いままで起こったおかしなことは
「横領していたのは、鷲尾さん。あなたです」
その言葉を聞いても、鷲尾さんはまだ顔色を変えない。
メールの画面を開き、文面を見せつけるように前へ出す。
「そのことに気付いた響子は、ずっと止めようとしていた。その証拠がしっかりと残っています」
鷲尾さんに採用され、何もわかっていないまま指示された通りに経理の作業をしていた。あるとき、不正な処理をしていたことに気付き、鷲尾さんを止めようとした。これまで気付かなかった自分も悪かったから、一緒に処罰を受けよう、とまで言って。
メールの履歴で、そんなやりとりが残っていた。
「最後のメールでは、直接話し合おう、となっています。……響子が記憶を失くす直前です」
鷲尾さんはどこか上の空で、何か別のことを考えているように見えた。
「全部響子に罪を押し付けて、心は痛まないんですか!? それに……響子に何をしたんですか!?」
つい、声を荒げてしまう。
冷静に、冷静に、と頭の中で繰り返す。
「……まず、一つ目の質問から答えましょうか」
鷲尾さんが僕を見て言った。
「心は全く痛みませんね。ただ美味しい
「駒?」
「浮いた駒って格好の獲物なんですよ」
「……どういう意味ですか」
「将棋を教えてあげたでしょう。誰にも守られていない、誰も守っていない。そんな駒は真っ先に取られるだけです。だから私が取って、役立つように使いました。ただそれだけの話です」
物腰も表情も、依然として柔らかいまま。
それなのに、発言の内容だけが悪意に満ちている。自分の聞き間違いかと思うほどに。
――この人は、怖い。
そう思ってしまった。
「牧野に初めて会ったのは、彼女が夜の繁華街で働いているときでした。何度か話しているうちに、父親の借金を返しているという話を伺い、今後のためにも昼間は事務をしてはどうかとお誘いしました」
「……そのときは響子の境遇に同情したわけですよね。それなのに、どうして?」
「同情? まさか。私の思い通りに動く駒が欲しかったからですよ」
鷲尾さんが吐き捨てるように言う。
「以前、牧野の父親のことを話しましたよね。借金の肩代わりをこれ以上せずにすむよう失踪宣告を進めた、と」
響子のアパートで聞いた話だ。
金銭を頼りに来た父親を、鷲尾さんが看破した。あのときは、本当に頼りになる人だと思っていたのに。
「父親との縁が切れ、母親も先は長くない。これ以上に都合のいい駒はありませんでした。なんのしがらみもありませんからね」
鷲尾さんがにっこりと笑う。
僕はただ黙って聞く。
「二つ目の質問は、牧野に何をしたか、でしたっけ。……記憶喪失になるほどのストレスといえば、あれでしょうね」
やはり記憶喪失の原因も鷲尾さんだった。
響子の記憶が高校生から進まなくて当然だ。ストレスの元凶が身近にいるのだから。
「母親の他界と父親との絶縁。身近に友人もおらず、その時点でもう天涯孤独の身です。そこで不正経理の片棒を担いだという連帯責任。ようやく身も心も完全に落とせたと思ったんですけどね」
残念そうな顔を見せたあと、僕を見てまた笑った。
今度は明らかな悪意に満ちた笑みを浮かべて。
「それでも私を拒絶したのでね。“みなせにしき”の名前を出してようやく大人しくさせました」
僕の名前を?
どういう意味だ?
