第4話 彼女はどこに?

 電車の規則正しい振動が、隆弘たかひろの脳を揺さぶり、思考を麻痺させる。休日の午後とあって混雑具合は立っている人もちらほらいる、という程度。座ろうと思えば空席もあるけど、腰を下ろす動作すら億劫で、彼は体重を扉横の壁に預けている。時おり電車が跳ねて頭を壁にぶつけても、髪を整える気にすらならず、窓の外を街並みが流れていくのをただ眺めるだけ。駅名のアナウンスにもほとんど注意を払わず、だから今どの辺りにいるのかも曖昧だ。


 隆弘の頭を占めているのは、矢野やの朱莉あかりという女性――名刺をもらったのでフルネームと読み方を知ることができた――から聞いたことだった。SNS上で噂の、のりこさんという怪談、あるいは都市伝説。その正体が、彼の知人の武井たけい法子のりこではないか、ということ。矢野氏の恋人を取り殺したというのりこさんが、隆弘に助けを求めているのかもしれない、ということ。……そもそもの前提として、武井法子は既にこの世の存在ではないと思われる、ということ。

 いずれも現実の話とは思えなくて、でも、証拠となる画像や動画を見せつけられては受け入れざるを得なくて。隆弘の脳内では混乱の嵐が吹き荒れていた。


 荒唐無稽な話を呑み込んで、何かをしなければならない、と認識してなお、隆弘と矢野氏の間には深い溝があるようだった。同じ話をしているのに、それぞれ関心を向けるポイントが違っていて。その齟齬もまた、隆弘の混乱を深めたのだろうと思う。そして何よりも心に懸かることが、隆弘の混乱の中心に居座っていた。それは――




『武井が、もう、死んでる……』


 さっきまでいたカフェで、矢野氏から武井法子の、明らかに生きてはいない画像や動画を見せられて、隆弘は呆然と呟いた。もはや問いかけではなく、事実を受け入れるため、自分に言い聞かせるための言葉だった。多分彼の心中を慮ってだろう、プリントアウトした紙やスマートフォンをしまいながら、矢野氏は痛ましそうな目を彼に向けていた。


『私みたいな部外者からお伝えすることになって、本当にすみません。こんな言葉では足りないでしょうが――ご心中、お察しします』


 矢野氏の言葉は心が籠った真摯なものではあったけれど、彼女は武井法子のことを知らない。彼にとって、どんな存在であるかも。だから、彼の心が彼女の言葉に慰められることはなく、ただ、なぜ、どうしてという疑問だけが渦巻いていた。それと――一体いつ、というクエスチョンだ。


(最後に会ったの、いつだっけ……)


 武井法子の、SNSというかスマートフォンというかの耽溺にうんざりして距離を置く前のことだ。就職はしていなかったはずだけど、じゃあ大学何年生の何月ごろのことかというと全く思い出せなかった。友人知人と別れる時に、これが最後かも、なんて思いながら手を振るはずがない。そのうち何かの集まりで顔を見ることもあるだろう、と考えて――あるいは、そんなことさえ考えずに――お互いに背を向けたはずだ。

 あの日から今日までの一体いつの段階で、はこの世を去ったのだろう。矢野氏に見せられた白いに首を絞められる姿を想像すると、彼自身の息も苦しくなった。スマートフォンを持ったままの手が、床に落ちるところまで脳裏に浮かんでしまって、想像の中のを助け起こしたいと思ってしまう。二十歳かそこらで、たったひとりでそんな最期を迎えたのなら、あまりに気の毒だ。――と、そこまで考えたところで隆弘はふと気づいた。


(いや……学生時代なら、連絡がなければ親御さんが見つけてる、か?)


