第13話 灼熱(前編)

 目の前に広がる光景が、陽炎のようにゆらめいている。先程まで夜の闇に包まれていた森の中は、まるで昼間のように明るく僕の周囲の存在をくっきりと照らしていた。


「こいつ、なんだ……!? いったいどうなってやがる……」


 僕の眼前で上級イレイズ25号が呻くように声を上げる。首から上は般若の能面のようにぐにゃりと歪み既に怪物の形態と化しているので表情は分からないが、その声色から焦りの色は窺えた。


(はぁ…………はぁ……)


 僕自身、自分の身体がどうなっているのか全く見当もつかない。頭が茹で上がりそうなほどの暑さに支配されて、意識がくらくらとする。

 僕の身体は今、自分の中から這い出てきた炎の蛇に纏わりつかれて灼熱の空間を作り上げていた。文字通り、身体が燃えていると言ってもいい。


(熱い……身体が、溶けそう……っ!)


 昼間の戦いで僕の身体から消えてしまったはずの炎の蛇は、いつの間にか復活していた。

 だがその蛇は普段と何かが違う。

 初めて出現してから今日まで、蛇は赤い炎を纏っていた。それが今は黒く変色しており、僕の全身に巻きついて離れない。


「いっちゃん……」


 背後を振り返ると円が心配そうに名前を呼んだ。


「円、大丈夫?」

「うん。私は……」


 円は先ほどまで25号と死闘を繰り広げて身体のあちこちを負傷していた。恐らく致命的な怪我ではないだろうが、僕が懸念していたのはそこではない。この熱で彼女が苦しんでいないか、それだけが僕は気がかりであった。

 足元に目をやると炎は草木にもじわじわと燃え広がっており、一つ加減を間違えればこの周囲一帯が火の海と化していてもおかしくはなかった。円との距離は数m。これ以上近付くのは危険かもしれない。


「けっ、調子付きやがってこの野郎……!」


 25号が吐き捨てると同時に自身の体をさらに変化させ、硬質化した皮膚全体に鋭い棘を出現させた。膨れ上がっていた全身は細く引き締まり、見た目はさながら人型のハリネズミだ。


「潰れろや!」


 一瞬で僕の目の前まで距離を詰めると25号は両手を合わせて振り上げ、僕の顔面めがけて勢いよく降ろした。反射的に左腕で防御の姿勢を取り、二つの腕が激突する。

 まともにぶつかれば、僕の全身は串刺しにされ骨ごと砕かれるはずであった。

 しかし、


「……ぐっ!?」


 僕はその場で仰反ることもなく25号の攻撃を受け止めた。逆に25号が腕を離し苦しげに悶絶する。棘に覆われた腕が、バーナーで炙られたように焼け爛れていた。

 今まで圧倒的な力で僕たちをねじ伏せていた25号に初めて明確な隙が生まれる。


「たぁーーっ!」


 その隙を見逃さなかった僕は、すかさずガラ空きとなった腹部に体重を乗せた拳を叩き込んだ。すると、25号はまるで紙人形のように勢いよく吹っ飛ばされ地面を転がった。


「か、はっ……!」


 よろよろと苦しげに立ち上がる25号。パンチを受けた腹部は大きく抉られて、ぐにゃりと歪められていた。さらに、その溶けた25号の体細胞は滴るように地面に流れ出し、周囲に火の粉を燃え広がらせる。


(信じられない。本当に、どうなってるんだ僕の体……)


 想像を遥かに超えた力に僕も驚きを隠せなかったが、不思議と頭の中はすっきりと落ち着いていた。戦う前はあれだけ怯えていたはずなのに、今はその恐怖心はまるでなく忘れた戦い方や魔力の行使の仕方もはっきり思い出せる。

 僕は黒い蛇を巻きつけたままゆっくりと歩き出し、見るからに弱った25号はじりじりと後ずさる。


「く、くそっ……ふざけやがって……!」


 前回とは打って変わって、今度はあの25号が怯えている。散々見下し、存在を奪い、いたぶってきた人間に自分が追い詰められる。きっと強い力を持つイレイズには耐え難い屈辱なのだろう。

