第5話 彼女のために

『それは――』


 矢野やの氏の困惑の表情を見て、隆弘たかひろは彼女が彼の問いへの答えを持たないことを悟った。矢野氏が彼に何を頼むつもりだったにしろ、それは武井たけい法子のりこの――彼女の遺体の――在処を探し当てることではなかったらしい。


(じゃあ、俺はどうすれば良いんだ……?)


 のりこさんの噂に、その正体、その目的。武井法子の霊と、人を襲う白い手。矢野氏の述べたことは、まだどこまでが事実か分からない。全てが作り物で隆弘を騙そうとしているのだ、なんて思うことはもうないけど、信じ切ることもできない。見ず知らずの彼に辿り着いたこの女性の原動力は、亡くなった恋人への想いらしい。それは、裏を返せば、この人は武井法子に対して特別な感情は持っていないということだ。恋人の復讐のために、武井法子を利用する――とまでは行かなくても、故人の想いを、彼女を悼む彼の想いを、どこまで汲んでくれるだろう。

 矢野氏の呼び出しに応えたことは正解だったと、隆弘は強く思っていた。幼馴染の死を突きつけられたこと――それも、ネットで噂される怪談の形で! ――はショックだけど、それでも知らないままよりは良かった。彼女の親も、同級生の誰もまだ気づいていないことなら、彼女が安らかに眠ることができるかどうかは、もはや彼にかかっているのかもしれなかった。


『武井を救うって、さっき言ってましたよね。自分は、何をすれば良いんですか?』

『は、はい。それを、お伝えしようと思って来たんです……!』


 矢野氏が表情を緩めたのは、多分、話が規定の路線に戻ったからだったんだろう。隆弘が、彼女の望みを叶えてくれると、期待したのだ。ただ、彼としてはこの女性を単純に喜ばせる訳にはいかない、と考えていた。もちろん、話を聞かなければ判断ができないのだけど。彼女の言葉の裏に潜むこと、彼女さえまだ気づいていないかもしれないこと。注意深く聞き取って考えて、武井法子のためになるように行動しなければならないだろう。……のため、なんて言っても、既にこの世にいない人に対しては、生者の自己満足に死でしかないのかもしれないけれど。


 隆弘が注意深く見つめる中で、矢野氏は再びバッグを漁り、一台のスマートフォンを取り出した。先ほど動画を見せられたものと違って、画面が無惨にひび割れ、本体部分にも傷がついているようだった。


『これは、私の恋人のものです。もう解約してるので、履歴を見ることしかできませんけど。……でも、だから安全だと思うんですけど』

『彼氏さんの、ですか……』


 亡くなった人のスマートフォン、と聞くと、隆弘の胸には複雑な痛みと苦みが走った。他人のものを覗き込む後ろめたさと、そんなにボロボロになるような、一体何が起きたのか、という恐怖。彼と同じく親しい人を理不尽で不可解な形で喪った矢野氏の心中を慮る気持ち。そんな思いがごちゃ混ぜになって。


 そんな感傷も、示された画面に文字を見た途端、吹き飛んだ


 ――私を消して。

 ――アカウント

 ――辻隆弘


 他人のスマートフォンの画面に、自分の名前が表示されている。そのことだけでも衝撃だったけれど、矢野氏の恋人に一連のメールを送ったのは、確かに隆弘にも見覚えがある武井法子のアドレスだった。


(法子……本当に、なのか……?)


 彼女の名前と誕生日を組み合わたアドレスに、改めて悲しみがこみ上げるのが分かった。画像と動画に加えて、これだ。武井法子の死は、いよいよ否定できない現実として突きつけられてしまったのだ。


『……これを見て、俺を探したってことですね』

『はい。勝手なことをして申し訳ありませんでした。でも――これが、武井法子さんの望みでもあると思います』


 矢野氏の縋るような目に絡め取られないよう、吸い込まれないよう。心の中で足を踏ん張りながら、隆弘は懸命に状況を把握しようと努めた。休日のカフェの喧騒は、もう遠い世界のことのようだった。平和な日常は、どこか透明な壁の向こう側にあるかのようで。矢野氏と隆弘は、ふたりきりで異様な世界に閉じこもっているようにも感じられた。


『私を消して、っていうのは……?』

『SNSのアカウントのことだと思います。メールアドレスとパスワードがあれば、アカウントを削除できるので……』


 矢野氏は、また目を潤ませながらのことをたどたどしく語ってくれた。

 亡くなった恋人のSNSを覗いてみたら、まるで「のりこさん」に乗っ取られたようになっていたこと。男性的なアイコンが、若い女性のような発言を繰り返し投稿していた不気味さ。norikoというアカウントを、ウィルスにでも感染したかのように執拗に拡散して共有して。――そして、覗き見る矢野氏の存在に気付いたかのように、動画にも映っていた白い手に襲われたこと。


『このままじゃやられる、と思って――咄嗟に、彼のアカウントを消去しなきゃ、って思ったんです。私、彼のパスワードは知ってたし……他に亡くなったモデルの人も、アカウントが消されてたって聞いたので……』