 武井法子は、確か学生時代は一人暮らしで遠方の大学に通っていたはずだ。だからこそ、物理的な意味でも距離が空いてしまったし、親の目を離れたことでネットに熱中した、ということもあるはずだ。ただ、学生の欠席が続けば保護者に連絡が行くものだろうし、それなら誰にも発見されないまま、ということにはならなかっただろう。


『いえ、おかしいですよ……』


 発見、という単語を思い浮かべた時、隆弘は思わず呟いていた。もう、武井法子の死を疑う訳ではないけれど。あの、明らかに血の気の温もりを感じさせない白さを見れば、受け入れざるを得ないけれど。矢野氏が嘘を吐いているとは言わなくても、やはり教えられた状況にはまだ不可解な点があるように思えた。


『はい。若い方ですし、きっと大事な方だと――』

『幼馴染というか、同級生でした。高校まで一緒で』

『それは――』


 宥める口調の矢野氏を遮って、隆弘は早口に告げた。彼が知人の死を知らされて動揺しているのは事実だけど、でも、悲嘆に暮れているだけではなかった。矢野氏の話もまだ途中だし、彼に何が望まれているのかも分からないのだけど――話の続きを聞く前に、どうしても心に浮かんだ疑問を口に出さずにはいられなかった。


『だから、死んだら流石に連絡があるはずですよね? 自分たちにじゃなくても、親とか。名簿も、アルバムもあるんでしょうし……』


 武井法子の卒業後の足取りも彼は知らないが、親元には帰らず一人暮らしを続けたのだろうか。地元に戻ったなら、誰かがちらりとでも見かけていてもおかしくないし。でも、学生時代ほどでなくても、娘からの連絡が途絶えれば親は心配するはずだ。メールの返信もないとなれば自宅を訪ねるだろうし、そうして遺体を発見したら、すぐにしかるべき対応をするだろう。……その中には、葬儀の手配も当然含まれる。元同級生は、連絡を取るべき相手に含まれていそうなものなのだけど。


『でも、武井法子、さんは……』

『それを見て生きているとは思わない――思えないです。そこは、分かっているんですが』


 矢野氏は言いづらそうに武井法子という名を口にし、隆弘は彼女が抱えたファイルを示す時に少し躊躇った。矢野氏の方では会ったこともない人間の名前を呼んでも良いのかという迷いがあったのだろうし、隆弘の方では初対面の女性に指さすことなんて失礼だ、と思ってしまったからだろう。彼らは会って何時間も経っていないしお互いのことは何も知らない。だから、お互いに無駄に気を遣って言葉を選んでしまう。そんなまだるっこさが焦れったかった。


 言葉が途切れた隙に聞こえる、カフェの客の笑い語らう声が妙に遠かった。友人同士で和やかに過ごす時間は、矢野氏にとっても隆弘にとってももう遠いのだ。それぞれ近しい人を奇妙な形で亡くして、立ち直る暇もない。だから、隆弘が言うことで矢野氏を傷つけるだろうと思うと、舌が凍る思いがしたのだけど。


(言わなきゃ、進まない……!)


『あの、貴女の、お付き合いしていた方は、どんな風に……?』

『あっ……っと、洋平ようへい、は……』


 覚悟したつもりで、思い切って尋ねたはずだったのに。痛々しく顔を歪めた矢野氏を見て、隆弘はすぐに後悔することになった。


『……すみません』

『いえ……彼は、さっきの動画が撮られた夜に……。自宅でした。私、メールの返信がないから、家に行って……そうしたら……』

『そうだったんですか……』


 死ぬ、とか遺体、という言葉を、彼女は決して使わなかった。でも、状況は十分伝わった。矢野氏の噛み締めた唇や、そこから絞り出される言葉の震え方から、彼女の苦痛と悲しみも。矢野氏は、恋人の死体の第一発見者となってしまったのだ。

 それから、もうひとつ大事なことも分かった。のりこさんという怪奇現象に見舞われた人は、見た目上は死ぬのだ。少なくとも死体が消えてしまうということはない。……でも、武井法子の場合はそうではなかったのではないだろうか。社会的に死んだと認められたなら、元同級生の誰ひとりとして知らないということは、おかしい。


『それを聞いて、思ったんですが』


 矢野氏が目元を拭うのを待ってから、隆弘は再び切り出した。


『多分、まだ誰も彼女のことを知らないんじゃないかと、そういう気がするんです。……誰も、あいつを見つけられていないんじゃないか、と』


 武井法子は、彼に助けを求めているかもしれない、と言われた。矢野氏は、恋人の仇を討ちたい、とも。それについて何をすれば良いかも、聞かなければならないだろう。でも、それよりもまず、彼には気になって仕方ないことがある。あるいは、何とかしてやりたいことが。


『もしもあいつがずっとひとりきりなら――どうにかしてやりたい。あいつの居場所を見つける方法は、ないんですか……!?』

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