第12話 決意(前編)

(ここ、どこだ……?)


 目覚めた時、僕は何処かのベッドで寝かされていた。自宅ではないが、微かに見覚えのある天井。壁越しからは同年代の少年少女たちのざわざわとした喧騒が聞こえてくる。

 上体を起こして確認すると今の僕の格好は、上はいつものワイシャツで下は普段の学生服のズボンだった。視線を右上に向けるとハンガーにはボロボロに汚れた制服の上着が掛けられており、僕の寝ていたベッドの周囲は薄いカーテンに仕切られていた。


「いっちゃん。よかった……」

「円……?」


 そのカーテンをそっと開けて、円が僕の様子を覗きに来た。彼女のほっと胸を撫で下ろしたような声から、ようやく前後の記憶がはっきりする。

 僕たちは『上級イレイズ第25号』に敗北した。死力を尽くして戦ったつもりであるが、圧倒的な力の差を前に成す術もなく叩き潰されてしまった。命からがら魔鍾結界を解いて緊急脱出に成功したが、もしかしたら今僕たちが生きているのは幸運なのかもしれない。


「ここって、学校?」

「うん、保健室。時間はもう放課後だけど……」


 どうりで見覚えのある天井だと思った。学校を出てからかなり長い時間が経過したような気がするが、魔鍾結界の中では時間が数万倍に引き伸ばされていたため現実の時間はそれほど経過していない。今が放課後ということは、それだけ僕は長い時間眠っていたことになる。


「そうだ……石上は? みんなどうなったか、知らない?」


 あの場では陰陽部のビショップ全戦力が揃っていた。僕と円、石上と長谷川先輩。石上は僕の目の前で25号によって投げ飛ばされ、アスファルトの地面に叩きつけられた。少なくとも無傷では済まなかったのは確かである。だが、彼女は今この場にはいない。


「怜ちゃんは……」


 僕の質問に円は辛そうに目を伏せ、言い淀むような仕草を見せた。数秒間の間を置き、ゆっくりと口を開く。


「怜ちゃんと先輩は……病院。命に別状はないらしいけど、入院が必要な大怪我だって。様子を聞きにユミ先輩も今は病院に行ってる」

「えっ!? は、長谷川先輩……も……?」


 ベッド近くに置いてあったパイプ椅子に座り、円がことの顛末を話し始める。


「最初に25号と戦ったのは……私たちなの。急にあいつが先輩の後ろに現れて、私が気付いた時にはもう……遅かった」


 長谷川先輩は自身のプロメテの能力で生成した銃火器を用いての狙撃を得意としている。前回イレイズと戦った時に見せた彼の音を察知する速さと狙撃の精度は、並ぶ者がいないぐらい優れていると僕は自信を持って言えた。その先輩が背後に回られ反撃をする間もなくやられたということは、25号の強さがそれだけ僕たちの想像を超えていたということだ。

 僕が殺されかける寸前だったあの時に円が現れたのは、恐らく瞬間移動並の速さで移動した25号を追いかけていたからなのだろう。


「いっちゃんは目立った大怪我もなくて骨にも異常はないから大丈夫って先生が言っていたけど、それでもずっと目覚めなかったから心配だった」

「目立った大怪我もない……って……」


 そんなはずはない、と言おうとしたが僕はその言葉を飲み込んだ。いつも僕の身体から這い出てくる炎の蛇が25号によって引きちぎられたあの瞬間、今まで体験したことのないような激痛が全身を駆け巡ったことは覚えている。だが、今はその痛みはなく手足に擦り傷のちょっとした痛みがあるぐらいだ。


(なんだったんだ……? 何が起こっていたんだ……?)


 あの時の激痛を思い起こす度に金子の容姿をした25号の、醜く顔を歪めてにやついた表情が脳裏にちらつく。

 芥先生の言った通り、あれは僕たちが戦うべき相手ではなかった。ビショップは人間側でイレイズに拮抗できる唯一の存在で、全員で力を合わせれば撃破できない敵はないと今まで信じて疑わなかった。

 しかし今日対峙した25号の、僕と石上を歯牙にもかけず捩じ伏せたあの圧倒的な力。人間の姿を維持したままであれだけの戦闘能力があるのならば、本来の怪物の姿になった時にどれだけの力を発揮するのか想像もつかない。少なくとも、今の僕たちの力で倒せる見込みは皆無だ。

 

(なんで)


 勝てそうにない敵が現れることぐらい、僕にだって予想は出来ていた。そもそも今までだって敗北寸前に追い詰められたり命の危険を感じたことは幾度となくあった。その度に円や石上、長谷川先輩に助けられきたからなんとかなってきただけであって、今回は偶々そうならなかった。それだけのことである。


(それなのに……なんで僕、こんなに怯えているんだ……?)


