第10話 サスペンス(前編)
月曜日。それは世の頑張る社会人や学生が憂鬱になる日。楽しい楽しい日曜日を塗りつぶして現実の訪れを知らせる悪夢の曜日。その名を聞いただけで恐怖し震え上がる人は後を絶たない。
それは言い過ぎだろうという意見もあるかもしれないが、ここ室星学園高校の1年1組はとりわけその傾向が強かった。なぜなら生徒たちに毎週大量に課される数学の宿題の提出日が、決まって月曜の1時限目にあるからだ。
僕らのクラスの数学Aを担当している、通称『闇金の金子』は加減を知らない鬼教師として1年の中で恐れられていた。金子の出す宿題は多いだけではない。教科書とは別の問題集を使って難易度の高い問題を次々と振りかざしてくるのだ。さらに提出が遅れたり間違いだらけの回答を書いてくると指定の宿題量の2倍を再提出させる刑が待っている。それゆえ金子は闇金と恐れられていた。
しかも野球部の顧問も務めているらしく、ボディビルダーばりの膨れ上がった筋肉質な体格といかめしい顔つきで、怒鳴られると寿命が縮む。僕も宿題を忘れて怒られたことがあるが、あれはイレイズのような怪物とは別ベクトルで恐怖だ。
「なぁおい九条」
「なに?」
「今日の宿題、全部やってきたか?」
朝のホームルームが終わり1時限目の授業が始まるまであと5分となったタイミングで斜め後ろの席から犬飼が小声で僕に話しかけてきた。
「やってきたと言えば、やってきたけど」
僕は余白がスカスカ空いたノートをぱらりと開いて見せた。最近は円との修行だったり先輩に遊びに誘われたりして頭から勉強がすっぽり抜け落ちていた。お陰で問題は何一つ分からず途中式をすっ飛ばして答えだけ書いたり、選択式の問題は全て③と答えたり結果は散々だ。僕がやったことは完全に悪あがきみたいなもので、まともに採点されれば2倍再提出コース間違いなしである。
「あんたねぇ……」
隣の席の石上が冷ややかな視線をぶつけてきた。言いたいことはわかる。ここ数日はイレイズ出現の報せはなく戦う機会はなかったものの、街中に急に現れることも珍しくないのでいざという時に動けなかったら仲間に大きな迷惑がかかってしまう。
しかし、何時間かけても分からない問題は分からないのだ。確かに僕はクラスでも下から2番目の頭の悪さで授業も毎回さっぱり分からないけど、それにしても今回の宿題は難しかった。教室を見渡せば大半の生徒はきちんとやってきたのだろうが、青ざめた顔をした人もちらほら見かけられる。
「まぁまぁ、俺なんて白紙だし全然ましだよ。なんとかなるって」
「白紙って……その割になんでそんなに元気そうなのさ」
さらっととんでもないことを言ってのけた犬飼に僕は唖然とした。普段からこの男はへらへらした言動が目立つが今日は二割増しくらいでへらへらしている。クラスのみんなが青い顔したり冷や汗かいたりしている中で成績最下位の犬飼がなぜこんなに余裕の顔をしているのか僕には理解できない。
「いやさ、先週の金曜なんだけどよ……金子、学校に来てなくて5組の数Aが自習になったらしいんだよ」
「あっそうなんだ…………って、いやいや普通に考えて金曜休んでも月曜には来るでしょ学校」
仮に体調不良で休んだとしても別に今はインフルエンザとか流行ってる季節ではないし数日経てば回復するだろう。親戚が亡くなったとか忌引き休暇の場合はよく分からないが。
「しかもさ、金子って野球部の顧問もやってるんだけど土曜の練習日にも何故かグラウンドにいなかったんだよ。バスケ部の外コートと場所近いから見えるんだけど」
「いや、そうだと言っても……」
だからといって今日も来ないことに賭けて宿題をずるけるのは博打も博打。大博打である。そりゃあ犬飼は僕よりさらに下のクラス最下位成績だが、宿題をサボると2倍な上にめちゃめちゃに怒られることは想像できるはずだ。
「もし来たら、その時はどうするのさ」
「も、もしもなんてねえよ。俺はもう来ないことに賭けてるんだ」
ふふん、とふんぞり返る犬飼だがその首筋に汗がたらりと流れたのを僕は見逃さなかった。どうせこの男のことなので、テキストを開いた瞬間にもうわからんとなって投げ出したのだろう。前みたいにスマホで通話しながらやっていたら少しはマシになったかもしれないと言うのに。
そうこうしているうちに授業開始のチャイムが鳴り、僕は息を呑んだ。恐らくクラスの大半は同じ心境だろう。運命の時が刻々と迫る。
「……え?」