『そうだったんですか』


 パスワードを知っているほどの間柄、ということで、隆弘の胸はまたちくりと痛んだ。恋人だったという男性の人となりは分からないけれど、矢野氏が受けたショックが大きかったであろうことは想像できた。それに、アカウントを消去しようとしたまさにその時、武井法子の霊――と思われる存在――が、矢野氏を助けてくれたようだった、という証言も彼の胸に刺さった。では、武井法子もまた被害者であって、人を呪い殺すような存在に堕ちた訳ではない、のかもしれないから。


『――では、俺にも同じことを……?』

『はい。武井法子さんのパスワードを知っているような方だと思って、ご連絡しました。あんな……人に乗っ取られたような様子を、ずっと残しておくのも痛ましいことでしょうし……きっと、その方がご本人も救われるのだろう、と』


 矢野氏の必死の眼差しを受けてどう答えるべきか、隆弘は悩んだ。武井法子のパスワードの心当たりは――実のところ、幾つか、ある。誕生日は、メールアドレスにも使っていたから違うとしても、その他彼女が好んだ数字や単語の組み合わせは、既に脳裏に浮かんでいた。

 でも、それをして良いのかどうかというと、話はまた別だった。矢野氏も、語りながら他人のアカウントを消去することへの後ろめたさを滲ませていたのだ。夫婦ではなく恋人程度の関係だから、ということなのだろうけど、それなら隆弘と武井法子の関係は一層遠い。のアドレスからの依頼だからと、簡単に呑み込めるものではなかった。


 何より――


『その、のりこさん、のアカウントを見せてもらっても良いですか? どんななのか……見てみないことには』


 矢野氏が語った、いかにも女の子らしく、共感や拡散されることを狙ったようなSNSでの振る舞いというのは、まさに隆弘が知る武井法子そのもののようにも思えた。だから、彼にしてみればまだ矢野氏の筋書きに完全に同意することはできなかった。武井法子が悪霊になったのでないのなら良いけれど、彼女の意思はどこまで残っているのか、彼女に何が起きてことになったのか、できれば自分の目で確かめたかったのだ。


『そんな……』


 でも、隆弘の申し出に、矢野氏はどういう訳か頬を引き攣らせた。話が思い通りに運ばなかったことへの苛立ちか、驚きか――否、それだけでなく、恐らくは恐怖によって、彼女は一瞬絶句した。


『そんな、危険です……! 私、洋平ようへいのスマホを持ってただけで居場所がバレちゃったのに……! 辻さん、貴方しか手掛かりはないんです。のりこさんと、ネットで繋がっちゃいけない――危険なんです。だから――』


 急に取り乱したように声を上げる矢野氏を、周囲の客の何人かがちらりと見た。傍からは別れ話にでも見えただろうか。この女性に対しては、多分とても失礼なことだろうが。


『分かりました。落ち着いてください』


(そうか、ダメか……)


 矢野氏を宥めようと手を上下させながら、隆弘はすっと納得していた。この人から聞けるのはここまでなのだ、と。それほどの恐怖に囚われているのか。詐欺の手口が割れてしまうからか、なんていう邪推は、ほんのわずかな可能性としてちらりと頭を過ぎっただけだけど。武井法子とのりこさんの関係について、どの道この人ははっきりとしたことは知らないのだ。彼女の目的は、のりこさんへの復讐――その存在を消し去ることなのだから。


『……パスワード、すぐには思いつかないんですが。ちょっと考えてみても良いですか? また、ご連絡するということでは……?』

『はい、もちろん……。その、私なんかとまた会う必要はないかもしれないんですけど、どうなるか、気になるので……』

『ええ、彼氏さんのこともあるでしょうから……だから、色々思い出してみますんで』


 矢野氏と、名刺と連絡先、ついでに大体の「次回」の約束を交わして隆弘は一旦は別れることにした。矢野氏の表情は、期待と不安が同居する曖昧で落ち着かないもので、そんな顔をさせてしまうこと、大丈夫だと請け負うことができないことは、申し訳なくはあった。

 でも、隆弘にとっては矢野氏よりも武井法子の方が重要なのだ。




 そんなやり取りがあったのが、つい数十分前のこと。今の隆弘は、電車に揺られながら、久しぶりにパソコンを立ち上げないとな、と考えている。自宅でネットサーフィンなんて、そう滅多にやることじゃないんだけど。まずは、SNSの見方から調べてみないと。のりこさん、とやらは一体どれほどの規模で話題になっているのか。ネットに疎い彼でも、すぐに探し当てることができれば良い。


法子あいつと、話ができるなら……!)


 ネット上の怪談が現実に現れるという恐怖は、分かる。死者が出ているというのも、矢野氏と会った以上は面白おかしい噂じゃなくて、実際に起きた悲劇だと分かる。でも、彼にとっては幼馴染の行方に関わる話、最初から身近な現実の話だった。幽霊よりも白い手よりも、死んでしまった知人と意思疎通ができる可能性があるなら縋りたい。彼女の居場所、彼女の死の真実を知ってあげたい。


 矢野氏とのやり取りで彼が最も強く思ったのは、武井法子の行方を突き止めたいということだったのだ。

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