第8話 見えざる手と心(前編)
魔鍾結界を展開し、僕と先輩は戦闘態勢に入った。
敵はカメレオンのように姿を消すイレイズ。奥村先輩は「敵は今僕たちがいる場所から移動したが、そこまで遠くに離れてはいない」と言っていた。
「先輩、何か気配とか感じたりしませんか? その、今どの辺に敵がいるとか」
襲う対象の人間が消えて結界に閉じ込められたのだから、僕たちビショップを狙ってすぐに引き返してくるだろうと予想する。ならば姿が見えないぶん、せめて音や殺気などで少しでも察知出来なければと僕は思った。
「……シッ……音を立てるな……」
「あっ、は……はい……」
長谷川先輩はその場で静止して周囲の音に耳を傾けていた。長い狙撃銃を構えて、見つけ次第いつでも目標に向かって発砲するといった雰囲気である。ゴーグルで目元を隠しているが、かなり神経を張り詰めていることは伝わってきた。
(ほ、本当にこれがあの長谷川先輩なの……?)
僕の目の前にいる男、長谷川小次郎はつい先ほどまで気弱で人付き合いが苦手、かつネガティブな性格の学生だった。イレイズ出現の報せを受けても寮の自室に引きこもっていて、僕が説得して何とか引っ張り出すことに成功したぐらいである。
しかしプロメテを装着し武器を持った彼は、まるで別人のように変貌していた。表情がキリッと引き締まり立ち振る舞いも堂々としていて、何というか頼り甲斐がある。
「気配までは流石に分からん。だが、イレイズが空を飛んだりワープ移動をするような個体でない限り、必ず地面には足を付ける。速く移動すればそれだけ音も大きくなり足跡もはっきり見えるはずだ」
「な、なるほど」
イレイズは普段は人間の姿を装っているが、怪物の形態になった時には体積だけでなく重量も数倍に増す。それが凄まじい速度で走ったりすればアスファルトやコンクリートの地面などべこべこに凹むだろう。長谷川先輩はそれを探っているのだ。
(やっぱり気配でイレイズの場所が分かるのは円くらいなんだな……僕もしっかりしないと)
比較するのは申し訳ないが、こういう時に円のプロメテの能力はやはり便利だと感じてしまう。それに、先輩がどのように狙撃するのかまだ僕だって知らないのだ。能力が未知数な仲間との共闘、姿の見えない敵、不安要素は尽きない。
「それにしても……」
僕も長谷川先輩に倣って周囲に聞き耳を立てているが、大きな足音も聞こえなければアスファルトに足跡らしきものも見えない。敵が近付いているのか、遠ざかっているのかすら分からない、不気味な数十秒の沈黙が流れる。
しかし、
「マヌケめ」
「……っ! どこだ!」
突如耳にした謎の声に先輩が銃を構えた。僕にもはっきりと聞こえた。しわがれた老人のような男の声だ。
僕と先輩以外にこの空間に誰かいる。考えるまでもなく正体はイレイズだ。しかし辺りを見渡してみても、それらしき人影は見えない。
「地をハうだけが、ノウだと思っていル。愚か者ドモ」
イレイズが、片言だがはっきりとした言葉遣いでこちらを挑発する。人間を見下すような物言いは前回の魚人のイレイズと同じだが、今回はさらに饒舌だ。
「ここサ」
「……先輩! あそこに!」
僕は声がした方向を指さした。電柱と電柱を繋ぐ送電線が、強風で煽られたように大きく揺れている。だが揺れている送電線はその一本で、僕たちの周囲に強風が起こっている様子はなかった。間違いなくあそこに姿の見えない何者かがいる。
「そこかッ!」
長谷川先輩が僕の指さした場所に狙撃銃を発砲した。破裂音にも似た銃声が鳴り響くが、何かに命中したような気配はない。
「ちっ」
舌打ちしながら続け様に3発、4発と方向をずらしながら撃ち込んでいく先輩。しかし銃弾は揺らめく送電線や電柱の変圧器などに当たり大きな穴を
「ドコを狙っテいるんダよ」
今度は先輩が撃った逆の方向から声がした。すかさず振り返り斜め上に向けて先輩が引き金を引く。銃弾は信号機のレンズを突き抜けて鈍い金属音が周囲にこだました。
「なカなカ、速いネ……でも」
「……ぐっ……ぅっ!」
信号機が火花を散らした直後、長谷川先輩が突如苦しみだしてその場に膝をついた。彼の手から落ちた
「先輩!」
先輩は苦悶の表情を浮かべて首筋にある「何か」を掴もうとしていた。敵の攻撃を目で追うことは不可能だが、その様子から今先輩の身に何が起こっているのか推測することは難しくない。恐らくイレイズが背後から彼の首を絞めて窒息させているのだ。
ギリギリと締め上げられ先輩の身体が宙に浮く。
「このぉっ!」
反射的に僕は先輩の背後の空間に拳を突き出した。そのまま拳は空を切るはずだったが、何か硬いものを殴りつけた感触が確かにあった。
「クァッ……!」
先輩のものではない苦しげな声と共に、その空間から大きな影が浮かび上がる。体長はせいぜい180cm前後で人間とさほど変わらない大きさだが、首から上が硬く渇いた皮膚で覆われて巨大な二つの目玉がこちらを捉えている。その頭部は角のような突起がいくつも生えていた。
(ほ、ほんとにカメレオンだった!)