 だが、25号に傷付けられた円や長谷川先輩や石上、それに命を奪われた顔も知らないビショップの痛みに比べたら、実にちっぽけなものである。容赦する理由など一つもない。

 熱で朦朧とする意識の中でなんとか自分を奮い立たせ、ついに25号とあと半歩の距離まで接近した。


「ぐぅ……おおおぉっ……!!」


 突如、25号が野太い悲鳴を上げて苦しみ出した。

 僕自身はまったく動いていない。だが、僕の身体に巻きついた黒い蛇がゆっくりと蝕むように25号の体も絡みつき、灼熱の炎でその巨体を焼き尽くそうとする。


(燃えろ……)


 本当なら殴ったり蹴ったりするつもりであったのだが思うように体が動かせず、僕はそのままの姿勢で黒い蛇に強く念を入れた。すると蛇は思考を読み取ったのか、僕の頭の中で思い描いた動きを忠実に実行し、ぎりぎりと25号を締め上げた。

 25号がその場に膝をつき、全身の穴という穴から血のような黒い液体をどろどろと流し始める。棘のように鋭い体毛に覆われた巨体はみるみる溶解し、もはや生物とも思えない塊のような何かに姿を変えていった。

 完全な撃破まで後一歩だ。


(もう……少し……)


 だが、目の前の敵を苦しめる灼熱の業火は確実に僕の体力も奪っていた。全身からとめどなく噴き出す汗が目に染みて視界も悪くなり、だんだんと意識も薄れていく。


「……っちゃん……!」


 背後から叫ぶような声が聞こえる。声の主は円だというのは分かるのだが、身体が内から硬直し振り返ることができない。明らかに魔力を放出しすぎて僕の体が限界を迎えているのだ。以前の戦いで全身の感覚が無くなるほど蛇を体内から出し切ったことがあったが、今回の消耗はその時とは比較にならない。


(うっ……やば……)


 頭が煮えたぎり、瞼が重い。今まで聞いたことのないほど耳鳴りが止まず、喉の奥がカラカラに干からびる。一瞬でも気を抜いたら、そのまま倒れてしまうほどに。


「いっちゃん!」

「……はっ!」


 強く聞こえた声に僕は無理やり意識を叩き起した。すると、つい今の今まで25号に巻きついていた炎の蛇は僕の周囲をふわふわと漂い、色も黒から普段の赤色に戻っていた。心なしか、蛇は普段よりも元気がないように感じられる。

 体内に魔力が流れる感触は確かにあるが、それも今までの戦いの時と同じかそれよりも微弱なレベルで、さっきまで感じていたような意識を失いそうなほどの熱量はない。


「もしかして、元に戻っちゃった……?」


 全身の感覚も戻り、僕は円の声のした方向に視線を向ける。


「良かった……体は、なんともない?」

「あ、ありがとう。円が呼んでくれなかったら、危なかった」

 

 未知の現象だったが、あのまま魔力を放出し続けていたら倒れるだけでは済まないことになっていただろうということは察せた。助けに来たはずなのに、結局また彼女に助けられてしまっている。


「これって……」


 僕は目の前に転がっている、名状しがたい謎の大きな塊に視線を向けた。

 表面はおろか内部まで完全に熱が入りきって、まるでスライムのように溶解した『それ』は紛れもなく上級イレイズ25号。僕たちを散々苦しめた強敵の成れの果てである。どうやら他のイレイズとは異なり爆発することなくその場に残ったようだ。どこが頭でどこが手足なのか、判別することが困難なほどに溶け尽くしていた。

 これが自分のやったことなのか、と実感がだんだんと追いついて寒気がする。強大な敵を倒すためには、それ相応の力が必要なのは当然だ。しかし、先程の『黒い蛇』はどう考えても人間一人の手には余る代物である。加減を少しでも間違えていたら、今ごろ周囲一帯は山火事で火の海になっていただろうし、僕も円もどうなっていたか想像すらできない。

 だが、これでようやく危機は去った。それだけははっきりと言えた。


「終わった……んだね。やっと」


 緊張の糸が切れたのか、僕はその場にへなへなと座り込み円の方に視線を向けた。


「……そうだね」


 彼女もまだ戸惑った様子だが、安心したような声色で頷く。

 長い、あまりにも長い一日が終わろうとしていた。

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