辻隆弘

第1話 消えた彼女

 つじ隆弘たかひろは、あまり携帯電話を使わない。もちろん実家や友人、職場との連絡手段として、必要不可欠なものとは認識しているけど。それでも、職場の同僚などのように、毎日のように友人知人と――中には、顔も見たことのない、SNS上で知り合っただけの相手と――やり取りをするということはないし、メールも滅多に送らない。だからスマートフォンという呼び方もどうも気恥ずかしいし、たまに機種を尋ねられたりすると我がことながら把握していなくてあたふたしてしまう。そういう訳で、たとえ折り畳み式でなくても、タッチパネルを備えていても、彼にとってはその機器はいつまでたっても「携帯電話」という認識でしかなかった。


 そんな彼だから、携帯電話の充電も数日に一度だし、基本的には鞄に突っ込んだままだ。就職祝いにもらった腕時計を愛用しているから、時計代わりに頻繁に覗き込むということもなく、着信履歴も発信履歴も数か月前のものがいつまでも残っている。実家へ帰省の日程の連絡をした時のものや、二度と行く予定もない飲食店の予約のためのものとか。それから、どこから番号を入手したのか知らないが、営業や勧誘の類の架電もある。大方は知らない番号からかけられてきて、留守番メッセージが残されている訳でもないから、多分その手のものだろう、と判じて放置しているけれど。


 つまるところ、隆弘にとって周囲との繋がりは現実リアルの、地続きのものだった。その上で、携帯電話は便宜上やむなく使用するもの、ネットに至っては何となく敬遠するもの、という――時代に取り残された感のある人間が、彼だった。




 隆弘がその着信に気付いたのは、ある朝のことだった。時刻を見れば前日の夜、深夜とままではいかないが、通常の企業の営業時間はとうに終わった時間だった。そこでまず、営業にしては随分遅いな、と思った。登録していない番号だったから、親戚などの急な不幸ではないだろう、とは思うことができたけど、何かの勧誘だとしたら随分なブラック企業なんじゃないか、とか。そんなことを頭の片隅で考えた。

 出勤前の多忙な時間帯のことだったから、ご苦労なことだな、と思って携帯電話を鞄の定位置に戻そうとした――ところで、見慣れないアイコンに目を留めた。何だろう、と思いながらもその時は時間に追われて深く考えることもせず。カセットテープのようなデザインのそのアイコンが、留守番メッセージの存在を知らせるものだと思い出したのは、通勤電車に揺られる最中のことだった。だからといって不要不急の架電だろう、という認識は変わらなかったけれど。多分、勧誘にしてもかなりしつこいところなんだろうな、と思ったけれど――彼は古いタイプの人間だった。わざわざ電話をして、さらにメッセージを残すからには用事があるんだろう、と。律儀にそう考えたのだ。


 そして、昼休みになって留守番電話を確認して、彼は困惑することになった。


『……辻隆弘さんのお電話ですね? 武井たけい法子のりこさんからのご伝言を預かっています。人違いでなかったら、折り返しをお願いします』


 若い女性の、少し緊張しているのが分かる声だった。でも、聞き覚えはない。そんな相手が彼の番号を知っているだけでも不思議で不気味だったし、の名前をこんな形で聞くことになるのも、あまりにも予想外だった。


(最近、あいつのことを思い出すな……)


 奇しくも、のことを思い出したばかりだったから、隆弘の胸は不安に沈んだ。SNSで炎上した末に不審死したモデルのニュースを観た記憶が呼び起こされて、不安は嫌な予感に変わる。彼がよく知る――知っていた武井法子も、SNSへの耽溺の果てに連絡が途絶えてしまった。亡くなったモデルに、発信者不明の電話。もしや彼女に何か、と思うには十分だった。




 不安は大きくても、知らない番号にかけ直すハードルは高い。だから隆弘はまず、との共通の知人、主に高校時代の同級生を当たることにした。


『お前が連絡先知らないって、意外だわ。タカ、のりこと仲良くなかったっけ?』

「ほら、俺ってネットとか疎いから……SNSの……何だっけ、繋がるやつとか。だから、皆の方がまだ連絡取ってたりしないかと思って」


 幾つかあるらしいSNSの名前もろくに思い出すことができないことに情けなさを噛み締めながら、隆弘は久しぶりに話す友人に弁解した。そもそも、とはそういう関係じゃなかった、というところも主張したかったが、言う隙はなかった。結局、彼は武井法子にとってSNSのフォロワー以下の存在にしかなれなかったというのに。


『さあ、昔は繋がってたはずなんだけど。大分アイコン見てない気がするなあ。お前が話したがってるからって、メッセージ送ってみるか?』

「うん。そうしてもらえると助かる」


 なんだ、これで話が済むじゃないか、と安堵しながら隆弘は大きく頷いた。電話越しでは見えないことに気付いて、すぐに言葉でも頼みながら。何も怪しい電話にかけ直す必要なんてなかった。そもそも現実リアルでの知人だったんだから、現実の伝手を辿れば彼女の伝言とやらを聞くのも簡単なはずだった。

 メッセージが来たら教えるから、と言われて電話を切った翌日。でも、隆弘はより一層の不安の底に落とされることになった。


『ごめん、俺、のりこと繋がってなかったわ』

「え、どういうこと?」

『いや、前は確かに相互だったんだけど。間違って消しちゃったか、あっちから外さリムられちゃったのかなあ』

「そんなこと、あるの?」

『さあ、大学とか仕事の人とメインで話すようになったから、とか? 単純に退会しちゃったのかもしれないしなあ』


 武井法子が、自らSNSを離れるとは信じがたかった。現実での人間関係をかなぐり捨てても、に引き込まれていたようだったのに。いや、もしも目を覚ましてくれたならそれはそれで良いことなのだろうけど。でも、それなら連絡を取れないなんてことになるだろうか。