「メモリーカードっていうんですか? あれ。いつも持ち歩いていたので、なんとなく察しまして。こう言えば途端に大人しくなりましたよ。『“みなせにしき”に昔の仕事を言うぞ』と」
つまり、僕の名前を出して……響子を。
「まさか記憶喪失になるほどとは、さすがに私も少し傷つきましたよ。まあ、おかげで不正の証拠を差し替える時間の余裕ができたわけですが」
正面から話し合えば、認めてくれるかもしれない。
そんな甘いことを少しでも考えていた自分が情けない。
「ああ、そのとき撮った写真があるんです。見たいですか? つい先日、牧野に見せたときは急に小学生にまで戻って、あれには私も驚きましたよ。まさかここまで効果があるとは」
「……下衆野郎」
駄目だ。これは挑発だ。
僕がここで殴りかかったりすれば、全部うやむやになってしまう。
唇を噛みながら、鷲尾さんに問う。
「……いままで起こったおかしなことは、全部鷲尾さんのせいだったんですね。響子の記憶が戻らないように妨害しようと」
鷲尾さんは少し意外そうな顔をしたあと、自慢げに言った。
「ええ、そうです。ゲームソフトを隠すのも、看護師を誘導すれば簡単でした。ゲームばかりやり過ぎて心配だから、カセットをこっそり取り上げて欲しい、とね」
突然紛失した『ロマサガ2』。あのときの泣きそうな響子の顔が浮かぶ。
「ああ、スマートフォンを置いていったこともありましたね。面白いぐらいに怖がっていたので、これは使えると思って。あのときは水無瀬さんがご丁寧に曲名まで教えてくださいましたから、すぐにダウンロードしてアラームで設定しておきました」
夜中に怖い夢を見たと言っていた響子。一人で寝てるときに突然“ケチャ”が流れたら大人でも怖いだろうに。
「水無瀬さん。なんで私がここまで喋ったかわかりますか?」
怒りを抑えるのに必死な僕に、鷲尾さんが問いかける。
「なんで、ですか」
「簡単です。証拠がないからですよ」
証拠? 証拠ならたくさんあるだろう。
「さきほども小芝居を打ってまで私を
響子の携帯を壊そうとしていたこと。あれが証拠でなければなんなのか。
「メールだって、やろうと思えば簡単に偽造ができます。水無瀬さんだけがいくら確信を持ったとしても意味がありません」
たしかに、僕だけが真相を知っても、それだけではどうしようもない。
「それに、水無瀬さんが牧野と非常に仲が良いことはもう私の部下も知っています。だから、あなたが何を言っても、牧野をかばっているだけと思われるだけです」
なるほど。部下を病院に連れてきたのも、そういう保険だったということなのか。
つくづく先を読むのが上手い。
「そこで、あらためて私から一つ提案をさせていただきます」
突然、声のトーンを高くして、鷲尾さんが言った。
「水無瀬さん、今回の件は全て忘れませんか? そうすれば、会社にある不正会計の証拠は隠滅して、牧野に追及が行かないようにします。さらに、水無瀬さんにも牧野にも、今より好待遇の転職先を紹介します」
鷲尾さんは
「ああ、もちろん私はそのあと牧野と縁を切ります。それでいかがでしょうか。今のままでは、水無瀬さんが何をしようが牧野の懲戒処分は免れません。それと比べれば悪い取引ではないと思いますが」
この人は、頭の回転が速くて。
いろんなことを考えられて。
「鷲尾さん……あなたは優秀だから、色んなことができるんでしょうね。良いことも、悪いことも」
鷲尾さんの顔を見て、ゆっくりと話す。
「それに比べて僕は要領もタイミングも悪いから。だから単純に動くしかない」
響子を守りたい。
いま考えることは、ただそれだけ。
「鷲尾さんだって言ってたじゃないですか。僕には一途な棒銀戦法が向いてるって。その通りだと思います」
「ええと、つまり? 答えはYESでよろしいですか」
「いや、僕の答えは、こうです」
息を大きく吸い込み、僕は言う。
「もういいですよ」
僕の声を合図に、二人の人間が病室に入ってくる。
「鷲尾さん……まじっすか」
「……信じられない」
以前、響子の見舞いに来てくれた同僚の二人が驚きの顔を見せる。
初めて、鷲尾さんの表情に焦りが見えた気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます