第23話 氷獄(前編)

 あの後、円は病院に救急搬送された。魔鐘結界が解かれ、通りかかった人が僕たちに気付き救急車を呼んでくれたのだ。

 その間僕はずっとパニックになり何も行動することができなかった。今も頭の中が混乱して現実を把握しきれていない。


「訳、わかんないよ……」


 さっき後にしたはずの同じ病院、同じ待合ホールの長椅子に座って僕は項垂れていた。時刻は夜の7時を過ぎて、受付も終了している。この広い空間に僕は一人ぽつんと取り残されていた。

 円が倒れた時、触れた彼女の身体が氷のように冷たかったのを思い出す。円の胴体を貫いたのはただの矢ではない。冷気の魔力で生成された、極めて強力で殺傷力の高い矢だ。それを撃ったのは僕たちに対して今まで散々暴虐の限りを尽くしてきた石上姉。

 本来なら人類の敵であるイレイズを殺すための武器。それをあの女はよりにも寄って人間に向けて放った。

 円の容態は依然として不明だ。助かるのか、助からないのか、それさえ分からない。ただ確かなのは、今の円の状態はただの負傷とは訳が違う、想像を絶するものだということだ。


(……ぅ…………)


 胸の奥が、押し潰されるように苦しい。本当なら色々な感情が湧き上がってくるはずなのに何も感じることが出来ない。悲しいことが起きているのに、涙すら出てこないのが余計に苦しかった。

 このまま円が目を覚まさなかったら、僕はどうなるのだろう。これから何のために、何と戦っていけばいいのだろう。


(……ああ、そっか)


 きっとこの苦しさが、円の心の底にあったものだったのかもしれない。彼女がイレイズに対して抱いていた黒く重い感情を、今僕は石上姉に対して抱いている。

 僕は今まで知らなかった。いや、知りたくもなかった。

 誰かを憎むことが、こんなにも苦しいなんて。


「……?」


 それから何分そうしていただろうか、僕のズボンのポケットの中でスマホが振動したことで意識が少しだけ現実に帰ってきた。

 取り出して画面を見ると、着信が来ていた。その相手は良く知った名前。


「石上……?」

『…………九条』


 通話に出ると妹の石上が生気のない声で僕を呼んだ。


『今……大丈夫?』

「…………うん」


 心の方が大丈夫かと訊かれたら間違いなくそうではないが、とりあえず僕は力無く頷いた。円のことはまだ伝えていなかったが、向こうも何か只事ではない事態なのかもしれない。


『あ、あの…………ね。お、落ち着いて……聞いて』


 通話越しの石上の声は震えていた。普段から気が強い彼女の、こんな弱気な声は今まで聞いた事がなかった。


『さっき……急に部室が襲われて、先輩が……ゆ、ユミ先輩が……』

「…………え」


 僕は一瞬スマホを落としかけた。急に襲われて、奥村先輩が、どうしたって? 


『あたしが席を外してすぐに、魔鐘結界が開かれて……大きな音がしたから、戻ってきたら先輩……倒れてて……』

「そんな……奥村先輩まで……」


 ただでさえ円が倒れて頭の中がいっぱいいっぱいなのに、畳み掛けるように絶望的な報せばかりが届く。考えたくはないが、あの女の目的は一つしかない。石上以外の陰陽部のビショップを、一人残らず殺す気だ。


『ちょ、ちょっと……先輩までって、どういうこと? そっちで何があったの……?』


 口を滑らせたことで現状を察した石上が恐る恐る尋ねる。伝えなければいけないのに、上手く言葉が出てこない。


「急患です!」


 直後、黙っていた僕の背後で正面玄関の自動ドアが開き、待合ホールを包んでいた静寂が破られた。

 反射的に振り返り、声のした方向に目をやる。どうやら数人の救護員によって担架が運ばれてきたようだった。

 その上に寝かされた人物を見て、僕は絶句した。


「先輩……?」


 仰向けに寝かされ担ぎ込まれて来たのは、ほんの数時間前に僕たちを送り出した奥村先輩だった。顔面は人形と見間違うほど青白く変色しており、普段の快活さからは想像もつかない姿だった。

 今、目の前の光景は現実なのだ。円が撃たれたのも、奥村先輩が襲われたのも。この目にはっきり焼き付けたことで、背けていた気持ちが現実に追いついてくる。


「……円も、やられたんだ。あれから意識がなくって、どうなるかも分からない」

『えっ……!?』


 今度は通話の先で石上が言葉を失っていた。裏腹に、僕の頭はどこか冷静だった。


「もう学校も閉まってるよね。明日、休みだけど部室に行くからその時に話す」


 そう言って僕は通話を切り、病院を出た。

 もし石上姉の目的が闇討ちによって陰陽部を壊滅させることなら、帰りの道中も安全とは言えない。だが、警戒に反して家に辿り着くまでの間は何も起こらず僕は不気味ささえ覚えていた。


