第3話 覚悟の夜(前編)

「ううう、いざ目の前にすると緊張するなぁ……昔はよく遊びに行ってたのに、なんでだろ」


 時刻は18時を過ぎて完全に日も落ちた頃。この日僕は10年間片思いしていた幼馴染の女の子の家にお呼ばれし、そして今マンション入り口のオートロックパネルの前で立ち往生していた。

 円は父親が海外で技術職をしていてかなり偉い地位の人らしく、この街で最も高級なタワーマンションの9階が彼女の家だった。円に兄弟はおらず、母親と二人暮らしのはずだ。彼女の母親は口数は少ないが優しい人で、僕も昔お世話になった記憶がある。

 

「あの、入りたいんでどいてもらっていいですか?」

「あ、すみません……」


 円の部屋番号907号室のボタンを押すか押さないか迷っていると後ろから女性に呼び止められた。このマンションの住人だろう、高そうなニットウェアとタイトスカートに身を包んだ気難しそうなマダムだ。慌てて僕がその場から離れるとマダムはカードキーを差し込み自動ドアが開いた。


(大きくなってから改めて見比べると、生活レベルが色々違うのが分かっちゃうな)


 僕の住むボロアパートは築30年の2階建の2LDK。たまに帰ってくる父親と二人暮らしの家賃月56000円だ。去年ドアの建て付けが悪くなりそこだけリフォームした。片や円のマンションはやはり金銭的に裕福な人が住む傾向にある。

 とにかく、ここで突っ立っていても人様に迷惑をかけるだけなので早いとこボタンを押して開けてもらうしかない。

 

「よ、よし。押そう」


 きゅう、まる、なな、呼び出し。ゆっくりぎっしり確実に僕はボタンに指をやる。ぷるるる、と待機音が鳴り僕は息を呑んだ。


『いっちゃん?』

「あ、う、うん。来たよ。遅くなってごめん」

『今、開けるね』


 呼び出しに出たのは円だった。パネル内の画面から彼女の顔が写り一瞬僕の心臓が跳ねる。部屋着の円はやはりとびきり可愛かった。無意識ににやけていないか心配になる。

 円が向こう側でボタンを押すと自動ドアが開き、僕はぎこちない動きで中に入った。その後はロビーを横切り大きなエレベーターに乗って9階まで登る。エレベーターの窓ガラスに映る僕の口元は少し緩んでいて、誰も乗り合わせてなくて本当に良かったとこの時僕は思った。

 ついに907号室のドアの前に立つ。またもインターホンを押そうとする僕の手は震えていた。しかも妙に汗ばんでいる。


「いらっしゃい。いっちゃん、入って」

「ひゃっ!? は、はい。お邪魔します……」


 インターホンを鳴らす前に円がドアを開けた。彼女からしたら最初から来ることが分っていたので当然といえば当然であるが、予想外のタイミングで開けられて間抜けな声が出てしまった。


「あれ、いっちゃん。それって……」


 円が僕の手に持っていた紙袋に気付く。中身はここに来る途中にケーキ屋に寄って買ってきたシュークリーム。昔と変わっていなければ、円の一番の好みのお菓子のはずである。1個400円と少し値が張ったが、円の家に手ぶらで行けるはずがないので必要経費だ。


「シュークリーム。円、昔から好きだったから喜ぶかなと思って」

「あっ……そ、そうだったの。うん、嬉しい……ありがとう」


 円がいまいち喜んでいないような微妙な表情を浮かべる。


(あれ? なんか予想してた反応と違うぞ)


 玄関で靴を脱いで彼女に案内されるまま部屋の奥に進むと、その理由がだいたい分かった。生地が焼ける甘く香ばしい匂いが廊下にも漂ってくる。ゴゴゴゴ、と何か機械の動く音も聞こえるので、恐らくオーブンの回る音だと思われた。


「もしかして、お菓子か何か作ってた?」

「うん。趣味だから……」


 失礼ながら意外だと思ってしまった。小学生の頃は男子と混ざって鬼ごっこしたり虫捕りをしていた印象が強かったので、その頃と比べたらやはり変わったなと感じる。

 廊下の一番奥の扉を開けた先はリビングだった。ほぼ同時にオーブンのチンという音が鳴る。

 

「そこで少し待ってて。椅子に鞄置いていいからね」


 円に促されるまま、リビングのテーブルチェアに座る。リビングはキッチンとカウンターで繋がっており、天井も高く広々とした空間だった。

 だけど、妙に殺風景である。壁にはカレンダーもポスターもなく、壁際ある台に置かれたテレビ以外に物という物が置いてない。昔見た記憶のあるソファや本棚、観葉植物などは綺麗さっぱりなくなっており、何かがそこに存在したかのような不自然な空間が部屋のあちこちにある。

