第2話 命が燃えた日(後編)
目覚めた時、最初に視界に入ったのはよく知っている天井だった。ここは僕の自宅で、僕の寝室で、僕の全身を包んでいるのはいつも愛用している布団だ。いつの間にか寝てしまっていたようだが、どうにも前後の記憶がはっきりしない。何かとても激しい夢を見たような気がする。目の前に怪物と円が現れて、僕も怪物と殴り合ったり蹴り合ったり、よく分からないが激烈バトルをしていた。
「今、何時だろ……」
寝ぼけ眼を擦り、枕元の目覚まし時計を見る。時刻はちょうど朝の6時を回ったところ。上体を起こすと身体のあちこちが軋むように痛んだ。普段から運動をしていた訳ではないが、これはただの筋肉痛とはレベルが違う。筋肉だけでなく全身の骨という骨もズキズキ痛むし、手足には擦り傷や打ち身の痕もあちこち見える。
「もしかして、夢じゃない……?」
カーテンを開けて朝日の光が室内に入り込むと布団の側に、ボロボロに破れて穴だらけになったトレーナーとジャージが畳まれていたのが見えた。気付くのが遅くなったが、今の僕はなぜか下着姿である。
トレーナーの上には真っ黒い小さな板がぽすんと置かれてある。謎の男に昨日押し付けられたプロメテという名前の機械だ。
昨日のその後の記憶が段々と蘇る。夢であってほしいと思うのが普通の人だろうけど、僕にしてみれば半年ぶりに円と会って話もできたし現実でよかったと思うところもあって複雑な心境だ。
「……」
しかし、現実と分かると余計に実感が湧かない。今まで暴力と無縁で生きてきたはずの僕が、どうしていきなりあんな風に戦って、殴ったり蹴ったり出来たのだろう。生き延びるためと言えばそれまでだけど、力を持ったことで僕の隠された暴力的な側面が表に出てきたのもあるのだとしたら、それは何というか怖い。
あいつらを倒すための道具がプロメテだと円は言っていた。それはつまり、プロメテを持つ限りああいった戦いを続けなければならないことと同じ意味ではないのか。
世の中に暴力が好きな人間など決して多くはないと信じているが、ならば円は何のために戦っているのか。考えれば考えるほど、疑問が増えていく。
「そうだ! 円は、あの後どうなったんだ……?」
あの怪物に空中に拐われてから円の姿を見ていないし、そもそも僕もどうやってここまで帰って来たのか分からない。僕も円も、あの出口のない謎の空間にいたはず。結局あの空間も異形の怪物も、プロメテをうちに届けた謎の男のことも、何一つとして分からない。
「ああもう、分かんない。なーんにも、わからない……」
頭をくしゃくしゃと掻きむしりため息をつく。ただ一つはっきりしていることは、
「宿題、やってなかった」
今日の一限まで提出しなければならない数学ノートが消し跡だらけでほとんど白紙ということだ。
「ばっかやろー!! 一緒に片付けようって言ってて結局宿題2倍の居残りじゃねーか!」
「しょ、しょうがないだろあの後色々あってなんも手につかなかったんだって!」
犬飼が机に向かってガリガリとシャーペンを走らせながら悪態を吐く。
放課後の午後4時過ぎ、僕と犬飼は宿題提出に間に合わず数学の金子から大目玉を喰らい宿題の量が倍になる刑に処されていた。クラスメイトがぞろぞろと部活に行ったりや家路につくため教室を去る中、残っているのは僕たち二人だけだ。進捗は芳しくなく帰れるのはいつになるか分からない。
「あ〜4月ってよう、なんかこう『青春』の爽やか甘酸っぱいイベントが目白押しなわけじゃん。別にお前のこと嫌いじゃないけど野郎二人きりで教室居残りってのは寂しいというか勿体ないというか」
「爽やか甘酸っぱいイベントって、あまりピンとこないんだけど」
「そりゃあ可愛いマネージャー先輩に部活勧誘されたり図書室で大人しい文学女子に『この本お好きなんですか?』って聞かれてお近付きになったりとか色々あんだろ」
「いや無理でしょ犬飼そもそもバスケ部だし活字アレルギーなぐらい本嫌いじゃん」
「うるせー俺にはどうせ女っ気0のバスケ部しかない宿命なんだから夢くらい見させろよ」
ぐだぐだ他愛もないやりとりを続けるぐらい僕も犬飼も既に飽きており、昨日の通話の時と同じく式を書いては消し、書いては消しを繰り返している。不真面目にやっているつもりはないのだが、分からないものは分からないのだ。
まぁ、僕が集中できないのはやはり昨日の円の一件もあるのだけれど。休み時間に気になって一回だけ隣の教室を覗いてみたが、学校に来ていないか入れ違いだったかで結局姿を確認することは出来なかった。
「九条、お前帰宅部なんだからもっと他の女子にアクティブになってもいいんじゃねえの。部活とか委員会とか、出会いのきっかけは色々あるんだしさ」
「うーん、でも円以外の女の子にぶっちゃけ興味ないんだよね」
