断章2 たとえ遠い未来でも
初めて電車に乗ったのは何歳のことだったか忘れたが、姉と一緒だったのは覚えている。すれ違う人、狭い改札、長い階段。幼いあたしには全てが恐ろしく感じられて、ただそんなあたしの手を優しく握ってくれていた姉だけが安心させてくれる唯一の存在だった。
そんな過去を思い出しつつ、高校生となった今はその電車に一人で乗りかつて育った街にあたしは訪れていた。
「……あんまり、変わらないわね」
改札を抜けて見えた景色は小さい頃からよく見たもので、下り階段もバス停も、壁近くに並ぶ錆びた自動販売機も昔のままで、ありふれた休日の昼間の光景だ。
駅を出てすぐ、あたしはそのままバスに乗った。目的地は郊外のとある大学。今日会う予定の人は、そこに在籍する姉のかつての友人だった。
さして重大な理由がある訳ではない。姉を利用していた赤髪の女が言っていた「先生に裏切られた」という言葉の意味が気になっただけだ。
思い当たるのは、かつて姉が所属していた高校の陸上部。その部でいくつも新記録を打ち立てた姉は、ある大会で深刻な怪我をしたことを境に部を去り塞ぎ込むような日々が続いた。姉の変貌に理由があるのだとしたら、きっとそこで何かがあったのだ。
「…………」
大学まで向かうバスに揺られながら、あたしはここ数日の近況を思い返していた。
かの一件の後、姉はビショップの資格を失い本部から追放されたそうだ。その後の所在は不明だったが、あたしの教育係を務めていた本部の職員に問い合わせたところ、遠い県の精神医療センターなる施設に入院したと聞かされた。最後は自分が何者なのかも分からないほど心身に異常をきたしていたらしい。
本当ならすぐにでも面会しに行くべきのはずなのに、それが難しい環境にいることに少しほっとしてしまう自分が嫌になる。
「怜ちゃん……よね? 大きくなったわね。急に連絡が来てびっくりしちゃった」
大学前でバスを降りたあたしを迎えたのは、長い茶髪をサイドテールで巻いた背の高い女子大生だった。姉の古い友人で名前を
あたしも昔は何度か遊んでもらったこともあるほど見知った仲で、榊さんは姉と同じ高校に通い同じ陸上部に在籍していた。この人なら部内で姉に何が起こったのか知っている、そう思いあたしは高校に問い合わせたのだ。
「……お久しぶりです、榊さん」
「あら、そんなに畏まらないで。昔は『あきちゃん』って呼んでくれていたのに」
会釈するあたしを榊さんはまるで妹に接するように宥めた。最後に会ったのはあたしが小学生の時なのであの頃に比べたら確かに他人行儀に感じるかもしれない。姉と同じ5歳という年齢差もあって、当時はよく可愛がられた記憶がある。
「でもまさか怜ちゃんが私に会いたいだなんて、余程の用事なのね。わざわざ高校の先生に頼んで大学にまで連絡を入れるくらいなんだもの」
「すみません、それしか方法が思いつかなかったので……」
我ながら大した行動力だと思う。他校の生徒が卒業生の連絡先を聞くなんて状況、普通なら思いつかない。姉の名前を出したことでなんとか取り繋いでもらえたが、高校の先生たちにもこうして休日に会う予定を立ててくれた榊さんにも頭が下がる思いだ。
「とりあえず、立ち話もなんだしどこかゆっくりできる場所に行きましょ」
そう言うと、榊さんはあたしを大学近くのカフェに案内した。
連れられたカフェは個人経営の小さい店で、手作りの立て看板や窓際に置かれた動物の可愛らしいぬいぐるみ、店内に漂うコロンの甘い香りなど、そこかしこに洒落た雰囲気が立ち込めていた。これがいわゆる「映える」という概念なのかもしれないが、友達の少ないあたしには少々居心地が悪い。
「せっかく来てくれたんだし、ここは私が出すから好きなの頼んでいいよ。どれにする?」
恐らくここの常連なのだろう榊さんは慣れた手つきでメニューの冊子を開き、あたしが見やすいようにテーブルに置いた。