 この手でイレイズを殴りつけた感触も、殴られた痛みもしっかり記憶に刻まれている。ビショップの戦いが命懸けなことぐらい、初めてプロメテを手にしたあの日から分かりきっていた。それを承知で戦いに飛び込む覚悟をしたことも、嘘じゃない。

 だが、何故今になって僕はこんなにもイレイズを恐れているのか。痛みと恐怖だけが、ただ頭の中に残る。どのような思考で敵と相対しどのように倒してきたか、その記憶だけがすっぽり抜け落ちたように思い出せない。


「……いっちゃん?」


 何か様子の違いを感じ取ったのか、円が心配そうに僕の顔を覗く。自分でも気付かなかったが、掛け布団の中で僕の手はガタガタと震えていた。今ここで何でもないと取り繕っても、それが痩せ我慢であることは誰にでも分かることだろう。

 出来ることなら彼女の前で弱音を吐くのは避けたかった。が、聡い円の前で隠し通すことはきっと無理だ。


「自分でも、びっくりしたんだけど……怖いって……思った。あいつに石上がやられて、きっと次は僕の番なんだって……あの時、本当に『死ぬかも』って」

「うん……」


 円はまるで僕の話す内容を最初から分かっていたかのようにただ頷いた。


「あいつが目の前に現れた時は、倒したいって……思ったんだ。知っている人の姿をしていたからとか、そういうんじゃないんだけど……芥先生から聞いていたように、人の命を本当に何とも思わないような血も涙もない奴だったから」


 人間が動物を狩猟することで生きてきたように、イレイズも生きるためにやむを得ず人間の存在を乗っ取ってこの世界に顕現していたのだとしたら、こんな怒りの感情は抱かなかったかもしれない。

 しかし25号は明らかに遊びで僕たちを痛めつけていた。人の姿を纏い、人の言語を使い、しかし価値観だけは決定的に違う。思い返せば25号だけではなくそれ以前に遭遇してきたイレイズもまた、人間の僕たちに対して口汚く侮蔑の言葉を浴びせていた。彼らにとって恐らく、人間はただの獲物でしかない。


「でも、あいつは……25号は、少し本気を出したら僕たちを捻り潰すくらい簡単で、踏みつけてきた時の楽しそうな笑い声を思い出すだけで……動けない。今さら何言ってるんだろうって……お、思う……けど」


 絞り出すように恐怖の感情を吐露する。戦う事が、命のやり取りが、こんなにも恐ろしいことになぜ今まで僕は気付かなかったのだろう。覚悟はあの夜にしていたはずなのに。円に「一緒に強くなろう」と言われて浮かれて舞い上がっていたのはどこの誰だったか。


「それが普通だよ。戦う事や、傷付く事が怖くない人なんて……いないもの」


 しかしそんな僕の泣き言に対して円は笑うでも怒るでも、まして軽蔑するでもなくただ頷いた。だが、その声色からはどこか安堵したような穏やかな印象を受けた。


「本当のところを言うと私、ちょっとだけ安心した……かな。あの日からいっちゃん、そういう素振りずっと見せてこなかったから……なんか、私の知ってるいっちゃんとどこか違うような気がしてた」

「えっ? ど、どうして……?」


 彼女の予想外な反応に僕は少し狼狽えた。円の知っている僕ではないというのは、いったいどういうことだろうか。


「いっちゃんは、どうしてすぐに戦う気持ちになれたのかなってずっと不思議だったの。私だって最初のうちは怖かった……ううん、たぶん今でも怖いって思う。それなのに、昔はいつも私の後ろについてきててちょっと頼りなかった、あのいっちゃんが……って」

「うっ」


 小さい頃から「ヘタレ」だの「チキン」だの言われてきたので多少なりと自覚はあったのだが、好きな女の子に直接告げられてしまうと流石に心に刺さる。そうか、やはり円にも僕はそういう印象を持たれていたようだ。


