第6話 ガラス・ハート(前編)
ランナーズハイという言葉がある、らしい。人間が長時間走り続けることで脳内物質が大量に生産されて何だか幸福感が溢れてくる現象、だそうだ。テレビで見る陸上選手たちがなぜ数十kmもの距離をペースを維持して走り続けられるんだろうと感じることが多々あるが、きっとその現象が働いているからなのだろう。走ることが好きというのは、とどのつまりその気持ちよさをもっともっと味わいたいとか、そういう理屈なのかもしれない。
「走って汗をかくのって、気持ちいいよね。いっちゃん」
僕の前を走る幼馴染、円もきっと頭の中でランナーズハイの現象を起こしているのだろう。放課後になってかれこれ一時間はランニングを続けているが、疲れたり辛そうな素振りはまったく見せないでいる。
「はぁ……っ……はぁ……う、ごほっ」
対し僕はヘロヘロのグロッキー状態。酸素を吸うたび血の味が喉いっぱいに広がり顔を上げれば視界がぐらぐら揺れている。額からだばだばと流れ出る汗で目が染みて、体操服の袖で拭うも服も汗でぐっしょり濡れており余計に全身がべとべとになってしまう。
「……ちょっと休憩しよっか」
僕の状態に気付いた円が近くの公園のベンチを指さす。彼女も汗はかいているものの穏やかな表情は少しも崩れていなかった。ランナーズハイの境地は僕にはまだまだ遠い。
「大丈夫?」
「う、う……ん……ひぃー……はぁ……はぁ…………」
倒れるようにベンチに座り込んだ僕に心配そうに声をかける円。ただ一言「うん」と頷くだけなのに呂律が回らず変な声も出てきた。たまらず手がポケットと中のペットボトルに伸びる。体内が砂漠のように干からびていた僕はそれをぐびぐびと飲み干し、500mlのスポーツドリンクは一瞬にして空になった。
好きな子の前でこんなみっともない姿を出来れば晒したくなかったが、生存本能には逆らえない。
「私もうちょっと走るけど、疲れてるならいっちゃん今日はこの辺にしておく?」
「い、いや……もうちょっと、頑張る……」
朝に2時間、夕方に2時間のランニング。それが彼女の日課であった。三日前から僕も同じメニューを課して彼女と一緒に走っている。理由はもちろん修行だ。ビショップとなってそろそろ一週間が経とうとしているが、僕の実力はまだまだ円や石上など他の人間に遠く及ばない。この間の魚人のイレイズとの戦いでそれがはっきり分かってしまった。
どうすれば彼女たちのような強さを得られるのか今の僕には見当もつかないが、とりあえず体力をつけて同じだけの修行をこなせるようにする。それが当面の目標となった。
しかしどう考えても一日4時間のランニングは元帰宅部の貧弱な肉体には応える。過去一年間だけサッカー部に所属していたが、あの頃よりも運動量は確実に上だ。
「じゃあ、あと10分間休んだらまた走ろっか」
円の提案に僕は弱々しく首肯した。しかし、わずか10分でこのぷるぷると痙攣している脚が持ち直せるかは定かでない。動けなくなっている僕をよそに円はベンチには座らずその辺をウォーキングしながらストレッチで身体をほぐしていた。
(やっぱり、かわいくて綺麗だなぁ)
彼女のすらりと伸びた健康的な手足に僕は思わず見惚れてしまう。ちゃんとしたデータを知っているわけではないが、彼女の身長は恐らく僕より高い。スタイルもいいのでファッション誌の読者モデルだってきっと出来るだろう。もしそんな雑誌があったら、僕なら全財産注ぎ込んで買い占めする。
「いっちゃん、どうかした?」
「えっ、あ……いや、こないだの円の怪我もう大丈夫かなって」
「うん、もう全然大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
円に視線に気付かれて思わず目を逸らした。戦っている時などは敵の気配に敏感に反応するのだが、普段の彼女は鋭いのだか鈍いのだかよく分からない。
次第に体力が戻った僕は「ふぅー」と一息ついて空を見上げた。夕暮れ時の涼しい風が汗ばんだ身体に心地いい。
それにしても平和だ。うちにプロメテが届けられて初めての戦いからイレイズの存在を知って、二度目の戦いに勝利したのがたった三日間の出来事である。そこからさらに三日が経過したが、あれ以降はイレイズ出現の報せはなく僕と円が陰陽部の部室に召集されることもなかった。そのためずっと修行として朝も夜も走っているのだ。
「ねぇ、円。こないだのイレイズと戦ってから先生や奥村先輩から何も連絡来てないけど、やっぱり円も気配は感じない?」
戦いが起こらないことに越したことはないが、とりあえず僕は彼女に訊いてみた。円は最新型のプロメテを持っていて敵の出現場所や距離を気配で察知できるからだ。
