誰しもが主人公になれるわけもなく

 普段はめったに食べない朝食をとり、ストレッチをしたあと軽く走り始める。


「ゆっくりでもいいから、30分以上走るのがいいんだよ」


 あの“恋バナ”をした日、響子はそう僕にアドバイスをした。さらに、どれだけ運動したのか毎回ちゃんと報告をするように、と指示をした。

 まったく。小学生に戻っているくせに、どんどん生意気になっていく気がする。これも打ち解けてきた証拠だと思っていいのだろうか。


 早歩き程度のスピードで5分ほど走っただけで、心臓、肺、脚が一斉に悲鳴をあげ始めた。これまでの不摂生によって、身体がなまりきっている。昔のような体型に戻すためには相当時間がかかるだろう。

 でも考えようによっては、これは自分を育成するゲームだ。

 食事はカロリーや栄養素を数値化して、必要な分だけを摂取する。

 運動も上げたいバロメーターに応じた筋トレを選び、少しずつ負荷を増やしていく。そして筋肉が付いた分だけ、摂取できるカロリーも増やすことができる。


 肉体的な変化よりも先に、精神的な変化が先に表れ始めた。良い方向に努力をしている、という自信のためか、思考が前向きになった気がする。

 響子のことだって、嫌われたのではなくて、本当にどうしようもない事情があって、僕に連絡をできなかっただけなのかもしれない。

 もしかしたら、記憶を取り戻したあと、昔のような関係に戻れるかもしれない。

 そんなことを思うようになっていた。


 そして、一週間ほど過ぎたころ。


 響子の病室に向かう途中、受付の前で珍しく人がいるのを見かけた。

 きっちりとしたスーツを着た三名の男女がなにか話している。

 同年代の男女が一人ずつと、少し年上っぽい男性が一人。誰かの見舞い客だろうか。

 聞き耳を立てるつもりはなかったけれど、横を通り過ぎようとすると、どうしても会話が聞こえてしまった。


「せっかく見舞いに来たのに、会っちゃ駄目ってなんなんすかね」


「病状を聞いても教えてくれないしねー。守秘義務とかなんとかって。命に別状はないから心配はいらないって言われてもねえ」


 若い男女が不満を漏らしている。

 もしかして、この人たちは――。

 

 話しかけようか迷っていたら、年上の男性が言った。


「まあまあ。今日は先生に書類を渡しに来たんだからさ」


 この人は上司なんだろうか。高そうなスーツを着こなし、髪もオールバックできまっている。まさにエリートサラリーマンという風体だ。


「ここは先生を信じて牧野さんの復帰を待とう」


 ああ、やっぱり響子の知り合いだ。

 ちゃんと見舞いにきてくれるような同僚がいるんじゃないか。


 そう安堵した次の瞬間。

 耳に入ってきた言葉を、僕はすぐに理解ができなかった。


「でもですよ、私たちはともかく、彼氏には会わせてくれたっていいでしょうにねー」


 ――彼氏? 彼氏って、なんだ?


「そうっすよ。鷲尾わしおさん、ここは彼氏としての器量を見せるとこっすよ!」


 ――彼氏? 彼氏って、だれだ?

 

「まったく、冷やかさないでくれよ」


 そう言いながら頭を掻いていたのは、上司だと思っていた年上の男性だった。

 この人が……彼氏。


「ほら、他の人の迷惑になるからもう帰ろう」


 そう言って、鷲尾と呼ばれた男は僕に向けて静かに会釈をし、他の二人を引き連れて出て行った。


 ……なんだよ。

 ちゃんと見舞いにきてくれるような彼氏がいるんじゃないか。


 別に落ち込む必要なんてない。振り出しに戻っただけだ。これまでと何も変わらない。

 「カッコよくなった水無瀬さんを見たら、また好きになるかも」

 響子のそんな言葉に踊らされて、調子にのっていた自分が恥ずかしい。

 誰しもが、主人公になれるわけがないのに。

 どうして僕なんかが主人公セシルになれると思っていたんだろう。

 パラディンに変われるなんて、思っていたんだろう。


 いつのまにか、響子の病室の目の前にいた。

 今日は帰ろう。そう思い、引き返そうとした瞬間、扉が開く。


「あ! やっぱり水無瀬さん! 足音聞こえたから!」


 響子が僕に笑いかける。

 でも、いまはその笑顔もあまり見たくはない。


「……あれ? なんか元気ない?」


「だいじょうぶだ……」


「え?」


「おれは しょうきに もどった!」


「あはは! なにそれ、カインの物まね?」


 ああ、そうか。ようやくわかった。

 カインのあのセリフの意味が。


 セシルやローザを目の前にして平気だったこれまでの自分の方がおかしくて、彼らを裏切るような自分こそが本当の自分であると気付いたんだ。そうやって、本心を、弱さを、さらけ出していたんだ。


 僕も同じだ。

 人生に意味なんて無い。それが真理だと、わかっていたじゃないか。

 すっかり忘れてしまっていた。だから、こんなに苦しむ。自業自得だ、馬鹿野郎。


「……響子ちゃん。僕はセシルじゃなくてカインだったよ」


 不思議そうに僕を見る響子の無邪気な目が、僕にはとても残酷に映った。

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