閑話 辻隆弘

彼女の記憶

 つじ隆弘たかひろの朝のルーティンおよび朝食の献立は概ね毎日変わらない。


 ベッドから抜け出ると、まず冷蔵庫に直行する。冷やしてある麦茶を一杯飲んだら、冷凍庫に保存してある白米を一膳分取り出す。それを電子レンジで解凍している間に、湯を沸かし、コンロを使って目玉焼きとか鮭の切り身、アジの干物なんかを調理する。主菜は日によって変えるし、目玉焼きにハムやベーコンを添えることもある。温まった白米と、出来立ての主菜を食卓に運び、椀にインスタントの味噌汁を入れて湯を注ぐ。これに納豆を添えれば独身の一人暮らしの男にしては十分な一食になる。

 自炊の方が外食やコンビニ弁当よりも経済的なのはもちろん承知しつつ、料理のレパートリーもそれほどないし、朝はできるだけ寝ていたいという思いもある。金銭面と手間と時間を天秤に掛けた結果、冷凍庫やインスタント食品も活用しているという訳だ。


 その日も、隆弘はお決まりの献立の朝食を用意していた。日本人の嗜好に合うのか、彼が食に特別のこだわりがないからか。代わり映えのしない品揃えでも飽きることがないのは幸いだった。

 ダイニングのテーブルの、彼が掛ける椅子の真向かいにはテレビが置いてある。一人暮らしで話し相手も行儀の悪さを咎める家族もいないから、無音の寂しさを紛らわせるためにテレビをつけるのも、彼にとってはいつものことだった。朝なら決まった局のニュース番組、夜なら曜日によってバラエティだったりドラマだったりを肴に晩酌することもある。


 納豆をかき混ぜながら、隆弘は馴染みのアナウンサーが馴染みの曲を背景にトークするのをぼんやりと聞いていた。スタジオに並ぶコメンテーターも見慣れた面々で、彼は曜日感覚を朝に見る顔ぶれで判断することもあった。

 天気予報、星座占い、視聴者からの投稿の紹介と、比較的どうでも良いコーナーが続くのを何となく聞く。何だよ雨が降るのか、とかラッキーカラーがピンクと言われても、とか。ついついテレビに話しかけてしまう、独り者の悪い癖を発揮しながら。


 まあ今日も普通の日だな、と思いながら朝食を終えようとした時だった。アナウンサーが神妙な表情で読み上げたニュースを聞いて、隆弘は少し顔を顰めた。


『モデルの葉月はづき千夏ちかさんこと本名渡辺わたなべ千夏さんが、――の病院で亡くなっているのが発見されました。死亡推定時刻に渡辺さんのSNSアカウントを第三者の端末から操作した形跡があるとのことで、警察では事件の可能性も視野に入れて捜査を――』


 聞いているうちに、白米を掻き込む手が止まってしまっていたことに気付いて、慌てて食事を再開する。食器の片付けの後は洗顔に歯磨きに髭剃りと、出勤前にやることはまだまだあるのだ。

 顎を動かしながらテレビの画面を見ていると、亡くなったというモデルの顔写真が映されていた。SNSの自撮り画像を拡大したものなのか、画像はやや粗いが、それでも彼女のぱっちりとした目元や抜けるような白い肌、ちょっと目を惹く可愛い子だったのはよく分かる。


(可哀想に。まだ若いのに……)


 隆弘自身も新卒での就職から数年を経たばかりで、世間的には十分若者の部類に入るのだろうけど。そう思ってしまうのは、彼にとってはSNSというものが「今時の子」が扱うもの、自分とは無縁でとっつきにくいものだから、だろうか。


『渡辺さんはSNSで、いわゆる炎上をしていたということで――』

『モデルさん、綺麗な方みたいですからねえ。ネットストーカーということでしょうか』

『SNSとの距離感、付き合い方について、考えなければいけませんね』


 アナウンサーとコメンテーターたちがもっともらしく語ることも、隆弘にはどこか遠い世界のようでピンとこない。やっぱりネットは怖いんだな、と。年寄りのようなことを思ってしまうだけで。


 今時珍しい、と言われることも多いが、隆弘はSNSというかネットに関わるものが苦手だ。もちろん仕事の上ではメールは使うし、検索エンジンの世話になることも多い。携帯電話――スマートフォンと呼ぶのは、彼にはどうも気恥ずかしい――だって持っている。別に現代文明を否定する訳でもなし、友人や同僚がSNSで盛り上がっているのを見れば楽しそうだな、と思うことだってある。


 それでも自分自身でネット上での交流やSNSの世界に踏み出そうとは思わないのは、多分のせいだろう。幼馴染で、高校までの同級生でもあった。大学に進学してからも度々会って遊ぶ機会はあったのに段々間遠になって、もう何年も会っていない。

 彼女のことを、隆弘は別の世界に行ってしまったように感じている。現実ここではない、ネットの世界。フォロワーや「いいね」の数、顔も知らない、性別や年齢も分からない人間からの反応の数で優劣を競い、自尊心を高める世界。彼女は側に行ってしまって帰って来なくなってしまったのだ、と彼は認識している。最後の方は、何事もSNS映えするかで出かける先を選んでいたようだったし、そうして遊びに出た先でもほとんど常にスマートフォンの画面に食いついていた。


(あ、もうこんな時間じゃないか……)


 画面の右上に表示されているのが、もう身支度を始めるべき時刻であることに気付いて、隆弘は慌てて残っていた朝食を平らげた。テレビのニュースコーナーも終わっていて、芸人が最近――これまたSNS上で――話題のカフェをレポートしているところだった。コーナーの移り変わりも、彼にとっては時間を測る尺度になっている。

 テレビはBGM代わりにつけっぱなしにして、空いた食器を重ねて台所へ向かう。


法子のりこ、今は何やってるのかなあ」


 電話番号もアドレスも、彼が知っている彼女のものはもう何年も前のものだ。多分変えてしまっているだろう。家族ぐるみの付き合いというほどでもなかったから、実家を当たるのも不審がられるだろうし。地元の同窓生を辿れば分かるかもしれないが、そこまでして会っても、今更話が合うはずもない。多分彼女は、相変わらずの調子でやっているのだろう。


 だから、隆弘の呟きはあくまでも意味のない独り言に過ぎない。食器を洗う水音に紛れて、誰にも聞かれることなく消えていった。

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