第25話 心の場所《後編》
その日の帰り道、僕は円と一緒に帰路についていた。6月の天気らしく、空は昼間から厚い雲に覆われて夕暮れ時には強めの雨に変わっていた。
「……明日も一日雨だって。しばらく走るのは難しそうだね」
「うーん、そっか」
二人で傘を差しながら信号待ちをしている最中、スマホの画面を眺め円が呟いた。ビショップとなってから、僕と円は「修行」の名目で度々街中を走ったりしていたが、スポーツ万能で日頃から動くことが大好きな彼女と違って体力のない僕は合わせるだけで精一杯だった。円と一緒の時間も減ってしまうのは残念だが、少しほっとしてしまう自分もいる。
「でも、そろそろ中間テストも近いから丁度いいかもね。いっちゃんは勉強の方、大丈夫?」
「うっ」
軽い世間話のつもりだったのだろう円の問いかけに僕は軽く言葉に詰まった。
「まぁ……うん。大丈夫、だと思う。そこそこは」
もちろん嘘である。別のクラスである彼女は知る由もないが僕は小テストの点数はクラスで最下位争いをするくらいには悪く、毎日の宿題だっていつも提出はギリギリだ。当然授業にだってほとんどついて行けていない。
そもそも僕たちの通う室星学園高校は県内でもかなり偏差値の高い高校で、そこに入ってくる生徒は元々勉強でもスポーツでも優秀な人間が大体だった。それでも色々と平凡な僕がこの学校を選んだ理由は、昔から片想いしている円と一緒の高校に行きたかったからというなんとも不純なものである。
「そっか。私はちょっと不安かも。ユミ先輩の言ってた映像研のお手伝いもあるし、勉強する時間とれるかな」
少し浮かない表情で円が呟くが、彼女に限って勉強に心配はないだろうと僕は思った。以前一度だけ円の数学のノートを見せてもらったことがあるが、先生が教えるより数段分かりやすく公式や応用問題がすらすら書かれていた。
「……映像研って、具体的に僕たち何するんだろうね。やっぱ裏方でカメラ持ったりとか、小道具製作とか?」
当然ながら僕たちは映像の製作技術なんてないズブの素人なので、手伝えることなどたかが知れている。先輩はいったい僕たちに何をやらせるのだろう。
「分からないけど、でもちょっと面白そうだよね。あ、青になったよ」
円が遠くの信号を指差し、渡ろうと促す。向かいの方からもぱしゃぱしゃと水を踏む音を立てて小さい子供や大人の男が数人歩いてくる。
「……円?」
横断歩道の真ん中に差し掛かった時、傘を落とし円の動きが急に止まった。直後、彼女は何かを察したのか勢いよく振り返り今すれ違った男の一人を凝視する。
その表情は、さっきまでとは違い緊迫したような険しいものに変わっていた。それが何を意味するか、僕は知っている。
「円、まさか……!?」
僕たちビショップの中で、円だけはイレイズの存在を気配で探る能力があった。ビショップが力を行使するための機械『プロメテ』、彼女が持つその最新型にのみ組み込まれた機能らしい。もしイレイズの気配を察知したのだとしたら、今すれ違った人たちの誰かに擬態している可能性が高い。
「……分からない。一瞬だけそんな気がしたんだけど、すぐ何も感じなくなっちゃった」
傘を拾い上げ、すっきりしない表情で円が口を開く。
「一瞬だけって……今までそんな事ってあったっけ」
「ううん、少なくともイレイズが現れる時は気配はずっと前から感じてた。それも遠くにいる時でも」
本来イレイズの出現とは、イレイズが放つ魔力というものに街の地下に埋め込まれた魔鐘塊と呼ばれる特殊な物質が反応し、それを読み取ることで僕たちビショップが初めて場所を特定できるというものだった。もしイレイズが出現しているなら、円だけでなく街中の魔鐘塊を管理している奥村先輩からも連絡が来るはずだ。
それでも納得いかないといった様子の円は、制服のスカートのポケットからスマホによく似た形状の機械『プロメテ』を取り出し、自身の左手にかざした。
『……承認されました』
頭の中に機械音声が流れた瞬間、周囲が無音の空間と化した。音だけではなく、さっきまで歩いていた人も信号待ちしていた車の中の人も、忽然と姿を消している。今この場にいる人間は、僕と円だけだ。
これが魔鐘結界。身体に魔力を通す者以外を排除し、時間を数万倍にまで引き延ばした空間である。ビショップは基本的にこの空間の中でしか能力を行使できない、イレイズを捕えるための檻であり僕たちが戦うための領域だった。
「……いない。やっぱり気のせいだったみたい」
何度か辺りを見渡した後、円が小さく謝罪する。僕としても、いつも冷静な円らしからぬ行動に引っ掛かりを覚えたが、その彼女が言うのだから追及はしなかった。
『……解除します』
円は結界を開いた時と同じようにプロメテを手にかざした。直後、機械音声が響いたと同時に往来に人が復活する。
