第24話 姉妹(前編)

「変わった……!?」


 僕の身体から噴き出す炎の色に驚いた長谷川が呟く。『黒の力』が発現したのは2回目で、石上と長谷川の二人の前で見せるのは初めてだった。


「先輩! 位置は!?」


 だが今はじっくり説明している時間はない。僕は焦りつつ尋ねた。先程から全身が溶けるように熱く、全身のあらゆる箇所から汗が流れ出ている。常に全力疾走し続けているようなペースで体力を消耗するこの姿は、そう長い間維持できない。

 僕の体力が限界を迎えるのが先か、石上姉が氷の矢を撃ち尽くすのが先か。強力な力を発現させたとは言え、まだまだ予断を許さない状況だ。


「あ、ああ。14時方向の、角度は約35度。狙撃場所は……」


 長谷川が視線をノートパソコンの画面から矢の飛んできた方向に移す。


「あそこだ! あのマンションの屋上!」


 そう叫びながら指差したのは、道路の向かい側のさらに先にある8階建てのマンション。その屋上に小さい人影のような物体が、微かにだが僕も見えた。直線距離は見ただけでも1km以上ある。あんなところから正確にターゲットを弓矢で撃ち抜いてきたのだ。その精度の高さは恐ろしいなんてものではない。


「……行ってくる!!」


 場所を特定した石上が走り出す。彼女が姉の元まで到達するのは数分後、それまで僕はここで持ち堪える。


「先輩、離れててください!」


 僕は背後の長谷川に呼びかけ、黒い炎の蛇を周囲に漂わせた。あの女の矢から守る目的もあるが、僕自身から発される熱も尋常ではなく近付きすぎると周りの人間もどうなるか分かったものではない。


(……来る!)


 長谷川を狙撃することが困難と判断したのか、今度は僕の足元が光る紋章に包まれた。だがこの間と違って寒さは感じなく足も自由に動かせる。『黒の力』を発現させた僕のプロメテの魔力が、石上姉の氷の魔力を上回っているのだ。


「くっ、この……おっ!」


 風を切って飛んできた氷の矢を、僕は蛇を巻きつけた左腕で受け止めた。黒い炎のお陰で傷は浅く、痛みは微々たるものだ。刺さった矢を右手で強引に引き抜くと、氷の矢はいとも簡単にポキンと折れてしまった。

 勝てる。彼女の渾身の一射を受け止めた僕はそう確信した。


(うえぇ!?)


 だが直後、まるで質より量と言わんばかりの無数の矢が僕の立つ場所目掛けて飛来した。雨嵐のように降り注ぐ氷の矢は、アスファルトの地面をがりがりと抉る。生身で受けようものなら、きっと一本でも人を殺せる威力だ。


「九条! もう十分だ! 下がれ!」


 背後で長谷川が叫ぶ。場所の特定は成功したことで僕たちの役目は終わった。だが近くに隠れられるような場所はなく、石上が到着するまでにはもう少し時間がかかる。


「でも、先輩……!」


 狂ったように続く石上姉の猛攻を僕は受け止めるのが精一杯だった。いかに魔力が増幅した『黒の力』であっても、炎の蛇は全身をカバーできるほど大きくはない。


「ぅぐっ……」


 乱射された氷の矢の一本が僕の左太腿を掠め、鋭い痛みが走った。痛みと体力の消耗によって集中力が一瞬途切れる。『黒の力』を維持することが難しくなってきたのか、蛇が纏った炎の色は徐々に赤に戻りつつあった。


「まだだ、まだ……!」


 倒れるわけにはいかない。石上が姉の元に辿り着くまで、もう少し。しかしそれまで『黒の力』は恐らく維持できないし、あの氷の矢を何発も受け切ることも無理だ。

 痛みを堪え顔を上げると、眼前には再び何十本もの氷の矢がこちらに放たれていた。

 この数秒間で、きっと勝負は決まる。僕は身体に巻き付いた黒い蛇に念を強く込め、残る魔力を搾り出した。

 全身に纏いついていた炎が、左手に徐々に集まり大きく膨張する。

 

「おりゃあぁーーーー!!」


 僕はそのままボールを投げるような動作で左手に集まった黒い火球を空中に打ち出した。

 直後、強い閃光が空を覆い一瞬遅れて巨大な爆発が巻き起こった。空気が衝撃波と化し、周囲の電線が大きく揺れる。


(……や、やっ……た……?)


