信じること、思い込むこと
「はあ?」
自分でも呆れるくらい間の抜けた声が出た。
さっき、鷲尾さんはなんて言った?
横領? 会社で? 響子が?
「……牧野さんは経理を担当していたのですが、数年前から少しずつ請求書や伝票の改ざんを行っていたようです」
経理を担当していた?
請求書? 伝票? 改ざん?
「牧野さんが急遽、長期の療養に入りましたので、別の者が業務を引き継ぐために以前の資料を読み込んでいた際に……不正な処理が発覚しました」
引き継ぎ?
不正? 発覚?
「私にも……責任があります。統括する立場として防止できなかったこと。……そして牧野さんが金銭面で困窮していたことを知っていながら、相談に乗ることができなかったこと」
鷲尾さんの悲壮な声で、ようやく事態が飲み込めた気がする。
でも、まず前提がおかしい。
響子がそんなことをするはずがない。
「何かの間違いです、よね」
誰かが大きな勘違いをしているのだろう。
響子が横領なんて、そんなことをできるやつじゃない。
鷲尾さんは電話越しでも聞こえるくらいの溜息をついたあと、淡々とした声で言う。
「……私も、一通り資料を確認しました。残念ながら……証拠として揺るぎないかと」
「響子がそんなことをするわけないです!」
つい声を荒げてしまった。
だが、鷲尾さんは特に気にすることなく、さっきと変わらない平坦な口調で僕に返す。
「お言葉ですが……水無瀬さんがご存知なのは高校生までの牧野さん、ですよね」
たしかにそうだ。
だけど。
それでも。
「……人は変わります。金銭的に困窮すれば、なおさらです」
「それは……」
他人のすべてを理解したと思い込むのは傲慢なこと。
ついさっきまで考えていたことが自分に突き刺さる。
人を信じること。
人を理解したと思い込むこと。
その違いが、もう僕にはわからない。
「……牧野さんはとても真面目な方でした。父親の借金を肩代わりしても、一人で辛抱強く耐えるほどに」
鷲尾さんがぽつりと言った。
「もしかしたら、横領してしまったことがストレスになっていた可能性があります」
「自責の念……ということ、ですか」
ええ、と鷲尾さんが小さく言う。
「それだけでなく、過去に父親が犯した罪と同じことをしてしまった、という後悔も大きいかもしれません」
父親の横領――響子の家族が姿を消さなくてはいけなくなった原因。
それと同じことを響子自身がしてしまったとしたら、そのストレスは計り知れない。
もし、記憶喪失になったストレスの要因が鷲尾さんの言う通りだとすれば、果たして治療は可能なのだろうか。
黙って考え込んでしまっていた僕に、鷲尾さんが唐突に言う。
「会社では牧野さんの懲戒処分が検討されています」
処分という言葉で、僕の身がこわばる。
「本来であれば当事者の査問をしなければならないのですが、現状の牧野さんにそれは難しいと私から説明をして、いまは保留状態となっています」
鷲尾さんが食い止めてくれている、ということなのか。
でも、それで何かが解決するのだろうか。
「これは私の立場から申し上げるべきことではありませんが」
鷲尾さんはそう前置きをして一呼吸置いたあと、こう続けた。
「記憶を戻すのをやめませんか? そうすれば、会社が立件することは避けられるかもしれません」
鷲尾さんからの予想外の提案に言葉が出てこない。
「牧野さんの苦悩に気付けなかった私のせめてもの償いでもあります。彼女はもう十分に苦しみました」
苦悩。償い。苦しみ。
それらの言葉が、どこか非現実的なもののように思えた。
「水無瀬さんの尽力のおかげで、幸い記憶が高校生の時点にまでは戻っています。社会に出て生活することは十分できるかと」
そして最後に、鷲尾さんは提案をこう締めくくった。
「水無瀬さんが、そばにいれば」
その鷲尾さんの言葉の意味を理解したときには、もう電話は切れていた。
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