第2話 のりこさんの噂

 矢野やの朱莉あかりが口にした単語が咄嗟に理解できなくて、というか理解したくもなくて、隆弘たかひろはわざとらしく冗談めかした笑みを浮かべた。


「のりこさん……いえ、知らないですが。トイレの花子さん、みたいなことですか」

「少し似ているのかもしれません。現象は、違うんですけど……噂のされ方、というか。皆が知っていて、怖がってるけど面白がってもいる、みたいな、そんなところは似ているのかも」


 あえて安っぽく陳腐な喩えを出したつもりだったのに、矢野氏には真面目な顔で頷かれてしまった。それに虚を突かれた隆弘が返事に窮するうちに、矢野氏は妙にすらすらと続けた。のりこさんとかいう都市伝説の、その詳細を。




 のりこさんは寂しがり屋の幽霊です。生きていた頃から、SNSで可愛いものや楽しいものを集めたり、友達とおしゃべりするのが好きだったそうです。だから、幽霊になった今でも同じことをしているそうです。

 のりこさんにフォローされてしまったら、すぐにブロックやリムーブしてはいけません。友達に絶交されたら悲しいし、怒ってしまいますよね。のりこさんは怒らせると怖い幽霊になってしまうんです。




(この人は、何を言ってるんだ……?)


 矢野氏が語ることを聞きながら、隆弘はひどく不思議な居心地の悪さのようなものを感じずにはいられなかった。

 休日の駅構内のカフェだ。平日なら商談や待ち合わせに使うサラリーマンも多いのかもしれないが、今は親子連れや学生と思しき年頃の若者が多い。自然、周囲から聞こえる声は高く明るい笑い声ばかり。そんな中で、スーツ姿で真面目な顔で向かい合う彼らふたりは場違いに思えてしかたなかったのだ。他人の会話に聞き耳を立てる者は滅多にいないだろうけど、話題も穏やかなものじゃない。あるいは、まともじゃない、とでも言った方が良いだろうか。昼日中の公共の場で、怪談話に興じているなんて。


「……そういう、チェーンメールみたいな、不幸の手紙みたいな噂だけじゃなくて。別の形の『のりこさん』もいるようです。を写真に収めることができると良いことがあるとか、のアカウントにメッセージを送ると質問に答えてくれるとか。そういうところは、こっくりさんみたい、とも言えるかもしれません」

「はあ……」


 ほとんど呆然としながら矢野氏の話を聞くうち、隆弘の胸には不穏なざわめきが広がり始めていた。わざわざ呼び出しておいて一体何の話だ、とも思うし――くだんの怪奇現象が、知人と同じ名前をしているのも不快だった。


「それで、それと武井たけいに何の関係が? 伝言があるということでお会いしたはずですが」


 初対面の印象で、意外と「普通」の人だ、と思った分、裏切られたような落胆もあるのかもしれない。それか、油断した自分への苛立ちだろうか。面識のない人間の連絡先を調べ上げるような奴が、まともな相手なはずはないと分かり切っていたのだろうに。


「まさか、自分の知ってる『武井法子のりこ』が、そののりこさんだ、なんていうんじゃないでしょうね?」


 矢野氏が彼を呼び出した理由はまさにそれなのだろうと、予想はしていた。でも、その上でも簡単に頷くことなどできないように、隆弘は声に露骨な険を滲ませた。知人を悪霊扱いされたら許さないぞ、と。言外の怒りがはっきりと伝わるように。


「それは――」


 矢野氏が言い淀んだのは、彼の感情を汲み取ってくれたからなのだろう。きっちりと、けれど控えめにメイクをほどこした顔が軽くひきつったのを見て、罪悪感が隆弘の胸を刺す。この女性ひともおかしなことを言ってるのは分かってるんだろうな、とか。誰か、会社だか上司だかにやらされているのかな、と。そんな、常識的な解釈をしようとしたのだ。

 でも、矢野氏はひきつった表情のまま、微かに震える声で、それでもはっきりと断言した。隆弘がほのかに期待した、謝罪や弁明の言葉ではなく。


「……はい。正直に……はっきりと、申し上げなければいけないと思います。私は、『のりこさん』のものとされるアカウントが、自分は『武井法子』だと名乗るのを見ました」


(これは、ダメかな……)


 矢野氏の頬を強張らせているのが、彼への後ろめたさなんかではなく、恐怖と緊張であることに気付いて、隆弘は内心で溜息を吐いた。どうやら、この女性はのりこさんとかいう怪奇現象を頭から信じ込んでいるらしい。ティーンの女の子くらいまでだったらそういうこともあるかもしれないけど、良い歳をしてそんな有様なのは、現実と妄想の区別がついていないとしか思えなかった。武井法子、という名前を偶然思いついたのか、あるいは本物のと何かしらの関係があるのかは分からないけど――その名前から彼に行き着いてしまう行動力には、悪い意味で驚くほかない。