 爆発が晴れると、僕の周囲は静寂に包まれていた。顔を上げれば空は雲一つない快晴で、僕を狙う矢など一本も見当たらない。


「……っ、はあ……はぁ…………」


 急に襲い来る疲労感に、僕はその場で片膝をついた。先程まで僕の身体に巻き付いていた黒い蛇はいつもの赤い色に戻り、弱々しくその場を漂っている。魔力を使い果たして『黒の力』が解除されたのだろう、全身が重く頭がくらくらする。


「逃げるぞ九条! 立てるか?」


 背後から長谷川が僕の腕を掴み持ち上げる。今の爆発で隙が生まれたのか石上姉も魔力が尽きたのか、どちらかは定かではないがあれから氷の矢は飛んでくる気配を見せない。


「は、はい……」


 本当は身体を起こすのも苦しいぐらいだが、逃げるチャンスは今しかない。僕は掠れた声で返事をして、ふらつきながらも立ち上がった。


「ここなら、あの矢も飛んでは来ないはずだ」


 長谷川と僕はその場から少し離れた所にあるコンビニの影に身を潜めていた。


「先輩、石上は……」

「あいつに任せよう。俺たちに出来ることは全てやった」


 狙撃者の場所を特定し、石上が走り出してから15分以上は経過した。今ごろ間違いなく接触は出来ているはずだが、僕の中では嫌な胸騒ぎが治まらないでいた。

 姉を止めると言っていた石上は、何をするつもりだったのか。いったい今、あの場所で何が起こっているのか……


「やっぱり、僕も行ってきます」

「本気か? またあの矢が飛んでこない保証もないんだぞ?」


 長谷川が気遣うように訊き返す。体内の魔力を使い切った今、『黒の力』は恐らく使えない。そんな状態であの氷の矢を受けてしまえば、次は間違いなく耐えられないだろう。

 だとしても、僕は行かなければならないと感じていた。深い理由なんてない。ただ、彼女が心配だった。


「大丈夫です。僕も石上を信じているので」

「お、おい!」


 長谷川の制止を振り切って僕は駆け出した。

 彼の心配とは裏腹に、特定したマンションまでの道中は不気味なほど安全で静かだった。元々魔鐘結界の中では体内に魔力が通っているビショップとイレイズしか存在できないのだから当然と言えば当然であるが、本来戦うべき敵がいない空間はこんなにも静かなのかと改めて実感する。

 マンションの敷地内に辿り着くと、鉄板のドアが壊され無理やりこじ開けられているのを発見した。ノブのあった場所に大きな穴が開けられている形跡から見て、ドアを壊したのは石上で間違いない。一刻を争う事態だったので手段を選んではいられなかったのだろう。僕もそこから侵入し、近くの階段を小走りで登った。


「……?」


 階段を駆け上がる僕の耳に、硬いものを打ち付けるような音が微かに入ってきた。その音は屋上に近付くにつれどんどん大きく、そしてはっきりしていく。その音が何かを殴る打撃音であることに気付くのに時間はかからなかった。

 僕の鼓動が不安でどんどん早くなるのを肌で感じる。


「石上!」


 階段を上りきった僕は焦るように叫んだ。屋上への扉は開放されている。

 その先に見えたのは二つの人影。

 一方が馬乗りになってもう一方の顔面に何度も拳を振り下ろしている。からかってきた相手を小突くような生易しいものではなく、相手を本気で捩じ伏せ、痛め付けようと力を込めた容赦のない暴力だ。その壮絶な光景に、近付いた僕は息を呑んだ。

 殴られていたのは姉の方の石上だった。唇は切れて端から血が流れ、顔面は普段のクールビューティな端正さを微塵も感じられないほど無惨に腫れ上がっている。それでもなお、姉の胴体に跨っている石上は拳を振り下ろすのをやめようとしない。