「あ、ありがとう……ございます。じゃあ……」
「ミルクティーね。ホット? アイス?」
「あ、アイス……で」
「うん、わかった。店員さーん」
ぎこちない挙動で頷きながらメニューを指差すあたしと対照的に、榊さんは落ち着いたペースを崩さないでいた。
聞かなければならないことがあるはずなのに、あたしの目線は下を向いたまま1分2分と時間だけが過ぎていく。注文したミルクティーが運ばれて来てもなお、話は始まらない。
「ふふ、なんか昔を思い出すわね」
「……え?」
しかし榊さんはどこか嬉しそうにあたしに笑いかけた。
「怜ちゃん、紗耶が席を外して私と二人きりになったらすぐ静かになっちゃって、私が話しかけてもうんともすんとも言わなかったでしょ? 会ったばかりの頃、なんか壁張られてるなぁって思ってたのよ」
「そ、その節はごめんなさい……」
あたしは深々と頭を下げた。あの頃はどこに行くにも何をするにも姉と一緒で、姉以外の誰にも心を開いていなかったのだ。昔すぎて記憶が曖昧な頃の話ではあるが、側から見て自分がどんな子供だったのかは容易に想像がつく。
「あ、そんな謝るほどのことじゃないわよ。今となっては良い思い出みたいなものじゃない」
思い出。時間が経てば良かったことも悪かったことも過去になり、思い出として記憶に残る。そう考えられる榊さんの前向きさは、純粋に羨ましいと感じた。
今まで生きて来て辿ってきた道のりも、全部思い出として捉えることができたら良いのに、と思ってしまうのは自己憐憫が過ぎるだろうか。
「あ、あの……今日聞きたかったのは、その姉のことで、なんですけど」
「紗耶の?」
「覚えていませんか? 姉が……以前部活で大怪我をして、走れなくなったこと」
「…………!」
そこまで聞いて、今まで穏やかな表情を崩さないでいた榊さんが初めて表情を強張らせた。きっと知らないはずはない。その怪我のせいで姉は部活に居られなくなったのだから。
姉の怪我はかなり重く、それまでのように走ることはおろか最初は歩くことも困難なレベルだった。懸命なリハビリの末になんとか歩行こそ出来るまで回復したものの、以前のように陸上競技に復帰することはついに叶わなかった。その足はきっと、この先も完全に治ることはない。
「その時部活で何があったのか、あたし……知りたいんです」
「紗耶は、教えてくれなかったの?」
「……はい」
榊さんの口ぶりから察するに、やはり何かがあったのは確からしい。だが、それ以降塞ぎ込んでいた姉自身からは聞くことはできなかった。
何か迷いがあるのか少しの間口をつぐんでいた榊さんは、決心したようにゆっくりと話し始めた。
「……私と紗耶がいた高校の陸上部の顧問の男の先生は教育熱心な人でね、昔オリンピックの選手候補に選ばれたこともあるぐらい凄い人だったのよ。紗耶はその先生に目をかけられていたの」
「先生……ですか」
驚きはなかった。赤髪の女が言っていた「先生」とは恐らくその人物のことなのだろう。
「うん。紗耶は1年の時から学校の新記録を次々と更新したりしてて、その先生に期待されていたの。二人きりで遅くまで練習することも多かったし、遠目から見ても仲が良さそうだった」
恐らくその先生は、姉にとって初めて信頼できる「大人」だったのだろう。両親が死んで愛情の希薄な親戚の家に引き取られてから、ずっと姉は不安を抱えて生きていたはずだ。今にして思えば、部活の練習に明け暮れていたあの頃の姉は一番生き生きとしていた。
「怜ちゃんも覚えてるでしょ? 紗耶が色んな大会に出て表彰されてたこと。本当なら先生の口利きで有名な国公立大学の推薦まで約束されていたレベルだったらしいわ」
「それは……知りませんでした。そこまでだったなんて」
元オリンピック選手の候補生だった人物の推薦ともなれば、きっとただの推薦とは訳が違うだろう。もしかしたら、そのまま大学でも陸上を続けてやがては日本を背負って飛び立つ……そんな未来もあったかもしれない。