「クケッ……!」
姿を現したカメレオンのイレイズは一瞬で後退し僕と先輩から距離をとった。この敵は恐らく先ほどまで送電線や信号機の上に立っていたのだ。それが、驚異的な速さで接近して先輩の背後に周り羽交い絞めにしたと考えられる。
そのままカメレオンのイレイズは道路上で静止している車の上を伝ってどんどん僕たちから離れていく。
「ごほっ……追いかけろ、九条……! あいつはきっと、また姿を消す……!」
「先輩! 大丈夫なんですか!?」
「ああ、この程度で死にはせん……」
解放された長谷川先輩が咳き込みながらイレイズが逃げた方向を指さす。確かに再び姿を消されたら次はどのように襲撃されるか分かったものではない。しかし、まだ見失ってはいないもののどう考えても僕が追いつける速さではなかった。
(くそっ!)
躊躇しても仕方がないので僕は車道に飛び出し全速力で走った。イレイズの後ろ姿はどんどん小さくなり、その影は遠くの景色に溶け込んでいく。姿を消す能力が復活しようとしているのだろう。このままではあと十数秒もしないうちに完全に見えなくなる。
(考えろ! 走って追いつけないなら……僕ならどうする……!?)
僕は今までのイレイズとの戦いの記憶を思い起こしていた。炎の蛇を巻きつけて強力なパンチを繰り出す、それが僕のプロメテの最もシンプルな使い方だ。だが、使い方はそれだけではなかった。僕が頭の中で浮かべたイメージの通りに蛇が出てきてくれるのなら、今この状況を何とかするような形で現れてくれるはず。
(追いつけないなら、あいつをここまで引き寄せる!)
僕は見えなくなっていくイレイズの影に向かって左腕を伸ばした。直後、手首の痣から爆発のような炎が噴き出た。
そこから現れたのは燃え立つような赤い鱗を纏った炎の蛇だ。普段は僕の左手に巻きついている蛇は、そのまま前方一直線にぐんぐん伸びていく。
(うっ……)
蛇が伸びていくにつれ、身体の中から熱が抜けていくような感覚を覚えた。全身が鉛の服を着たように重い。倒れる程ではないが、むしろ体の感覚が薄れて倒れることも出来ない状況だ。
僕は直感した。この蛇そのものがプロメテの力の源なのだと。どこまで伸びていくか定かではないが、恐らくこのまま力の放出を続けると身体が保たない。
視界が薄れかけた瞬間、僕の腕から伸びていた蛇の動きが止まった。先端から直接感覚が伝わったわけではないが、何かに巻きついたような手応えを確かに感じる。
(もしかして……)
僕は一縷の望みを賭けて、伸び切った蛇を自分の中に収束させるよう強く念じた。
その瞬間、身体がふわっと宙に浮いた。
「えっ? う、うわぁーー!」
一瞬何が起きたか理解できなかった。僕の身体は地面を転がり、静止していた車にぶつかり、そのまま凄まじい力で引っ張られていく。
引き摺られながら体内に戻っていく熱の感覚に、思考がようやく追いついた。
僕は確かにイレイズをこちら側に引き寄せるつもりで念じた。その結果、左手首から放出された炎の蛇は電動のコードリールを巻くように体内に収束されていっている。しかし想定とは逆にイレイズを引き寄せるはずが、体重の差がありすぎるせいで僕の方が引っ張られているのだ。
されるがままに引っ張られた僕は車道を外れ、雑木林の間に吸い込まれ、その先の草むらに顔面からダイブした。
「いっ……たぁ……」
僕が飛び込んだ場所は木々に囲まれた昨日の自然公園の中だった。服はボロボロの土まみれで頭はくらくらしているが、幸いなことに大きな傷はなく骨にも異常はない。
身体を起こして僕は蛇が伸びている方向に目をやる。
僕の身体から出てきている蛇は、宙に浮いた腕らしきものに絡み付いて動きを拘束していた。蛇は僕の意識が一瞬離れたためか体内に収束するのをやめて一定の長さを保っている。