「石上! ちょ、ちょっと……痛っ!」


 慌てて止めようと僕は彼女の手首を掴み、その拳は勢い余って僕の肩に激突した。そこでようやく冷静さを取り戻したのか、石上が動きを止める。


「……っ……どう、して……っ!」


 石上は肩を震わせて泣いていた。いつも強気で毅然として、他人に弱みを見せまいとしていた彼女の涙。それを僕は初めて目にした。

 だけど、本当は誰も見ていないところできっと彼女は泣いていたのだろう。姉が部室に殴り込みに来た日も、円と奥村先輩が襲撃された日も、こんな風に悔しさと悲しさを滲ませた表情で。


「なんでっ……なんで、こうなっちゃうのよ……! 馬鹿……お姉ちゃんの、馬鹿っ……!!」


 誰だって、こんな結末は望んでいなかったはずだ。居場所を奪われ、友人を奪われ、そして奪った人間は大好きだった実の姉。その姉の顔面を、石上は自分の手で何度も、何度も殴り続けた。


「れ、怜……お姉ちゃんに、向かって……」


 顔面をぼこぼこに腫らした石上姉が呻くように呟く。その痛ましい姿からはパワードスーツ集団を従えていた時のような威圧感はない。

 あれほど憎んでいたはずなのに、今の彼女を見て僕はいっそ「憐れ」とさえ思っていた。


「あんたら、よーやってくれたなぁ」


 揉み合いになっている僕たちの背後から誰かの声がした。僕と石上が反射的に振り返る。


「このジャジャ馬の阿呆にはウチらもほとほと手を焼いておったんやわ。迷惑かけて堪忍なぁ、お二人さん」


 僕が入ってきた屋上の出入り口に誰か立っていた。背格好は石上姉よりやや低い黒の革ジャンパーを着た大人の女性で、口調に強い訛りがあった。腰まで伸びた長い赤髪に遠目からでも分かる青い瞳で、恐らく純粋な日本人ではないだろうことは僕にも分かる。その赤髪の女は目に謎のゴーグルを装着した黒服のスキンヘッドの大男を従えており、黒服はまるで機械のように彼女の背後で微動だにしなかった。


「お、お姉様……ど、どうしてここに……」

「だ、誰…………えっ?」


 僕と石上姉は同時に呟いた。おおよそ彼女から発されたとは思えない単語に僕は耳を疑う。

 あの暴君姉が「お姉様」……?


「『ネブト』の運用試験、おのれがどうしてもやりたいっちゅうから任せたのに適当に好き勝手やりおって……」

「お姉様……で、でも実戦は規定の回数こなしましたし、データもきちんと上に報告して……」


 体に跨っていた石上を押し退けるも、立ち上がる力も残っていないのか石上姉は膝で床を這うような姿勢で「お姉様」と呼ぶ赤髪の女の方に向かう。


「ちゃうねん、重要なのはそこちゃう。おのれ、こないだ『ネブト』を一機壊してくれよったろ。あれな、中身の人間に魔力を流し込むカートリッジが逝ってしもうてな、もう使いもんにならんのや。1コ作んのにもけっこう高いんやで、アレ。アーマーの装甲材も、中身も替えは利きよるがカートリッジだけはあかん」

「そんな……ご、ごめんなさい……お姉様……」


 今まで暴虐の限りを尽くしていた石上姉が、まるで叱られた幼子のように萎縮している様子に僕は唖然としていた。赤髪の女はこんこんと諭すような口調で語りかけるが、声色から感情が一切読み取れず怒っているのか笑っているのかすら分からない。


「ま、そんでも一回くらいは大目に見ちゃろうと思っとったけどな、気ぃ変わったわ。キミらの頑張りに免じてこの阿呆はウチがシバいたる」


 赤髪の女が僕の方を見てカカカ、と笑う。口元と声は笑っているのものの、離れていても感じる鋭い眼光と圧迫感に僕は寒気を覚えた。


「え……お、お姉様……?」


 赤髪の女は戸惑う石上姉に近付くと腰を落として彼女の首の後ろに手をやった。遠目から見ればまるで抱き合っていると錯覚するほど密着した距離。だがその手には小さい判子のような筒状の物体が握られており、赤髪の女はそれをそっと、石上姉の首の後ろに押し当てた。


