なんの役割もない関係性

 やはり仕事をしていると、気が紛れて楽だ。

 響子の病室の近くを通るときだけは、どうしても落ち着かなくて早歩きになってしまうけれど。


 食欲がまったく無くなって、食事を摂るのは仕事の休憩中だけになった。味のしない仕出し弁当を無理やり胃に流し込む。

 あれだけ減量に苦労していたのに、たった数日間で自分でも驚くくらい体重が落ちていた。

 これがいわゆる“失恋”なのかもしれないと気付いたのは、久しぶりに体重計に乗ったときだった。


 こんなに辛いのなら、会わなければよかった、なんてことは決して思わない。響子のおかげで、ほんの少しだけでも大人になれたのだから。

 でも、だからこそ、余計に苦しい。


 いまは鷲尾さんが響子の記憶を戻すよう色々試してくれているらしい。

 響子が関わっていた仕事の資料や同僚の写真などを見せていると、源先生から聞いた。

 まだ記憶は高校生の頃から進んではいないらしいけれど、鷲尾さんが付いてくれているのなら問題ないだろう。


 ようやく今日の仕事が終わり、帰宅しようとしていたとき。

 源先生から声を掛けられた。


「お疲れ様です。また痩せましたね。水無瀬さん」


「……ええ、ようやく標準体重に戻せました」


 響子に言われて始めたダイエットが、響子の拒絶によって成功するという皮肉。

 つい、自嘲を込めた笑いが出てしまう。


「牧野さんの件ですが」


 源先生が響子の名前を出してきた。

 なにか進展があったのだろうかと期待したが、そういうわけでもなさそうだった。 

 先生は白衣のポケットから何かを取り出し、僕に差し出した。


「これを返しておこうと思いまして」


 それは、見覚えのあるメモリーカードだった。

 初めて先生に会った日に見せられたもの。


「今日、牧野さんにこれをお見せしたのですが、その際にこう言われました。……水無瀬さんに借りたものだから、返しておいてほしい、と」


 響子がずっと持ち歩いていたというメモリーカード。

 それを受け取ってしまうと、響子との繋がりが全部なくなってしまうような気がした。


「……これで、おしまい。そういうわけですか」


 こんなことを源先生に言っても仕方ないのに。

 ああ、やっぱり僕は大人になりきれていない。


 先生はしばらく黙ったあと、僕の目を見据えながら静かに言った。


「人は……誰しも、生きている上でなんらかの役割を演じていると思うのです」


 突然始まった何の脈絡もないような話に、僕は「はあ」とため息に似た相づちを打つ。


「それは親だったり、恋人だったり、友人だったり。あるいは医者だったり、患者だったり、同僚だったり、上司だったり。他者と関わる際に、自分がどうあるべきかという役割を無意識のうちに踏まえています」


 そういうものか、と僕はうなずく。


「それは他者との関係性を築く上で必要なことなのですが、それと同時に限界でもあります」


「……なんの限界、ですか?」


「その役割に縛られてしまう、とでも言いましょうか」


 わかったようでわからない。

 何が言いたいのだろう。


 先生はほんの少し笑って、続ける。


「ですが、あなたと牧野さん。……より正確に言うならば、“水無瀬さん”と“響子ちゃん”。あのときの二人の間には、なんの役割もなかったように思えました」


 僕は黙って、先生の言葉を待つ。


「そこにあったのは、ゲームを通した純粋なコミュニケーションでした。ゲームの対戦相手や協力相手というわけでもなく、一人用のRPGを一緒に楽しむ、という同じ体験を共有する関係です」


 そうだ。

 僕たちは、一緒に冒険をしていた。


 友人でもないし、幼馴染でもない。

 それでも、いろんな世界を旅してきた。


 デスピサロが支配しようとしている世界を。

 月の破壊兵器が蘇ろうとしている世界を。

 魔界の扉が開けられようとしている世界を。

 4つのクリスタルを破壊されそうな世界を。

 マナの力が失われようとしている世界を。

 様々な国の動乱で荒れていた世界を。

 遠い未来に滅亡するはずだった世界を。

 

 僕たちは一緒に旅をして、そして救ってきた。


「最初は、幼馴染の従兄弟、という設定の演技ロールプレイだったのかもしれません。でも、そこから生まれた“水無瀬さん”という存在は、そんな枠をとっくに越えて、牧野さんにはかけがえのない存在になっていたはずです」


 響子が僕を呼ぶ声が、頭のなかで反響する。


「そんな関係性が簡単に終わりになるとは、私には思えません」


 そう言って、源先生はもう一度、僕の前にメモリーカードを差し出した。


「このメモリーカードは、なにかしらの彼女からの伝言なのではないでしょうか」


 響子のメッセージ。それは――。


 不意に、こんな言葉が僕の口から出てきた。

 

「また、遊べるように」


 根拠はない。けれど、なぜかそんなことを思った。

 先生はにっこりと笑い、僕の手にメモリーカードを握らせた。


 メモリーカードに張られた『FF7』のシールが、もう一度旅に出るようにと、僕を後押ししているような気がした。

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