 心の中で膨らむ疑問と違和感は、電話の相手に言う気にはなれなかった。彼女のことをよく知らない、あるいは覚えていない相手に言っても仕方のないことだから。彼の不安を共有してくれるとは思えなかったから。

 当たり障りのない近況報告の後で電話を切った隆弘は、さほど充実していないアドレス帳から、高校時代の友人知人に片っ端から連絡を取った。電話で、あるいはメールで。尋ねるのはただひとつ、武井法子の今の状況を知らないか、ということ。そして帰ってくる答えも、表現は様々だったが内容は概ねひとつに集約された。――誰も、彼女の現在の状況も連絡先も知らないのだ。


『私、なんかあの子にブロックされてた! 辻君に言われるまで気付かなかったよお』

「え、何かあったの?」


 とある女子――もちろん今は歴とした社会人だけど――は、そう嘆いて彼を慌てさせた。


『さあ。こっちには心当たりないけど。何か気に障ることは言っちゃってたのかもね』

「ブロックって、もう関わり合いになりたくないってことでしょ? 滅多にやらないんじゃ――」


 の所業にも、電話の相手の彼女のさらりとした言い方にもぎょっとして隆弘がおどおどとした声を出すと、電話の向こうで肩を竦めるような気配がした。


『別に、普通だよ。お互いストレス溜めるくらいならばっさり切ってもらった方が良いくらい。……だから、それは良いんだけど。役に立てなくて、ごめんね』

「いや……こっちこそ、なんかごめん」


 あらゆる伝手を辿っても求めた情報が得られないと分かった隆弘は、何度となく例の謎の番号をなぞり、迷い――その末に、意を決して電話をかけた。武井法子にブロックされていた、とはっきり言っていたのは一人だけだったけど、彼女の連絡先が分からないと言っていた者全員が、実はなのではないか、と思ったのだ。元同級生の全てをブロックして連絡を絶つ――まるで、現実の世界から遠ざかろうとしているかのような。だから、彼が知る人間にどれだけあたっても、武井法子の行き先は知れない、この電話番号の相手に頼るしかないのではないか、と。根拠がある訳ではないが考えたのだ。


 そして電話に出た矢野やのと名乗る女性は、彼が知りたいはずの情報を教えてくれた。……同時に、知りたくなかったことでもあり、なのに予感していたことでもあったような気もするけれど。


『武井さんは、多分もう亡くなっています』


 それを聞いた後、何を話したかは実はすごく曖昧な記憶でしかなかった。会いたいと言われたこと、住所もまた把握されていたこと。いずれも、怪しくて詐欺の手口だと疑っても用心深すぎるということはなかったはずだ。でも、隆弘の心はどこか麻痺してしまっていた。一旦は答えを保留して電話を切ったのも、ちょっとしたもったい付けに過ぎなかった。実のところ、彼は武井法子がもうこの世にはいないという事実と向き合うので精一杯だっただけなのだけど。


 直近の土日の予定を確認すると、隆弘はすぐに矢野という女性にかけ直した。この日で良ければ、と提示した日付に彼女はすぐに頷いて、待ち合わせ場所もすぐに取り決めた。彼の住まいの方に近いとあるターミナル駅の、構内のカフェ。ほどよく混雑し、ほどよくうるさすぎない場所なのを知っていたからそこを指定した。お互いに、個室でふたりきりになるよりは公共の場所の方が良いのだろう。




 待ち合わせの当日、指定した駅、指定した改札の指定した時間。辺りをきょろきょろと見渡していた隆弘は、同じく人探し顔の若い女性と目が合った。


「あの、もしかして――」

「辻さん、でしょうか?」

「あ、はい。どうも初めまして」


 ぎこちなく挨拶を交わしながら、隆弘は素早く相手の年恰好を値踏みした。彼よりは年下かもしれないが、概ね同年代と言って良いだろう。電話の印象通りの若い女性で、そして、思いのほかに「ちゃんとした」人だった。セットした髪、派手すぎないメイク、アイロンのきいたシャツに、折り目のついたスーツ。丁寧な口調や、しきりに頭を下げる仕草からして、ごく常識的な社会人に見える。もちろん、騙すつもりなら見た目は取り繕うものなのかもしれないけれど。とにかくも、話しやすいことに間違いはなかった。


 目星をつけていたカフェでも、タイミングよく奥まった場所に席を取ることができた。コーヒーをふたつ、レジではどちらが払うかで少しごたついたけど、矢野氏が呼び出してしまったので、ということで押し切った。年下の――と思われる――女性に奢られるのは、隆弘にとっては初めての経験だった。


(まあ、この状況自体、もうないようなことだろうけど……)


 お互いに、コーヒーに手をつけることはしないまま、隆弘は矢野氏の顔を改めてしげしげと見た。緊張しているのが明らかに分かる。


「急にお呼び出ししてすみませんでした。怪しいでしょうに来ていただいて、本当にありがとうございます」

「いえ。こちらこそ、武井がお世話になったようで……」

「お世話、というか。……とても、信じていただけるようなことじゃないんですが……」


 隆弘は、慎重にの名前を紡ぎ、矢野氏の頬がより一層強張るのを観察した。何を言われても、動揺しないようにしなければ、と。自分に言い聞かせていたのだけど――次に矢野氏が口にしたのは、彼が予想だにしていないことだった。


「ネット上の怪談というか都市伝説というか、なんですが――のりこさん、というのをご存知でしょうか」

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