 好きな子の家に来て落ち着かないだろうなと予想はしていたが、何だか別の意味で落ち着かない。


「お待たせ。今出来上がったところなんだけど、食べてみる?」


 両手にキッチンミトンをはめた円が金属のトレーをテーブルに置く。そこにいくつも乗っていたのはきのこの傘のように小麦粉の生地が膨らんだ香ばしい香りを放つ洋菓子、シュークリームだ。


「被っちゃった……」

「ご、ごめんね。何かタイミング悪かったみたいで。私、いっちゃんが買ってきた方をいただくね」

「い、いや円が謝ることなんてないよ! こっちこそ買う前に電話で聞けばよかったし」


 円が申し訳なさそうに両手を合わせる。思いつきで口走ってしまったがあの時円に電話をかける選択肢は僕にはたぶんなかった。かけるまで緊張で時間を要する上にテンパって醜態を晒すのは目に見えているからだ。


「シュークリーム、3個……?」

「あ、うん。僕と円と、円のお母さんのぶんのつもりだったんだけど」

「そっか……」


 キッチンミトンを外して紙箱を開けた円の、困ったような笑顔が一瞬消える。その反応を僕は訝しんだが、この部屋に入った時に感じた違和感の正体がようやく分かったような気がした。

 円の母親の姿がどこにも見当たらないのだ。今の時間働いていたり偶然出かけているだけというのも考えられるが、目につく日用品や家具の少なさからまるで円以外にこの家に誰も住んでいないような、そんな感覚がしていた。

 何か複雑な事情があると思い、それ以上は口を噤んだ。


「い、いただきます」

「うん、どうぞ」

 

 テーブルを挟んで向かい側の椅子に座る円の前で、僕は彼女の作ったシュークリームに、なるべく上品にかぶりついた。


(ふ、ふわあああ……)


 その味は一言で例えるなら、常識を超越した美味さであった。出来立てで暖かくサクッとした外側の生地は小麦粉ベースだがナッツの風味でほんのり甘く、それに続いて濃厚なクリームのコクが津波のように押し寄せてくる。食べ比べる前からわかり切ってしまったが、僕の買ってきたシュークリームでは弱すぎる。ケーキ屋さんには申し訳ないけど。


「今から大事な話をしたいんだけど、聞いてくれる? 食べながらでいいから」

「は、はい」


 口の端にクリームをつけながら僕は頷いた。そう言えば忘れかけていたが、今日ここに僕は円と真面目な話をしに来たのだ。主にうちに届いたプロメテという機械と昨日の夜に怪物と遭遇したことなどを。


「とりあえず、昨日はありがとう。いっちゃんのお陰で私も危ないところを助けられたね」

「あ、いや、そもそも先に死にかけてたのは僕だし、礼を言うのは僕の方だよ」


 昨日の怪物に襲われた時、円が助けに来てくれなかったら僕は想像を絶するほど酷い殺され方をしてグロテスクな死体になっていたことは間違いない。今目の前にいる幼馴染は誇張抜きで命の恩人だ。


「でも良かった。あの後円も無事にあいつをやっつけられたんだよね。僕はあの後ぶっ倒れちゃったから、最後どうなったら分からなくて……あ、もしかして僕を家に運んだのも円?」

「うん。家の場所は知っていたしズボンのポッケに鍵入っていたから」


 さも平然と言ったが、それはつまり円は倒れた僕をおんぶして家まで歩いて布団に寝かせたということだ。しかもボロボロの上着とズボンを脱がせて下着姿でだ。思い返すとめちゃめちゃ恥ずかしいんだけど、円はそうでもないのか。


「そ、その節はどうも」


 しかしまぁ、結果としてまたも助けられたのは事実だったので小さく頭を下げる。円が男の僕を担いで長距離を移動したことについてはそれほど疑問は湧かなかった。それはそのはず、プロメテによって強化されたとは言えあれだけ凶悪な怪物を軽々倒せるパワーの持ち主なのだから、素の円でも僕を運ぶくらい苦にならないだろう。その時意識がなかったことが悔やまれる。