「わっ!」
すぐ近くでクラクションが鳴り、僕は小さく跳ねた。音のする方向を見ると車の運転手の男がこちらを睨みつけている。どうやら今の間にすっかり信号は赤に変わっていたらしい。
「ごめん。行こ」
僕の手首を軽く掴み、円が走り出す。
信号を渡り終えて僕の家も近くなってきたが、彼女の顔つきはあれからずっと曇ったままだった。
「……円、さっきのって……」
「気にしないで。私の思い違いだから」
少しだけ突き放すように、素っ気なく円が答える。こういう時、彼女は一人で抱え込みがちなのを僕は理解していた。
イレイズは人の姿に擬態し社会に潜む怪物だ。そして、その擬態元となった人間は行方不明となり二度と戻って来ることはない。やがてイレイズは一人、また一人と人間の身体を経由しながら命を繋ぎ、その度に多くの人間が犠牲となる。
円の母親も、その犠牲者の一人だった。大好きだった母親を奪ったイレイズをこの世から全て滅ぼす。途方もない道のりだが、それが彼女の戦う強い動機であった。あの時すれ違ったのが本当にイレイズだったら、と円はずっと考えているのだろう。
「……時々、考えちゃうの。私たちが戦うことで助けられる人なんて、本当に僅かなんだなって。戦う力を持っていても、イレイズの犠牲になる人をゼロにはできない」
虚空を見上げて、無表情のまま円がぽつりと呟く。
「私はただイレイズを斬って、倒して、ひたすらそうして自分の手の届く範囲を精一杯やれればいい。それで一人でも救われる人がいるならって、そう思ってた。でも、自分の手の届く範囲って思ったより全然広くなくて、自分の力じゃ守れないものがまだまだたくさんあって、大事な人を失う怖さはこの先もずっと抱えていかないといけないのかもしれない」
彼女の言葉に、僕は胸の奥がずしんと重くなる感覚を覚えた。大事な人を失う怖さ。それは僕がこの間経験したことだ。
円が目の前で撃たれ、何もできなかったあの無力感。彼女を失ったまま生きていかなければならない未来を思い浮かべた恐怖。僕や円が戦い続ける限り、その感情はきっと避けては通れない。
「だから、みんながいるんでしょ?」
「えっ?」
でも、円は一人で戦っているわけじゃない。これだけははっきり言えた。
何のためにビショップがこの街に集められたのか。大人が考えた複雑な事情は知らないが、意味があるのだとしたらきっと一人で全てを抱えないためだ。悲しさも恐怖も、無力感も。
「たぶんさ、みんな集まっても全ては救えない。でも一人じゃ悲しいことに潰されそうな時もそれを分け合うみんながいれば、何とか乗り越えられる。僕はそう思うよ。だから円が全部抱える必要なんかないんだ」
陰陽部の仲間、石上も奥村先輩も長谷川も、芥先生も、戦う力を持っていたとしてもその中身はみんな普通の人間だった。楽しいと思った時に笑い、傷付いた時に怒ったり、悲しんだり。そんな彼らだったからこそ、みんながいる場所を僕も居場所だと思えた。
円にとっても、そこが居場所であってほしい。それは僕が願っていたことだ。
「ありがとう。いっちゃんには励まされてばっかりだね。私、もっとしっかりしなくちゃ」
少しだけ和らいだ表情で円が笑いかける。彼女よりしっかりした女の子など僕の知る限りいないのだが、元気が出たのならよかった。
そうこうしているうちに、気付けば僕の自宅アパート前まで着いてしまった。好きな子と歩く時間はいつもあっという間だ。
「それじゃ、また明日ね。いっちゃん」
「あ、うん……」
少し名残惜しいが、雨もさらに酷くなってきたので僕はその場で別れることにした。円の自宅はさらにここから歩いていった先の高層マンションである。
「修行もだけど、勉強もちゃんとしなきゃダメだよ。私、今度じっくり見てあげるから。いっちゃん成績あまり良くないんでしょ?」
「えっ!?」
「怜ちゃんからこの間聞いたの。宿題もギリギリだし先生に当てられた時に全然答えられなかったって」
さらっと衝撃発言が飛び出して僕はその場で慌てふためいた。円には失望されたくなくて今までひた隠しにしてきたのに、まさかこんな形でバレてしまうとは。さっき咄嗟にでた嘘も恐らく彼女には最初から分かっていたことだろう。石上には宿題を教えてもらった恩もあるので頭が上がらないので、恨むに恨めないが。
「いっちゃんは私のライバルなんだから、赤点なんか取っちゃダメだよ」
そう言って円は小さく手を振り、自宅の方に歩いていった。僕はぽつんと一人、築30年のボロアパートの前に立ち尽くす。
「……はぁ」
せっかく良い感じに励ましたのに、これほど「とほほ」という単語が似合うシチュエーションはない。そう僕は独りごちた。
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