教室のドアが開き、僕は大柄な男がどかどかとうるさい足音を立てて入る姿を想像した。しかしそこにいたのは小柄で気弱そうな女性教師だった。ふわふわとしたショートボブが特徴の塩谷先生だ。英語を教えていて僕たちのクラスの担任でもある。ついさっきホームルームを終えて教室を出て行ったはずだが、なぜ急に戻って来たのだろうか。
「ええと、みなさん。急な話で申し訳ありませんが、金子先生が急遽お休みになりましたのでこの時間は自習になります」
直後、クラスが静かに湧いた。小さくガッツポーズしている者や天を仰いでいる者も散見されて、概ね全員がほっと胸を撫で下ろしている様子だ。
(う、うそぉ……)
かく言う僕も内心安堵しているけど、それよりも犬飼の勘が当たったことの方に驚いている。教師が休むことを見越して宿題をやってこないで、その読みを的中させるとはなんという悪運の強さ。
「ほ、ほほほら言ったろ? ぜぜ絶対今日は来ないって、お、俺のかか勘に間違いはなななないんだよ」
腕を組んで得意げな表情をしているが思いっ切り声が震えていて動揺が隠し切れていない。本当は喜びで叫びたい気持ちを必死に抑え込んでいるのだろう。
「こら、喜ばないの。自習だからといってうるさくしちゃだめですからね。先生隣のクラスで授業しているので、時々様子見に来ますから」
塩谷先生が頬を膨らませて注意する。本人は精一杯怒った表情をしているのだろうが、どうにも見た目のせいで怖さを全く感じない。比較対象が闇金の金子なので仕方ないと言えば仕方ないが。
「じゃあ、先生行きますからね。みなさん、しっかり……あら?」
自分の授業に戻ろうとした先生が何かに気付いて視線を教室の外に向けた。僕の席からはよく見えないが、開きっぱなしだった教室のドアの先に誰かいるようだ。
その人物のもとに塩谷先生がそそくさと駆け寄る。
「芥先生、どうしてこちらに? 1年のクラスは担当されていないはずですが……」
塩谷先生が開いたドアの手前で誰かと話し込んでいる。その口から発した相手の名前を聞いて僕は一瞬体が強張るような感覚を覚えた。
芥。この学校でその苗字を持つのは古文教師の芥善人(あくた よしひと)ひとりしかいない。そして芥先生は僕や円、石上が所属するビショップ組織『陰陽部』の顧問を務めている。その芥先生がこのクラスに用があるとすれば、その相手は間違いなくビショップである僕と石上だ。さらに、ビショップである僕たちに用があるとすればそれは一つしかない。
「……ええ。わ、わかりました……」
少し戸惑ったような表情で塩谷先生がこちらに視線を移す。
「九条くん。石上さん。少しいいですか? 芥先生があなた達に御用があるそうなので」
「あっ、は……はい」
やはりそうか、と僕は返事をしつつ隣の席にちらっと目をやる。石上は特に表情を変えることなく無言で立ち上がり僕を置いてすたすたと歩いていった。慌てて僕もその後を追う。
「やぁ、すまないね。急に呼び出して申し訳ない。授業欠席の手続きはこちらで済ませておいたから安心してほしい」
廊下で待っていたのはやはり僕の知っている陰陽部の顧問、芥先生だった。初めて会った時と同じくよれよれのワイシャツとネクタイで身を固めていて、さらに両目にうっすらと隈ができており年齢以上に老け込んで見える。
思えば毎日部室に足を運んでいたわけでもないし、土曜のイレイズ出現の際には確か本部に呼び出されていたとかの理由で不在だったので、顔を合わせるのは入部して以来の二回目となる。
しかし授業を欠席する必要があるということは、陰陽部がそれほど急を要する事態に見舞われていることになる。
「敵の規模はどのくらいですか?」
諸々の事情を察した石上が単刀直入に訊く。授業の時間を割いてまで先生が直接僕たちを呼び出すのだから、用事は当然イレイズの出現であることは僕にも察しがついていた。しかし前触れもなくいきなりの呼び出しだったので色々と心の準備が出来ていない。
「とりあえず、二人とも部室に来てくれ。詳しいことはそこで話す」
芥先生がそう言うので、とりあえず僕は石上と共に彼の後をついて行くことにした。しかし、普段からくたびれた様子の先生だが今日はいつもの三割増しで疲れ切っているような印象を受ける。
「集まったかい、みんな」
僕たちが学校外れの部室棟一階、陰陽部の部室に到着すると、既に奥村先輩と円がそこにいた。初めて連れて来られた時と状況が似ている。だが、普段から難しい顔つきの円だけでなくいつもニコニコしている奥村先輩も、今日はどことなく神妙な面持ちで目の前のノートパソコンの画面を見つめていた。
あまり想像したくないが、もしかしたら今回は普段のイレイズとはレベルの違う敵が出現したのかもしれない。