「……………………」


 誰もいない、いつもの自宅。いつもの自室。日付も変わろうという時間なのにちっとも空腹を感じない。流石に何かは食べないといけないと思い備蓄してあるカップ麺を口にしたが、不思議なほど味がしなかった。

 数口だけ食べた後で残りは流しに捨て、シャワーを浴びながら僕は石上姉のことを考えていた。円と奥村先輩を襲撃し、今もなお僕たちを狙う悪魔のような女。そんな僕たちをせせら笑うような醜悪な顔を。


「……くそっ」


 その女を僕は頭の中で何度も叩き潰していた。僕の炎の蛇で、縛り上げ、殴りつけ、苦しませる。そんな自分の姿を想像する度に強い嫌悪感に襲われる。

 布団に入り目を閉じても、その想像は消えることなく頭の中で反復し僕を眠らせてはくれなかった。


 翌朝、僕は運動部の朝練が始まるよりも早く陰陽部の部室を訪れていた。いつもなら遅刻ギリギリのタイミングで学校に到着するのに、休日の今日に限ってはまだ一限目が始まる時間よりもずっと早い。

 僕以外部室には誰もいない。教壇付近に寄せられた机には奥村先輩のノートパソコンが開きっぱなしで置かれてある。

 ふと窓の方に目をやると、ガラスの光の入り方にどことなく違和感を覚えた。近付いて見てみたら、胸の高さほどの位置に直径1cm弱ほどの小さい穴が開いている。


「これって……」


 間違いない。石上姉が氷の矢で先輩を射抜いた痕跡だ。奥村先輩は、部室にいる時に襲われたのだ。開きっぱなしのノートパソコンがその時の状況を如実に語っていた。

 こんな太さの物体を、いきなり身体に撃ち込まれたのだ。氷の魔力による影響以前に、その計り知れないだろう痛みに僕は戦慄した。当たりどころ次第では命だって容易く奪える。


「……九条」


 僕の背後から、男子生徒の声がした。誰もいないはずの部室で僕を呼ぶ声。その声の主は僕のよく知った人物だ。


「長谷川先輩、無事だったんですか!?」

「ああ……この中にいたお陰でな。まったく、情けないことだが……」


 部室の壁際に置かれたロッカー内にやはり長谷川小次郎はいた。彼が襲われたという話は聞いていなかったため大丈夫だとは思っていたが、まさかこんな時間から潜んでいたとは。


「……先輩、これから僕たちどうすればいいんでしょうか」

「うむ……」


 椅子に腰掛け弱々しく尋ねると、籠もったように頷く声が聞こえた。長谷川もそれが分からずここにいるのだろうか。

 既に陰陽部は円と奥村先輩を失い壊滅状態だ。イレイズの出現だって特定できないし、ビショップとしての活動すらもはや不可能に近い。

 しかも僕たちは二人とも確実に石上姉に狙われている。今こうして無事に話せていても、いつ魔鐘結界が開かれて意識の外から撃ち抜かれるか分かったものではないのだ。もしかしたら円と奥村先輩を襲った後でその日は一切追撃が無かったのは、こうして怯える僕たちの様子を楽しんでいるからかもしれない。


「ずっと考えていた。このまま手をこまねいていても、俺たちはいずれあの女に始末される。ならばこちらから打って出るしかあるまいと」

「打って出るって……先輩?」


 良からぬ単語が聞こえたと思ったら急にガタンとロッカーの扉が開き、中から長谷川がぬっと出てきた。初めて会った時のような視線を合わせずおどおどしていた印象は全くなく、戦いの中で見せるような厳かな顔つきだ。思えば魔鐘結界の外で彼と対面するのは久しぶりな気がする。

 だが長谷川は驚く僕に目もくれず、机の上に置かれたノートパソコンの電源ボタンを押した。


「電源は……生きているな」


 起動させる長谷川の背後から僕も画面を覗く。そこには学校周辺の地形を示したマップが開かれていた。だが、よく目にする地図と違ってサーモグラフィーカメラのように不規則な形に色分けがされており、特殊な区切りをしているのが読み取れた。