「……落ち着かれた方が良いと思います。電話で言った通り、武井の今の居場所が分からないのは事実ですが――そんな、幽霊とか。そういう悪戯をする奴じゃないと思います。同じ名前の別人だと思います」


 冗談も大概にしろ、だとか。病院に行ってみたらどうか、とか。言ってやろうかと思わなかった訳ではないが、口にすることはできなかった。妄想に取り憑かれているのかもしれない相手を刺激する気にはなれなかったし、何より、初対面の女性にそんなことを言い放てるほど、彼の神経は太くない。


「のりこさん、のアカウントと会話したのは――というか、SNS上でのことなんですが――、とにかく接触したのは、私がお付き合いしていた男性でした」

「矢野さん、あのですね――」


 けれど、常識的なことを言って宥めようとしたのに、矢野氏は隆弘の言葉に取り合ってくれたようには見えなかった。おかしい、常軌を逸している。そんな相手にかける言葉が見つからなくて、隆弘は所在なく辺りを見渡した。歓談するカフェの客たちの多くは、携帯電話を手にしている。同席者と話をしながらも、画面に見入って、指を画面に走らせて。彼ら彼女らは、目の前の相手と意思疎通ができているのだろうか。隆弘と矢野氏は、両手を膝の上に置いて真正面から向き合っているけど、話が噛み合っている気がしない。回線の向こうの誰か何かに気を取られている人たちは、なおのこと現実リアルの相手を見ていないのではないか、と思うのだけど。


「その男性は、のりこさんという現象について個人的に調べていました。……私は、正直眉唾ものだと思っていたんですけど。でも、彼はのりこさんのアカウントと接触した直後に亡くなりました。……健康だったのに。死んでしまうような外傷も、発作の形跡も全くなかったのに……!」

「それはお気の毒なことでした」


(どこまで本当なんだろうな……?)


 当たり障りのないお悔やみを、相手を刺激しないためだけに言いながら、隆弘は頭の片隅で考えた。矢野氏は、恋人の死によって尋常な精神状態ではなくなってしまっている、ということなのだろうか。のりこさんとやらの噂に飛びついたのは、その恋人が本当に関わっていたからなのか、それともたまたま目についたからなのか。……そもそも恋人なんかいなかった、なんて話になると、怖さの程度も増していくけれど。


「でも、それは偶然かもしれないですよね? 残された人がそんなことを考えてる方が、亡くなった方は――」

「これが、彼が遺した記録の一部です」


 武井法子の行方は、確かに気になる。矢野氏からの連絡で、気にせざるを得なくさせられてしまった。でも、この人の話はあまりに胡散臭すぎる。だから、隆弘は腰が引けた状態で、立ち上がる機会と相手の顔色を窺いながらどうにか話を打ち切ろうとした。でも、それにも気づかない――多分――振りで、矢野氏はバッグの中に手を伸ばし、クリアファイルを取り出した。


「武井法子さんで、間違いありませんね?」

「え……」


 クリアファイルに入っていたのは、何かしらのホームページをプリントアウトしたもののようだった。ヘッダーやフッターにURLが記載されているということはなかったから、スクリーンショットなのだろうか。とにかく、上質紙に印刷された画面は、体裁からして個人のブログのように見えた。


 だが、それが誰のどんなホームページなのかはどうでも良い。ブログのタイトルも、記事に散った絵文字や顔文字も。隆弘の目は、ただ、紙面の中央の写真にくぎ付けになっていていた。

 どこかのカフェだ。彼が今いるところのような、駅中のチェーン店ではない。白い大きな皿をキャンバスに描かれた、パンケーキとフルーツとクリーム、色鮮やかなソースのアート。得意げにその皿を示して掌を広げている女の子。いや、それさえもどうでも良くて。


(心霊写真……!?)


 画面の端に、白い人影が写っている。それが本来そこにいるべき存在でないのが、直感で分かってしまう。白すぎる肌に、透けたような質感。身に着けた服も、どこかくすんだ色合いで――まるで、違う次元のモノがたまたま入り込んでしまったかのようにも見える。

 それでも、心霊写真だけなら大したことではなかったかもしれない。書店やコンビニに並ぶ雑誌の表紙で、何気なくつけたテレビの特集で。特に興味がなくてもその手のものは目に入ってしまうものだ。


「……そう、なんですね……?」


 矢野氏の声は、なぜかひどく優しく、気遣うような響きがあった。彼女にも隆弘の衝撃は伝わってしまっているのだ。


「あの、えっと」


 違う、と断言できたらどんなにか良かっただろう。でも、に写ったこの世のものではない姿は、確かに彼が知っている武井法子の姿をしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る