部室に入った僕たちを中央の席に座らせ、芥先生がミーティングを開始する。雰囲気はまるで刑事ドラマでよく見る捜査会議だ。一人足りないような気がするけど。
「簡潔に話す。今回出現したイレイズについてだが……ビショップ本部で長期間に渡ってマークしていた個体『上級陸上型イレイズ第25号』の可能性が高いという情報が入った」
「り、りくじょうがた……? だい25ごう……?」
「イレイズに割り振られる大雑把なカテゴリと分類ナンバーのことだよ。ビショップが敗走したり取り逃した場合に組織全体で情報共有を出来るようにね」
急に聞き慣れない単語や数字が話に出てきて困惑してしまった僕に、先生が分かりやすい注釈を挟む。つまり今回の敵は新たに発生したイレイズではなく、別のビショップが取り逃したお尋ね者らしい。
「別の討伐区域から我々の街に移動してきた個体ということだが、今の所の具体的な敵総戦力は分かっていない。が、間違っても君たちがまともに戦ってはいけない相手ということは頭に入れておいてほしい」
「ど、どうしてですか?」
僕は恐る恐る尋ねた。イレイズが野放しにされれば一般市民に犠牲者が出る。本部からマークされた敵ならば尚更早く倒さなければいけない敵のはずだ。
しかし僕の問いに芥先生は苦々しい顔で、小さく呟くように全員に告げた。
「今回の陸上型第25号、先日こいつと交戦したビショップ2名が死亡した。そういう報告が入っている」
「え……?」
死亡。その単語を聞いた瞬間背筋が凍る感覚を覚えた。
今まで僕も戦いで身の危険を感じることは多々あったが円や石上、長谷川先輩などの助けや連携のおかげで結果的には勝利してきたこともあって、その当たり前の事実を忘れていたのかもしれない。そもそもイレイズとの戦いは常に命とやりとりなのだ。ビショップ側にだけは死者が出ないなど、そんな都合のいい話がある訳はなかった。
「先生、敵の居所の割り出し完了しました。第25号はここから少し離れた街外れの廃工場を根城にして、仲間のイレイズを一気に出現させるつもりですね。新たに出現するまでの予測時間は……あとだいたい30分ほど」
ノートパソコンの画面を食い入るように見つめていた奥村先輩が報告する。確か、この街の地下に埋まっている魔鍾結石が街中に漂う魔力の流れをキャッチして出現位置を割り出すと以前説明された。その説明から、僕はイレイズ出現はある種の自然現象みたいなものだと勝手に思い込んでいたが、先輩の口ぶりから察するにその考えは外れていたらしい。
「上級イレイズの厄介なところだな。動物の群れと同じだ。群れの頭目である第25号が出現前の霧散した魔力状態のイレイズを呼び寄せている。その群れが大きくなれば他の街からもイレイズを呼び寄せて手出しがどんどん難しくなるだろう……」
芥先生が顎に手を当てて考え込む仕草を見せる。話をまとめると頭目である25号を相手にするには今の僕たちでは危険が大きすぎる。しかし、だからと言ってこのまま放っておくと手下のイレイズが大量に出現して犠牲者がどんどん増えていく、ということらしい。
これはかなり厳しい状況だ。先生が普段よりもげっそりしているのも頷ける。
「つまり今回あたしたちのするべきことは、その頭目の第25号をうまく避けながら出現した他のイレイズを撃破する、ということで合ってますか?」
「その認識で正しい。難しい任務で済まないがね……」
石上が作戦内容を要約して尋ねる。しかし、25号以外のイレイズは今の僕たちで撃破が可能と言っても出方が不明確なまま敵のアジトに今から乗り込むのだ。予定通り事が運ぶ可能性はかなり低いと言ってもいい。
ただそれ以上に不安なのが、
(円……)
僕は先程からずっと大人しく芥先生の言葉に耳を傾けている円の方にちらりと目をやった。前に石上から聞かされた、人語を話すイレイズと戦った時の彼女の豹変。今回は前回よりもかなり凶悪なイレイズが敵であるが、それを前にしても円が冷静でいられるかどうしても心配になってしまう。
「いっちゃん。もしもの時は自分を守ることを第一に考えて」
円が僕の視線に気付いたのか、優しく忠告した。どうやら円は僕が無理をして危険な目に遭うこと心配しているようだ。確かに僕の実力は円に及ばなく、彼女を守ろうとして立ち回っても逆に足を引っ張ってしまう可能性が高い。
きっと円にとって僕は頼ったり背中を預けられるレベルにはいないのだろう。分かってはいたが、その事実がどうしようもなく歯痒かった。
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