理不尽なバグに遭遇したような
「……まさか、そんなことになっていたとは」
院長室のソファーに深く腰を掛けたスーツの男性が大きなため息をつく。
響子の勤めている会社の同僚であり、そして響子の彼氏だという鷲尾さんだ。
先週初めて見たときにも思ったが、仕事ができる有能な上司、という印象を受ける。
源先生から響子のことを一通り説明したときも、鷲尾さんはすぐに状況を理解した。
こんな人と、響子が付き合っているという事実に、まだ実感が湧かない。
「こちらの水無瀬さんは昔の牧野さんのことをご存じでしたので、治療のサポートをお願いしておりました」
源先生が僕のことも説明する。上手く言葉を選んでいるようにも思う。
「実家が近所だったんで。……十年近く会ってませんでしたが」
「ああ、あなたが水無瀬錦さん……。響子さんからお名前は伺っておりました。とても仲の良い友人がいたと」
鷲尾さんがこちらを向いて、深くお辞儀をする。
そうか。響子は僕のことを話していたのか……。
「先ほどもご説明をした通り、快復に向かってはいるものの、原因となったストレッサーを除去しないことには、また状態が悪化するということも考えられます」
源先生が鷲尾さんに向かい、淡々と伝える。
「ご存知かと思いますが、二ヶ月ほど前にお母様が他界しております。その頃の牧野さんの様子はいかがでしたか?」
鷲尾さんは指をあごの前で組み、思い返すようにゆっくりと言う。
「母親の葬式には私も参列しましたが、その際は立派に喪主を務めていました。ですが……忌引き休暇が終わっても、会社には来なかったんです」
鷲尾さんが深刻そうな顔をする。
「会社としても少し様子をみようということで、本人に連絡はしませんでした。私個人としてはメールを何通か送ったものの、まったく返信がなかったので、しばらくそっとしておいた方がいいと思い、そのままに……。欠勤から三日くらい経ったころでしょうか、こちらの病院から会社に連絡をいただいたのは」
そういえば、響子が入院したときのことを僕は何も知らない。
源先生の方を見ると、先生は軽くうなずいた。
「水無瀬さんにはお話ししてませんでしたね。牧野さんはパジャマ姿のままコンビニで迷子になっていたところを警察に保護され、こちらに措置入院したんです」
「……ええと、つまり、お葬式から数日間の間に、何かがあったんじゃないか、ってことでしょうか?」
僕の問いに、源先生と鷲尾さんが同時に首を縦にふる。
「鷲尾さんからいただいた勤務時間のデータでは、多少の残業はあったものの、一般的な範囲のものです。なのに、彼女が入院した際は過労状態にありました。お母様の介護や葬儀の疲れもあったかもしれませんが、それだけとは思えません」
源先生の言葉に、鷲尾さんが眉をひそめる。
「実は……」
組んだ指をさらに絡めながら。鷲尾さんはためらいながら言った。
「響子さんは……副業をしていました。私から申し上げてよいものか……その、水商売を」
鷲尾さんが続ける。
「会社としても副業は認められていませんので……人事の立場として、もちろん注意を促しました。ですが、響子さんの父親が残した借金があったらしく……。このことは会社でも私しか知りません」
僕はただ聞くことしかできない。
「ようやく借金の返済は終わったと、聞いていました。なのに」
鷲尾さんの言葉に現実感が伴わず、ただ音だけを聞いている感覚になる。
「いまだに父親から金銭の無心がある、と。自宅にまで来る、と」
あのぼんやりとした響子と、水商売という単語が、頭の中で矛盾を起こしている。
あの優しそうだった父親と、金銭の無心という行為が、頭の中で衝突している。
突然、理不尽なバグに遭遇したような感覚。
「なるほど。原因はそこにあるのかもしれませんね」
源先生が納得したように言う。
「その父親に連絡をとれればいいのですが、あいにく牧野さんの携帯電話にはパスワードがかかっておりまして」
先生が立ち上がり、ロッカーから古びた二つ折りの携帯電話を取り出す。
鷲尾さんが電話を受け取り、ゆっくりと開く。
首を横にふり、画面を僕の方に向ける。
そこには6桁のパスワードの入力画面が表示されていた。
後ろに見えている待ち受け画面は、ドラクエのスライムの画像だった。
なにも変わらず、ただ笑っているように見えるドット絵のスライムの顔だけが、救いのように思えた。
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