「そうだね……今のところは感じないかな。でも、イレイズって決まった曜日や時間帯に現れるわけじゃなくて、去年もずっと現れない期間はあったよ。逆に毎日立て続けに現れた週もあったし、特に平日の授業中に気配を感じた時は抜け出すの大変だったね」
「そういうもんなんだ……確かに授業中は僕も焦るかも」
言われてみればその通りで、イレイズのような怪物が人類の生活リズムに合わせて現れてくれるなんて、そんな都合の良い話があるわけない。授業中に出現してしまったらトイレに行くとか保健室で休むとか適当な理由つけて抜け出さなきゃいけないのだろうか。僕はただでさえ成績最低クラスで知られているので教師からの評価に影響しないか心配だ。
それだけじゃなく、もしかしたら休みの日や夜中に出現して戦わなければいけない時もありそうだ。街の平和を守るのも楽じゃない。
「うん。それと、同時に複数の場所にイレイズが出現することもまったく無いわけじゃないから、そうなったら私ひとりじゃ対応しきれなかったの。きっとそういう状況を打開するためにビショップが組織になったんだね」
円は自分が組織の一員として戦うことを不安と言ってはいたが、そのメリット自体は強く認識していたようだ。問題は、その戦う仲間と上手く連携が取れるかどうかにかかっている。僕はそもそも実戦の経験が浅いので連携のできるできない以前に一人前のビショップにならなくてはいけないので、レベルの高い話だ。
「でも、組織になったと言っても僕と円以外のビショップって、奥村先輩はほとんど情報係だし石上くらいじゃない? 円なら何とかやっていけそうなものだけど……」
石上は言動はきついが何だかんだピンチになった僕を助けてくれたし、本当は面倒見のいい性格なのかもしれない。昔から容量がよくて実力もある円となら問題なくコンビを組めそうな気がする。
(……ん?)
いや、そう言えばもう一人いたと芥先生から話を聞かされていなかっただろうか。確か、2年の男子生徒だと。石上も僕のことを「5人目のビショップ」と呼んでいた。つまり、僕たちより先に組織の一員になった人間がいるのだ。
しかし、僕はその男と今まで接触した機会は一度もなく、顔も名前も知らない。いったいどんな人間なのだろう。
「ちょーっと待った! 俺を忘れていないか、少年ッ!」
突然背後から男の大声がして、僕は思わず振り返った。ベンチの後ろ、雑木林の向こう側に誰かが仁王立ちしている。男は制服姿で、どうやら僕たちと同じ高校の生徒のようだ。胸部分に付いた校章の色は2年生を表している。
しかし、面識はない。
「えっと……ど、どちら様ですか?」
背は僕より一回り大きいだろうか。犬飼ほどではないがかなり筋肉質で日々身体を動かしているのが一目で分かった。顔立ちはかなり整っているが、キリッと揃えられた眉毛と赤みがかかった茶髪からどことなく暑苦しさを感じさせる。
「ふはは! そうだったな。確かに俺と君たちは初対面だ! しかし怖がる必要はない! これから長い付き合いになる仲間として、フィスト・バンプだ。さぁ拳を出したまえ!」
「……は?」
男は僕のすぐ真後ろまでずんずん近付き、唐突にグーの拳を作って見せた。いきなりの急接近に気圧された僕は言われるがまま同じような仕草をした。すると男は僕の拳に自分の拳をゴチンと当てて満足そうな笑みを浮かべた。
「男と男の挨拶! 一度やってみたかったんだコレが」
「…………は?」
まったく状況が飲み込めない。そもそも拳と拳を合わせるフィスト・バンプとやらの挨拶は初対面同士で絶対やるものじゃないと思う。そして力の調整が下手なのか僕の手はちょっと痛い。いったい誰なんだこの人は。
「あの、仲間ってことはもしかして……」
何かを察した円が口を開いた。その反応にまさか、と僕は冷や汗をかいた。噂をすればなんとやらだ。
「そう! 俺こそは凄腕のビショップ、長谷川小次郎(はせがわ こじろう)だ! お前たちのことは先生から聞いている。これからは力を合わせて、イレイズをぶっ潰していこうぜ。よろしくな!」
(ち、近い……)
長谷川と名乗るこの男、見た目以上に言動が暑苦しく、そして距離感がどこかおかしい。唾のかかる距離で大声出されると僕も流石にしかめ面になってしまう。しかも「凄腕」って普通自分で言う肩書きだろうか。
「ところで、先輩」
「おう! 君は沢灘円ちゃん……だったよな。分からないことがあったら俺になんでも聞いてくれよ!」
「私たちのこと、ここでずっと待ってたんですか?」
円の真顔の質問に思わず僕はぎょっとした。ここは学校からそこまで離れた公園ではないが、僕と彼女が来たのはあくまで走り込みの小休憩であって別に溜まり場にしていたわけではない。偶然居合わせたにしてはタイミングが良すぎる。