「で、でも怖いって言ったって円はずっと戦ってきたでしょ? 僕がイレイズに襲われた時にだって助けてくれた」


 初めてイレイズに遭遇したあの夜のことは恐らく僕の記憶から一生消えることはない。彼女が現れる直前、僕は本当に死を覚悟していた。そして始まったビショップとイレイズの戦い。命のやり取りを制し、イレイズを撃破した彼女。怪物を相手に一歩も引けを取らないその強さと勇敢さに、僕はずっと憧れていた。


(それに……)


 きっと円は覚えていない。小学校に入学した約10年前、上級生にいじめられていた僕を救い出してくれたのも彼女だった。自分より体が大きくしかも男子である上級生に掴みかかり、コテンパンに制圧した。

 その時衝撃だったのが、相手の上級生は大泣きし、彼女は最後まで笑顔を崩さなかったことだ。服が泥で汚れたりあちこち怪我もしたのに、円は倒れた僕に笑顔で手を差し伸べた。

 円に初めて出会ったその日から、僕にとってのヒーローは彼女になったのだ。


「私は……あの時いっちゃんを助けようと戦ったわけじゃない。単にイレイズを……目の前の敵を斬って、そこに偶然いっちゃんがいた。それだけのことだよ」


 物憂げに目を伏せて円が小さく呟く。あの頃の彼女と今の彼女の決定的な違い、それは笑顔だ。純粋に心から笑った円を、僕はもうずっと見ていない。母親を失い、殺伐とした環境に身を置いていたのだから当然なのだけど、僕にはそれがどうしようもなく辛かった。


「いっちゃんは私とは違うから。もともといっちゃんは巻き込まれただけで、命懸けでこんな怖い思いまでして戦う理由なんてないんだよ」

「理由が……ない?」


 信じられないような言葉を口にされて思わず聞き返した僕に、円は静かに頷いた。

 確かに僕には円のように肉親を奪われるような体験をしたわけではなく、この世からイレイズを全滅させるという使命感を持っているのでもない。それでも戦う理由はあったと思っている。それは言うまでもなく目の前の少女、円だ。

 彼女を守りたいなんて、そんな大層な願いがあったのではないけど、せめて少しでも助けになりたかった。それは、命を賭けて戦うだけの理由としては不足だったのだろうか。


「もちろんいっちゃんが軽い気持ちで『戦う』って言ってくれたんじゃないってことは分かっているよ。でも、今回のように私たちの命を簡単に奪えるような力を持った敵は、きっとこれからも現れる。いつ殺されるかも分からないのに、そうまでして戦いを続けるなんて普通の人なら出来ないよ」


 傷つけないようにと言葉を選んで諭す円の優しさが、僕には痛かった。あの夜の僕だったら「それでも」と食い下がっただろう。しかし今の僕は戦いの本当の厳しさを知り、死ぬことに怯えている。何を言っても説得力はない。

 

「じゃあどうして、円は戦えているの? 普通の人と……いや、僕と円で……いったい何が違うって言うの?」


 訊かなくたって、そんなことは分かりきっていた。彼女には僕にはないイレイズに対する怒り、憎悪がある。だが、どうしても言葉に出さずにはいられなかった。なぜ怒りや憎しみが、恐怖すら打ち消して戦うだけの強い理由付けになり得るのか、それを僕は知りたかった。


「私は……自分でも、よく分からない。戦うことでしか満たされない何かが、私の中にあるんじゃないかって、ずっと思ってる」


 しかし円の答えは僕の想像していたものと少し違った。頭の切れる彼女にしては珍しい抽象的でふわっとした答えだ。


「よく分からないって……円はイレイズが憎いから、今まで戦ってきたんじゃないの?」

「それはもちろんあるよ。あいつらはお母さんの仇だもの。でも、きっとそれだけじゃない。お母さんが、お母さんじゃなくなったあの日から私の中にずっと気持ち悪い『何か』があって……人に化けたあいつらを見ると、自分が抑えられなくなる。それを単純に憎しみと言っていいのか、私には分からないの」


 椅子から立ち上がった円は窓際のカーテンを少しだけ開き、内に抱えた感情をぽつりぽつりとこぼし始めた。

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