「でも、そうはならなかった。ある日のハードル走での練習の時、紗耶は転倒して靭帯を傷付けてしまったの。救急車で運ばれて、走れなくなって……そこからは怜ちゃんの知っての通りよ」
「じゃあ、大学の推薦の話は……?」
「ええ、紗耶の怪我が重いものだと知った先生はすぐに推薦を取りやめになったそうよ。でもそれだけじゃない、せめて練習に顔を出そうとグラウンドに来た紗耶に先生はとっても冷たかった。今までの仲が良さそうだった先生が嘘みたいに……」
あの姉のことだ。大学の推薦が無くなるよりも、信頼していた人物に裏切られたことの方がよほど心の深い傷になっただろう。
「先生はきっと、紗耶の『記録』だけが大事だったのね。『走れもしないのに何しに来た』って突っぱねて……部活にはもう、紗耶の居場所は無くなっていたの。松葉杖をついて去っていく紗耶の後ろ姿、今でも覚えているわ」
だから姉は憎んだのだろうか。自分を裏切り、無情に切り捨てた「大人」を。だから「大人」を道具のように使役していた姉の顔は、あんなに楽しそうだったのか。
「私はあれから紗耶とはほとんど言葉を交わすことなく高校を卒業した。紗耶とは……それっきりよ。だからこの間、妹の怜ちゃんが私に会いたいって話が来たのには本当に驚いたわ」
榊さんの曇る表情からは、後悔の念も感じられた。もしかして心のどこかで姉に対して罪悪感を抱いていたから、今日あたしと会う約束をすんなり取り付けてくれたのか。
塞ぎ込んでいた時、姉から榊さんの名前が出ることはなかった。だから彼女が責任を感じる必要は無いと言うのは簡単だが、それで自分を許せるかどうかはまた別だ。
「ねぇ、紗耶は……今、元気にしてる?」
その言葉にあたしは心臓を掴まれたような感覚を覚えた。今まで過ごしてきた姉との日々の記憶が、頭の中でぐるぐると交錯する。
「…………はい」
「……そっか」
少し悲しげに尋ねる榊さんの顔を、まともに見ることができない。それでも、本当のことを言うなんて出来るはずもなかった。
あたしは元々、嘘をつくのは苦手な性分だ。だが榊さんは何かを察したように頷き、それ以上詮索はしなかった。
「じゃあ……一つだけお願い聞いてもらっても、いい?」
「なんですか?」
「紗耶に伝えて。『あの時、何も出来なくてごめんなさい』って。それと『いつか昔のようにまた話をしましょう』って……」
「……わかりました」
その願いを承諾すると、あたしと榊さんは少しばかり会話をした後、店を出て別れた。別れ際に見せた彼女の涙を堪えていそうな悲しげな顔は、しばらく忘れられないだろう。
帰りの電車の中で、あたしはビショップとなってからの姉のことを思い浮かべていた。
姉を利用していた赤髪の女は、姉を「誰かに依存しなければ生きていけない弱い人間」と言っていた。そこに関しては、あたしは少しも責める気は起きなかった。
あたしも幼い頃から、ずっと姉に「依存」して生きてきたのだから。
だからこそ、きっとあたしたちは自分の力で立ち上がらなければならないのだ。力に溺れて他人を平気で傷付けるようになった姉は、姉を裏切った先生と何も変わらない。誰かの言葉に踊らされるのではなく、自分の意思で、自分の信念を持つ。それが大人になることではないかと、あたしは思う。
寮の自室であたしは、そんな旨の手紙をしたため封をした。
この手紙が届いたら、姉はどんな顔をして読むのだろうか。それとも、中身を見ることなくそのまま破り捨てるのだろうか。どちらであったとしても、別に構わない。
ただいつか、お互い自分を立派な大人になったと認められる日が来たら、その時は自分から会いに行こう。それだけははっきりと、心に決めた。
今はまだ離れ離れでも。それがたとえ、ずっと遠い未来であったとしても。
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