「い、いやそういうわけじゃないぞ。ここの公園、人あんまりいなくて居心地がよくてさ……いつも寮の門限ギリギリまで時間潰してるんだ」
急に声がどもり始める長谷川先輩。こんなに暑苦しいのに人のいない場所が好きとは中々変な嗜好をしている。そう言えば石上もビショップとして県外からこちら高校に入学して寮生活を送っていると聞いていたが、編入生であるこの人もどうやら同じらしい。
「それで、その……一昨日からお前たちこの公園よく来るだろ? 話してる内容とかでもしかしてと思って、今日こうして声かけてみたんだけど……」
「ぬ、盗み聞きしてたんですか!? しかも一昨日も昨日もここで!?」
さらっととんでもない発言をされて僕はベンチから逃げるように離れた。言われてみればこの公園は走るようになってから毎日立ち寄っているが、その間ずっとこの人に見られていたというのか。普通に気持ち悪い。僕が女子だったらストーカーで訴えていたと思う。
「ひ、引かないでくれ! だっていざ声かけて人違いだったら恥ずかしいだろ……?」
「いやあの、そういう問題ではなくて……」
始めの高いテンションはどこへやら、長谷川先輩はすっかり萎縮してしまった。円の方にちらりと視線をやると、状況がよく分かっていないのか単に気にしていないだけなのか首を傾げていた。僕だけならまだしも円までじろじろ監視されていたのだと思うと流石に気分はよくない。
「わざわざここでいきなり現れなくても、学校で声かけてくれたらいいじゃないですか」
「学校はその、ダメなんだ。あの空気の中にいるとどうにも落ち着かなくてまともに喋れないんだ」
「は、はぁ……?」
理屈はよく分からないが、長谷川先輩の人混み嫌いは筋金入りのようだ。別に僕も人の多いところは好きでないが、気にしすぎではないかと思う。
「それに俺……と、友達と呼べるやつがいなくて……せっかく転校してきたのに最初のキャラ作りに失敗してから……その……学校にいたら人に見られると思うと怖くて」
わざわざ言わなくていいことをぺらぺら喋り始めた。要するにこの人の暑苦しい熱血感というのはどうやら演技、というか自己暗示のようなもので本来は引っ込み思案で内気な性格のようだ。友達がいなくて辛いのならなぜわざわざ地元を離れてまでうちの高校に編入してきたのか、僕には不思議でしょうがない。
「うっ、な……なんか急に恥ずかしくなってきた……第一印象絶対に最悪だ……やらかした……今度の学校なら新しい俺でやっていけると思ったのに……結局どこに行ってもこんなんじゃあ話にならないよな……ううう」
「い、いや別にそこまで自分を追い込むことはないと思いますけど」
誰も聞いていない自分語りを終えた長谷川先輩が急に頭を抱えてその場にうずくまる。とっさにフォローするものの第一印象は確かに良いものとは言えなかったと思う。が、目立とうとして失敗した経験は僕も無いわけではないため非難する気にはならなかった。
それにしてもこんな性格でよくイレイズと命懸けの戦いをしてこられたなと逆に感心してしまう。僕が言えた義理ではないのは分かっているけど、この人と組むビショップはさぞ大変な思いをしそうだ。
「今日はもう帰る。なんかごめんな……俺のことは忘れてくれ……!」
「えっ? ちょ……」
僕のフォローも虚しく長谷川先輩はおもむろに立ち上がり雑木林の奥へと消えていった。ちなみにそっちは学生寮の方向とは真逆である。
春先の公園に、しばしの沈黙が流れた。
「いっちゃん。私……もしかして余計なこと聞いちゃった?」
「……どうだろう。わかんない」
どこか痛々しい背中を見送った後で、円が申し訳なさそうに尋ねた。あの性格ではどの道すぐにボロが出るのは間違いないので彼女が気に病むことはないと思う。堂々としていれば見た目はかっこいい方なのに何か色々と残念な人だ。
「は、は……っくしゅん!」
急に強い風が吹いて僕はくしゃみをした。春先とは言っても夕方の気温はまだまだ低い。どうやら汗を吸ったジャージがすっかり冷えてしまったようだ。円が言っていた10分間の小休憩はとっくに過ぎてしまっている。
「せっかく走って身体あっためたのに、これじゃ勿体ないね。今日はもうちょっと長めに走ろっか」
「え、えぇ〜……?」
その日、僕は全身がバキバキに痛むまで走った。夜になって別れた時も、やはり円はけろっとした笑顔を崩さないでいた。僕が彼女に追いつける日は来るのだろうか。
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