォンの画面を凝視していた訳だし、記憶に残った画像がたまたま夢のように浮かんできたのかも。そう、思えば良いはずだったし、実際そのように信じられそうな瞬間も何度もあった。でも、その度に麻里は見つけてしまうのだ。友人たちの呟きやおしゃべり――あくまでも画面上の――に紛れた、norikoの投稿。その横に表示された、あのアイコンを。すると同時に昨夜の記憶が蘇って、息が苦しくなってしまうのだ。
まるで、麻里が恐怖を忘れかけた瞬間を狙っているのではないかと思うほど、norikoの発言のタイミングは絶妙だった。年齢も本名も、前髪の下の素顔も知らない、どこの誰とも分からない相手だから、もちろんそんな考えは被害妄想に過ぎないのだろうけど。……でも、それもnorikoというアカウントの中に、本当に生きた人間がいるならの話だ。
帰宅して窓の外が暗くなると、麻里の胸に昨日の恐怖が闇と共にじわじわと押し寄せてきた。何といっても、昨日怖い目に遇ったのは自分の部屋のベッドの上でのことなのだし。
だから彼女は今日はリビングでテレビを見ながら課題をこなした。珍しがる両親には、見たい番組があるからと嘘を吐いて、見たくもないバラエティで好きでもない芸人が笑っているのを眺める彼女の目は、きっと淀んでいただろう。それこそ昨日見た――と思う――女の目のように。
「麻里、そろそろお風呂入りなさい」
「……はぁい」
それでも、必要以上にボリュームを上げてテレビをつけているうちは、まだその賑やかさで気を紛らわすこともできていたのだけど。夜更かしを咎める表情の母親が無情にテレビの電源を切ってしまうと、急に夜の静けさが身近に迫ってくるようだった。それに、お風呂だ。服を脱いで無防備にならなければならない。顔を洗う時は目を閉じなければならない。
(でも、入らない訳にはいかないし……!)
いつもはたっぷりと時間を掛けてマッサージだのパックだの半身浴だのを楽しむ麻里も、今日ばかりはそんな気になれなくて烏の行水で済ませた。裸でいる時間に耐えられなくて、薄いパジャマでも身を守る大事な鎧ででもあるかのように急いで手足を突っ込んで。でも、寝る支度が整うと、自室に行かなければいけない。あのベッドで、いつものようにスマートフォンを弄る気になれるだろうか。しかもその後、電気を消すなんてことは?
憂鬱な気分で、麻里はドライヤーを使っていた。狭い脱衣所は、リビングよりも明るさが落ちるからそれも少し嫌だった。洗面台のコンセントを使っているから、正面は鏡。そこに映る物陰が、何だか気になってしまって。
(気のせい、気のせい……)
今日でもう何度目か、自分に言い聞かせて、麻里はできるだけ自分の顔の辺りを見つめるようにしていた。隅の方を見てしまうから怖いんだから。何か動くんじゃないかとか、閉めたはずの扉が開いてしまうんじゃないかとか考えてしまう。見慣れた自分の顔なら大丈夫なんだから――
「――っひ」
自分の顔の辺りを見ていたから。だから、麻里はもろに目を合わせてしまった。鏡の中の麻里が、こぼれ落ちそうなほど大きく目を見開く。露出した白目に走る血管さえ、はっきりと見えるほど。自分のそんな顔にさえも、怯えさせられてしまうけど。でも、何よりの恐怖は彼女の
脱衣所の灯りが急に一段階暗くなった。停電でも起きたかのような。でも、そんなはずがないのは、温風を吐き出し続けているドライヤーが教えている。震える手によって出鱈目な方に吹く温風が、麻里の髪を乱して顔にもかかる。でも、
昨日と同じ、息がかかってもおかしくないほど近く、麻里の背中にぴったりと
色のない唇が麻里の耳元に寄せられる。声が空気を震わせることこそないけれど、今度こそ、唇を読むことはできてしまう。それくらい、麻里は
――ケ・テ……。
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