「ゥグゥ……」
浮いた腕は暴れるように揺らしながら抵抗していて、何処からともなく苦しそうな呻き声が聞こえた。そこに僕はイレイズの本体があることを確信する。
「おりゃあ!」
拘束されているイレイズの二の腕の根本にある透明な空間に、僕は拳を打ち付ける。
そこには何か硬い物を殴った感触が確かにあった。立て続けに一発、もう一発と僕が殴った箇所からみるみるとイレイズの本体が露わになる。
「ズにのルな……カスめ!」
しかし再び姿を現したイレイズは胴体に打ち込まれたパンチをものともせず、僕の右手首を掴んだ。蛇が体内に収束しきって拘束が解かれたのだ。イレイズの右腕は炎の蛇の熱で焼け爛れていたが、それでも致命傷には程遠い。
「オマエから、先に始末してモいいネ……カぁッ!」
「う、うわっ!」
突如イレイズの口部分が大きく開き、至近距離でも見通せない程に暗い内部が露わになる。そこからレーザー光線のような「何か」が解き放たれ、僕の首筋を掠めた。
その一瞬後、僕の背後で金属が耳をつんざくような、鋭く弾ける音が鳴り響く。反射的に振り返ると公園周辺の地図を示した鉄製の立て看板に何かが突き刺さっていた。
イレイズの口から伸びたそれは僕の炎の蛇よりも細長く、そして速い。
(こいつは……!)
その正体はイレイズの舌だった。弾丸にも等しい速度で放たれ、分厚い鉄の板を貫通できるほどの恐るべき硬度と破壊力。こんな物まで武器に出来るのかと、驚愕せずにはいられなかった。直撃はしなかったものの、首筋が火傷のように痛む。あと数ミリ照準がズレていたらどうなっていたことか。
カメレオンのイレイズは一瞬で舌を引っ込めて、大きな口の中に収納した。すかさず僕は掴んでくるイレイズの手を振り払い距離を取る。
「カッ!」
今度は僕の足元目掛けてイレイズが舌攻撃を繰り出した。咄嗟に背後に跳んで避けると、舌は地面に直撃して石畳の道路を大きく抉る。
(どうする! このままじゃ避けるのが精一杯だ!)
幸い舌の射出には数秒の「間」を要していた。しかも両目で照準を合わせるため軌道も読みやすい。素人目に見ても、それは確かな隙だと言えた。だが、接近してもつれ合えばそのぶんこちらも避けるのが難しい。単純にパワーで負けている今の僕にはあまりにも分が悪い賭けだ。
ならば、打ち出された舌を掴んで引っこ抜くのはどうだろうか。敵の決め手を一つ封じればこちらが有利に傾くことは間違いない。
僕は迷わず地面に突き刺さった細長い舌に手を伸ばした。
「っ!」
指先がイレイズの舌に触れた瞬間、鋭い痛みが走り思わず僕は手を離した。この舌はただの舌ではない。ザラザラとした鋭い無数の突起に全体がびっしりと覆われており、それが凄まじい速度で引っ込められたため指の皮膚がスパッと切られたのだ。
「痛った……」
左手の中指の先からどくどくと血がとめどなく流れる。確かに痛いが首筋の怪我と同様に、あと1秒でも早く掴んでいたら手のひらを大きく切り裂かれていたため、これでも運がいい方だろう。
「もう、オわリか」
じりじりとイレイズが近付いて来る。僕も距離を保ちながら下がり、数歩で腰が背後の地図看板に当たった。これ以上後退できない。
追い詰めたと言わんばかりに至近距離まで接近したカメレオンのイレイズが再度大きく口を開く。ぎょろり、と目玉を回して照準を合わせた先は僕の心臓部。
(まずい!)
弾丸のような舌攻撃が打ち出されるその瞬間、それより早く重々しい銃声が鳴り響いた。音がしたのは、イレイズの斜め後ろからだ。
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