「っ!?」


 石上姉の身体がびくん、と大きく跳ねる。直後、からんと音を立てて何かが床に転がった。スマホによく似た薄い板状の水色の機械、石上姉のプロメテだ。


「今おのれの体内の魔力情報をリセットした。もうおのれはプロメテの適合者ちゃう、何の力も持たないただの人や」

「…………えっ……?」


 プロメテを拾い立ち上がった赤髪の女が淡々と告げる。


「そん……な……お姉様、どうして……!」


 泣きそうな声で石上姉が赤髪の女に縋り付いた。女のジャンパーの裾にしがみつき、駄々っ子のような素振りで尋ねる。


「私のこと、選ばれし人間だって……! 人の上に立つ価値のある人間だって、そう仰ってくれたのに! お姉様!」

「…………はぁ」


 恥も外聞もなく取り乱す石上姉に、赤髪の女は前髪を指で弄りうんざりした様子を見せた。


「才能だけは認めちゃる。でもおのれの性根は変わらんのや。そういう誰かに依存せんと生きておれん、弱いとこ。おのれの大好きだった『せんせー』に裏切られたこと、ウチがうんうん頷くだけで全部べらべら話してくれよって、そんで今度はウチにべったりや。ほんま敵わんて……」

「か、返して……私のプロメテ、返して! お姉様、お願い……」

「…………おい」


 なおも懇願し泣きじゃくる石上姉に痺れを切らした赤髪の女は背後に立つ黒服の大男にアイコンタクトで何か訴えた。無言で頷いた黒服は強引に石上姉を赤髪の女から引き剥がすと、その腹部を拳で思い切り殴りつけた。


「…………ぅっ!」

「お姉ちゃん!」


 小さく悲鳴をあげ気絶した石上姉に妹の石上が叫ぶ。しかしその叫びなど聞こえていないかのように黒服は石上姉の身体をひょいと持ち上げ、肩に担いでみせた。


「待って! お姉ちゃんをどうするつもり!?」

「別にどうもせんわ。ここに捨て置かれても困るやろ? 処分はウチの方でやっちゃるから安心せな」


 石上の怒声にあっけらかんとした様子で答える赤髪の女を見て、僕は先ほどから感じていた異様さの正体に気付いた。

 中身も替えが利くと言ったり、石上姉を物理的に黙らせた上で「処分」と言ったり、この女は人間をナチュラルに物扱いしている。少なくともまともな倫理観を持った人物ではない。


「まーでも、そこの0号の坊やも面白いもん見せてくれたし収穫としては悪くないってとこやな。わざわざ出向いてやった甲斐はあったわ」


 そう言うと赤髪の女は再び僕の方を見てニヤリと微笑んだ。


「九条、あいつのこと知ってるの?」

「い、いや……」


 石上に尋ねられ僕は反射的に首を横に振った。だが、頭の中で何かが引っ掛かる。

 “0号の坊や”……それはもしかして僕が持つ0号プロメテのことだろうか。だけど、何故僕がそれを持っていることを知っている? それを知っているのは僕に0号プロメテを渡した香月と、その協力者の近江活人。それ以外では……


「……まさか、あの時の……!?」


 思い当たる存在が、一人だけいた。数日前の夜に僕の命を狙って襲撃してきたライダー集団の一人。近江の運転するバイクに単機で追走し、手榴弾の爆発を受けても生きていると言わしめた女ライダー。彼女がその女ライダーと同一人物ならば、その目的は僕の命を奪うことだ。


「ジジイには黙っといちゃる。も少しキミに預けとった方が良いデータ取れそうやし。だからもっとその黒い炎出してくれてぇな、期待しとるで」


 そう意味ありげに言い残すと、赤髪の女は黒服を引き連れて屋上から去っていった。風音もない静かな屋上に僕と石上だけが残され、ただただ長い沈黙だけがその場を支配していた。

 石上姉を退け、陰陽部は守られた。しかし大きなことを成し遂げたはずなのに、少しも達成感がない。それどころか言いようのない後味の悪さだけが僕の胸の奥に残っていた。

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