あのときのメモリーカードが、そのままに
受付で名前を伝えると、建物の奥の方に案内された。
長い廊下を渡り、何度か扉を抜ける。その厳重な造りは、病院というよりホテルのような印象を受ける。
廊下の窓からは中庭が見えた。よく見ると兎が数匹いて、口を小刻みに動かして草を食べている。
看護師の女性が立ち止まり、先生を呼んでくるので先に入って待っているようにと、僕に告げた。
病室の壁には『牧野響子』とネームプレートが掲げられている。その名前を見て、ようやく現実感が胸の奥に湧いてきた。
夏だというのに、手が冷たくなっている。緊張しているのが自分でもわかる。
恐る恐る扉をノックをしてみる。返事はない。
扉に付いた小さな窓から中を覗いてみても、姿は見えない。
数十秒間待ち、もう一度ノックをしても、やはり同じ。
緊張に耐え切れず、思い切って扉を開けた。
――響子は眠っていた。
想像していたよりも部屋は広く、ベッドの横には椅子と机まである。はめ殺しの窓からは外の景色も見える。郊外とはいえ、東京の景色とは思えないくらいの景観だ。大きな山に入道雲がかかっていて、まるで小学生の絵日記がそのまま風景になったようだった。
ベッドの上で静かな寝息をたてる響子に目を向ける。
ぼんやりとした八の字の眉毛に、小さな鼻。
十年以上経つが、あの頃の面影がしっかり残っている。
少しやつれているようだが、そこまで具合が悪そうには見えない。
どんな病気なのか聞きそびれていたが、こうして見ると、そんなに深刻な状態ではないのかもしれない。
少し気が緩んだせいだろうか。
見舞いの品を机の上に置こうとしたとき、力が抜けてしまった。ゴン、と大きな音が部屋に響く。
「ん」
あ、しまった。
「んんーー、よく寝たあ」
響子が目を覚まし、大きく伸びをする。
ちょっと待ってくれ。まだ、心の準備が――。
「……あれ? だぁれ?」
僕を見て大きく首をかしげる響子。
そのあどけない仕草が、とてつもない違和感をかき立てる。
僕より二歳近く年上の響子は、もう二十代後半だ。それなのに、あまりにも変わってなさすぎる。
顔の造形や身体つきは大人のそれであるものの、表情や仕草、喋り方や雰囲気は、僕の知っている響子よりも、むしろ幼く見えた。
「あ、あの、錦。水無瀬、錦。……ひさしぶり」
「え? 錦くん?」
戸惑うのも無理はない。響子は変わっていなくても、僕の方はあの頃とは大きく変わった。変わってしまった。
かなり太ったし、目も悪くなって眼鏡をかけている。
無精髭だけは久しぶりに剃ってきたものの、そんなのは焼け石に水。
だが、響子の反応は、こちらの予想とはかけ離れたものだった。
「錦くん、来てるの!? やばっ、顔洗わなきゃ!」
嬉しそうに響子が跳ねる。
会話が成立していない。
――平常の意思疎通を図ることが難しい――。
昨日、電話で先生がそんなことを言っていた。
胸の奥で、違和感が不穏な形を作り始める。
「ん、あれ? なんか……錦くんに似てる?」
響子が急にこちらを見つめ、小さく呟いた。
かと思えば、今度は元気よく叫ぶ。
「あー、わかった! 錦くんの親戚の人! ですよね?」
自信たっぷりの響子の問いかけに、どう答えればいいのか途方に暮れていると、そうだよ、と男性の低い声が部屋に響いた。
「そう、君が言っていた“錦くん”は学校の行事があって来られないけど、代わりに“錦くん”の従兄弟がお見舞いに来てくれたんだよ」
振り返ると、白髪でオールバックの初老の男性が立っていた。その後ろには、さっき案内してくれた看護師さんもいる。やっと先生を連れて来てくれたのか。
白衣の胸には“源 清康”と書かれたバッジが留められている。この人が、昨日電話で話した源先生か。
「わあ。わざわざありがとうございます!」
響子はベッドの上で正座をして、背筋をぴんと伸ばした。
その視線は机の上の見舞い品に注がれている。メロンが大好きなところも、変わっていない。
「じゃあ水無瀬さん、外に共同のキッチンがありますので、そこで切りましょうか。響子ちゃんは少し待っててね」
源先生が俺に目配せし、外に出るよう促す。
僕は黙ってうなずき、先生の後ろを付いていく。
廊下の突き当りを曲がったところで、源先生は突然頭を下げた。
「すみません。ご説明をしてから病室へ案内すべきところを、こちらの手違いで先にお連れしてしまいました。混乱されたことかと思います」
「あ、いえ。大丈夫、です。……その、響子はいったい?」
源先生は、小さな声でこう言った。
「
先生が昨日言い
だが、僕のイメージする記憶喪失とは全く違う。
「でも、響子は僕の名前を覚えてましたよ。……僕だとは認識されませんでしたが」
「解離性健忘には大きく二つに分けられます。特定の出来事についての限局的な健忘。もう一つは生活史についての全般的な健忘。彼女の場合は前者です。そして」
源先生は少しだけ間を置いて、続ける。
「非常にレアなケースですが、牧野さんは10年から15年ほどの記憶を喪失しています。つまり、子供時代に戻っているようなものです」
響子を見たときに感じた違和感の正体がはっきりした。
あの頃から変わっていない、どころじゃない。
あの頃に戻ってしまっていた、ということなのか。
「一般的に原因は強いストレスだと言われています。実際、ここに運ばれてきたとき、牧野さんは過労状態にありました」
強いストレス。過労状態。
その言葉が大きくのしかかる。
「……そういえば響子の両親はいまどこに?」
教育熱心だった母親、いつも穏やかだった父親。響子がこんな状況なのに、あの人たちはいま何をしているんだ。
「彼女の母親は二ヵ月ほど前にお亡くなりになっていました。長い間、病気を患っており、その介護疲れも過労の要因だったようです」
唐突な話に言葉を失う。
「また、父親の方は以前から別居をされていたようで、音信不通でした」
何も言えない僕をよそに、先生は続ける。
「親戚の方に連絡を取っても、既に縁を切っていると言い張られてしまい、お手上げ状態でした。せめてご友人に連絡をと、彼女の所持品を調べさせていただいた際、こちらを見つけたのです」
先生が白衣のポケットから取り出す。
電話で聞いていた通り、あのときのメモリーカードがそのまま、いまここにある。
表にはゲーム雑誌付録のFF7のシールが貼られ、裏には僕の名前が汚い字で書かれている。
「牧野さんが何故これを持ち歩いていたのかはわかりません」
そう。どうして持っていたんだ。
僕は必死で忘れようとしていたのに。
響子はずっと忘れていなかったのか。
「病院で目覚めた彼女は、当初とても混乱していました。気付いたら独りで知らない病院にいるのですから、当然ですよね」
静かな声で、先生が語りかける。
「そして、ずっと泣いていました。……ですが、彼女にこれを見せてからは、落ち着くようになったんです」
先生がメモリーカードを僕に手渡す。
「合言葉のように、あなたの名前を言いながら」
昔となにも変わらないままで。
僕の名前を
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