 恐らくこのマップは、学校周辺に漂う魔力の濃さを表している。


「長谷川先輩、使い方分かるんですか?」

「前に奥村の使っているのをちらっと見たことがある。完全に分かるわけじゃないが、色の動きで魔力の不自然な推移はだいたい読み取れる」


 冷静に分析する長谷川。しかしこんな秒単位でエリアの色が変わる雨雲レーダーのようなマップを見せられても、僕の頭では何が自然で何が不自然なのかさっぱり理解できない。


「プロメテと接続状態なら身体からは強い魔力が出る。魔鐘結界が開いた時、その魔力を辿ってあの女の位置を割り出す。幸い俺も奴と同じで狙撃型のビショップだからな……」


 カタカタとキーボードを使って長谷川は画面の拡大を微調整する。位置を割り出して、その後どうするのか。そんなことは聞くまでもない。


「せ、先輩……もしかして、撃つ気ですか? あの人を……」


 恐々としながら尋ねると、長谷川は何を今更と言いたげな表情で鼻を鳴らした。


「ここまでされて、もう黙っている訳にはいかん。向こうがその気なら、こちらも手段を選んでなどいられないだろうが」

「でも……」


 僕も今朝まで同じことを考えていたはずなのに、いざ目の前でその意志を見せつけられると二の足を踏んでしまう。

 手段を選ばない。それはつまり、石上姉が殺意をもって僕たちを狙うのに対しこちらも殺意で応えること。同じビショップの能力で相手を殺すということだ。

 だが、本当にそれで良いのだろうか。イレイズを倒すため、ひいては人間を守るために与えられた力を行使して人間を殺す。そんなことを、僕たちは迷いなく実行できるのか。


「だったらどうする。今さら話し合いで解決しろとでも言う気か。問答無用で人を襲うような奴と、何を話し合えと?」


 それは無理だ。僕だってそんな事は分かりきっている。分かってはいるが、それをやってしまったら僕たちはもう後戻り出来ないところまで行ってしまうのではないか。

 誰かを殺めた。その事実の重さを抱えて残りの長い人生を送る覚悟が、今の僕たちにあるだろうか。


「……すまん。言い争いをする気はなかった」


 らしくないという自覚があるのか、長谷川は小さく謝罪した。元々は気弱な性格だったはずの彼がここまで敵意を露わにしているのを見て、それだけ今が非常事態であることを思い知らされる。


「昔を思い出したんだ。初めてあの女が部室にやってきた時にな、奴の目を見て」

「昔……ですか?」

「ああ、九条には前に話したことがあったか。俺が昔はデブのいじめられっ子だったことを」


 それは以前長谷川が自室に引きこもっていたのを説得した時に聞いたことがある。ビショップになる前の彼は体重100kgを超える巨漢で、その性格もあってずっと周囲からいじめられてきたらしい。

 でも、今そんな思い出したくもないはずの過去の話を蒸し返す理由は何だろう。


「いじめの中心だった同級生には付き合ってる女子がいてな。その女は陰で殴られていた俺の姿をいつも写真に撮って笑い者にしていた。まあ、そいつもいじめのメンバーの一人みたいなものだったが」

「先輩……」


 淡々と語る長谷川だったが、無意識に奥歯をぎりりと噛みその表情からは隠しようもない怒りの感情が滲み出ていた。


「芥先生を締め上げていたあの女の目は、そいつにそっくりだったよ。目の前の相手を馬鹿にして見下す目が。あの時の俺は怖くて、全く動けなかった……」


 動けなかったのは僕も同じだ。あの時は妹の石上が助けに来るまで誰も反抗することは出来なかっただろう。悪意を持って現れた人間に対してその場で適切な対処をするなんて、普通はできない。


「俺は逃げるわけにはいかない。このままここで目を背けたら、俺は昔の、あいつらにいじめられていた中学の時のままだ。俺はもうこれ以上、自分の居場所を奪われるのは御免だ」


 長谷川の言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているように見えた。だがその勇気が、これから人の命を奪う決意と繋がっていると思うと、僕はどうしようもなく悲しかった。


「……分かっているさ。誰も憎まず、誰とも争わずにいられるなら、それが一番だってな。でも、綺麗事だけじゃいられないのが俺たちなんだ」


 僕の心境を汲み取ったのか、長谷川が自嘲気味に呟く。

 綺麗事。確かにそうかもしれない。しかし僕も人間同士だって決定的に分かり合えない相手がいることは嫌と言うほど実感してきた。たとえ分かり合えずとも悪意を持った人間から大事なものを守るためには、きっと戦う以外に道はない。


「待って、二人とも」


 突然、僕たちを制止する声が響き部室の扉がガラッと開いた。

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