「たぶん、今いっちゃんは私に聞きたいことがたくさんあると思うんだけど、それより先に私の質問に答えてほしいの」

「う、うん……」

「いっちゃんの持ってるプロメテ、昨日うちに届いたって言っていたよね?」

「い、言いました」

「その時プロメテについて使い方とか、何のための機械だとか、届けた人に説明はされなかった?」


 円に尋ねられ僕は昨日の夜の記憶をじっくり辿ってみる。全身黒スーツの謎の男は届ける、というか押し付けるように強引に僕に渡すとサインも判子も貰わず風のように去ってしまった。結局あの男は何者だったのだろう。


「僕に届けた男は『流行りのガジェット』とか、『適合した人でしか起動しないから危ないやつじゃない』とか、何とか言いくるめようとしてた」

「それが真っ赤な嘘だったことは、今なら分かるよね?」

「それは、わかる」


 僕ははっきりと頷く。あの後すぐに謎の空間に迷い込み、怪物に襲われプロメテの力を使って何とか撃退した。誰かが何も知らない僕を戦いに巻き込もうとしているのは間違いない。


「そもそも、あの怪物はいったい何だったの。プロメテのことも、円は知っているみたいだったけど」


 ついに僕は一番疑問に思っていたことを口にした。ついさっきまで人だったものが怪物に変わる瞬間をこの目で見てしまったので、どんな超常現象の存在も今なら信じるしかないと思っていた。


「あれは、イレイズ。いつの間にか人間と入れ替わって私たちの社会に紛れ込んでくる、怪物……化け物だよ」

「イレイズ……そういう風に呼ばれてるんだね」


 僕はその時初めて怪物の名前を知った。イレイズとは確か「消す」とかいう意味の英語だったと思う。人が知らないうちに怪物に置き換わって元の存在が消えてしまうからイレイズなのだろうか。


「あいつらがどこから来て何のために入れ替わるのかそれは分からないけど、世界中の至るところで人が行方不明になって数日後に急に帰って来る事例が報告されているの。そして、イレイズが擬態している人間は全員、過去に行方不明になったことのある人たちなの」

「じゃあ、もしかしてその人たちは行方不明になってる間に……?」


 人が行方不明になるのは事件に巻き込まれたり家出したり、色々な事情もあって昨今特別に珍しいものでもない。イレイズによって行方不明になった人とそうでない人との判別は普通の人には恐らくつかないと思う。


「あいつらはそうやってその人間と入れ替わって、時が経てば他の人間に、また他の人間に次から次へと存在を乗っ取って多くの人間を消しているの。犠牲者の数は、とても数えきれないぐらい」

「知らなかった……そんな大変なことになっていたなんて」

「たぶんいっちゃんや私たちが生まれるずっと前から、あいつらは人間の中に入り込んでいたんだと思う。自分の知ってる人が、大事な人がイレイズになっていることに、みんな気付かないでいる」


 覚悟はしていたが、まさか世界規模で恐ろしい敵が存在しているとは考えもしなかった。しかも普通の人間の姿をして社会に潜んでいるイレイズに、警察や軍隊で何とかできるとは到底思えない。それどころか、公にその存在を認めてしまったら世界中は大パニックだ。


「プロメテは、人間の力でイレイズを倒すために作られた機械なの。機械内部で生成された魔力を注入して肉体を強化、でもそれは副産物で本来の機能は私の光の剣のように大気中の物質に干渉させて……」

「ま、待って円。魔力ってその、いわゆる魔法の力って奴?」

「うん。地域や時代で呼び方は色々あるみたいで、『神通力』とか『妖力』とか言われていたとこもあるみたい。科学的な仕組みとかは、私もよくは知らないんだけどね」


 魔力。いきなりファンタジーな単語が出てきて思わず聞き返してしまった。確かに円のレーザー光線の剣や僕が使った炎などは魔法の力とでも言わなきゃ説明もつかないが、改めて言葉に出されると飲み込むのに時間がかかる。そして絶対にそれは科学で説明が付くものではないだろう。

 しかし、その「魔力」なる力が「妖力」と同じものされているならば、太古より伝承に出てくるような日本の「妖怪」や西洋の「悪魔」も実はイレイズだったのではないかと思えてきた。昨日までオカルトの類を信じてはいなかったが、それなら存在を納得できるような気もする。


「そして、私やいっちゃんのようにプロメテに適合した人は『ビショップ』と呼ばれるの。もっと正確に言うなら、それを使って戦う人たちのことだね」

「ビショップ……」


 ビショップとは確かチェスの駒の種類だったはず。何を意味するかは忘れたが、恐らく魔法使いとかそういった類の役職のことだろう。

 イレイズ、プロメテ、ビショップ。重要なキーワードはこれで出揃った気がする。

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