「サラッと言ってのけたなこいつ。そりゃ顔もかわいいし頭もいい子だけどさ、何年もろくすっぽ会話してない女子によくまぁそこまで一直線になれると思ってよ〜」
犬飼との付き合いは長いためその言葉が彼なりの気遣いなのは分かる。でも簡単に諦められるのならサッカーも楽器も始めないしそもそも同じ高校を受験したりもしない。それにろくすっぽ会話していないと言われたが昨日久々に色々話したのだ。半年ぶりに。
「いっちゃん、ここにいたんだ」
口ばかり動かして課題が遅々として進まない教室内に、最近よく聞き慣れた女子の声が響く。
「ま、円!?」
「えっ、円ちゃん? なんでここに!?」
「犬飼くん、久しぶり」
僕と犬飼は同時に振り返って椅子から転げ落ちた。なんとなく近いうちにもう一度会う予感はしていたが、まさか円の方から来るとは思いもしなかった。
「よかった無事で! 目覚めたら家だったし心配してたよ……」
「無事? どゆこと?」
状況をまったく理解していない犬飼が首を傾げる。無言で小さく頷く円の表情は、昨日の夜に見かけた時よりも少し柔らかい気がした。
「今から時間ある? 少し大事な話があるの」
円の大事な話とは、やはり昨日のことだろう。プロメテとあの怪物のこと、少なくとも彼女は何か知っているはずだ。
「ああ、うん。でもごめん、今課題が終わってなくて、しばらくかかりそうなんだけど、いい?」
「九条、お前……」
犬飼が唖然とした顔で僕を見る。
「ばっか。お前3年くらい喉から手が出るほど欲しがってた千載一遇のチャンスを何みすみす逃がそうとしてんだ。居残りなんてやってる場合じゃないだろ!」
「ちょっ……!」
いきなり大きな小声で耳打ちされ、僕は思わず飛び跳ねた。喉から手が出るほどとか千載一遇とか、別に大袈裟ではないが円に聞かれたらどうするつもりだ。それにこのチャンスを天秤にかけてしまうくらい数A教師、通称「闇金の金子」は恐ろしい男なのだ。課題も未提出な上に居残りもずるけたら本当に進級できなくなるかもしれない。
「いいよ。じゃあ私の家で待ってるから、なるべく早く来てね。はい、これ」
そう言って円が鞄から取り出したのはピンク色の大学ノートだ。表紙には『数A 1年2組19番 沢灘円』と書いてある。
「えっ、いいの!?」
「うん。後で返してね」
受け取ったノートをぱらぱらとめくると、テキストの課題の範囲はおろか数十ページ先の問題までびっしりと記載してある。式も答えも完璧でしかも字が綺麗で見やすい。中学の頃から分かってはいたが、円の頭の出来はそんじょそこらの高校生とは違う。
「あ、そうだ」
円が思い出したように鞄からさらに小さいメモ帳用のノートを取り出し、僕のシャーペンで何か書き始めた。
「ここ、私の家の住所と電話番号。昔遊びに来たっきりだから、もし忘れてたらこれ見て。じゃあ、また後でね」
メモ帳を破って僕の机に置くと円は踵を返して教室を出て行った。紙切れには簡単な地図と円のスマホの電話番号が記載されている。あまりにトントン拍子に話が進むものだから彼女が出て行ってからようやく実感が追いついてきた。紙切れを持つ僕の手は震えていた。
僕は今日、好きな女の子のお家に、お呼ばれしたのだ。平日の夜に。あれだけ疎遠だった幼馴染に。
「お、おい九条……お前昨日は円ちゃんと疎遠で話も出来てないってぼやいてたよな」
「う、うん」
「で、昨日の……今日、だよな? あの後、な、何があったんだ?」
「い、色々と」
犬飼が震え声で僕の両肩を揺さぶる。とてもじゃないが他人に言える事情じゃないし第一信じて貰えると思ってもいない。が、それ以上にあまりのことにボーッとして犬飼の話が僕の頭に入ってきてなかった。
「九条……そうか、お前……うん、やったな……」
「うん。やった……!」
一人でに何か納得した犬飼が何故か涙ぐむ。僕もなんだか涙が出てきた。こんなにも親身になって話を聞いてくれて、一緒になって喜んでくれる友人を持って僕は幸せだと思う。
「そうとなりゃさっさと終わらせるぞ九条! そして急げ! 円ちゃんの家に!」
「いえす、さー!」
「闇金の金子がなんだ! お前の愛をあいつに叩きつけてやれ!」
「おーー!!」
「あ、俺もノート見ていい?」
「いいよ!」
興奮のあまり僕と犬飼は変なテンションで課題に打ち込んだ。頭の中にあるのは円の家でテーブルを囲み愛を語らう甘ったるい妄想。夢にまで見た、意中の女子と二人きりのシチュエーションだ。
まぁ後になって思えば、そんな妄想はガラス細工のように粉々に破壊され跡形もなく吹き飛ぶような話を聞かされることになるのだが、この時の僕には知る由もなかった。
今日、僕は世界の本当の姿を知ることになる。
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