終章 月沙の都(二)

 ――忘れないでほしい。


 国は滅び、民は四散し、都は砂にうもれても。それでも語り継いでほしい。確かにこの地で生きていた民がいたことを。


「それで、できれば……もういちど、昔の賑わいをとりもどしてやれたらと思った。そうすれば、楼西ろうせいの王だか亡霊だかも安心して眠れるだろうとな」


 そこまで語ったところで、奎厦けいかはふいと目をそむけた。やわらかく微笑んでいる子怜しりょうの顔から。


「笑いたきゃ笑え。馬鹿な夢物語だってことはわかっている」

「そんなことないさ」


 子怜は先ほどまで枕がわりにしていた紙の束から一枚ひきぬいた。


「夢物語だとしても、悪くない。きみのえがいた光景は」

「なっ……!」


 奎厦はものすごい勢いでその紙をひったくった。


「乱暴だなあ。破れたらどうするの。せっかく書いたのに……」

「あんた、人が書いたものを勝手に……!」

「隠さなくてもいいじゃない。よく書けていると思うよ。まあ、多少想像に頼りすぎているところもあるけど、そのぶん生き生きとした情景が目に浮かぶようで……」

「黙れ!」


 奎厦は真っ赤な顔で紙を握りつぶし、横からのぞきこもうとした春明しゅんめいの目から隠した。


「これはだな……楼西について調べたことを適当に書きとめただけであって……」

「いいと思うよ」


 子怜はのんびりと言った。


「紙に書いて残せばいいんだ。そうすれば、忘れないだろう」


 その言葉に、奎厦はゆっくりと緑の眼を見ひらいた。


 忘れないように。忘れられないように。


 人が必ず死ぬように、都も国もいつかは滅び、人々の記憶から消えていく。それでもきっと、消えずに残るものもあるだろう。


 残したいという願いがあれば。


「書きあげたら読ませてね」

「わたしもぜひ」


 春明も笑顔で手をあげた。


「……どうかな。しばらくは書きものなんぞしている暇があるとも思えんし。だいたいあんた、この城をつぶすためによこされたんじゃなかったのか。皇太子の側近のあんたが……」

「誰が、誰の側近だって?」


 眉間にしわをよせて奎厦の言葉をさえぎり、子怜は立てた膝に頬杖をついた。


「なにか勘違いしているみたいだね。沙州関さしゅうかんの再建は決定事項だ。だれがなんと言おうと、くつがえることはないよ」


 知ってるかい、と子怜は声をひそめる。とっておきの秘密をうちあける子どものように。


「沙州関の再建をしているのは丞相じょうしょう閣下だ。あのおひとはね、この城を再建し、かつてのような東西交易の拠点にしようと考えているのさ。りょうの代にはできなかったことだけど、いちばんの障害がのぞかれたいまなら、それが可能だ」

「障害とは、楼西の呪いのことか?」


 まさか、と子怜は笑う。


「そもそも、梁がこの城を捨てたのは楼西の呪いのせいなんかじゃない。西方の異民族の大抗争のあおりを食らって、東西交易路が北に大きくそれてしまったのが原因さ」


 おかげで沙州関は交易の中継地としての役割を失った。梁は利用価値のない城を維持するよりも、放棄する方を選んだのだという。


「その抗争も五年ほど前に片がついてね、交易路は再び南下しつつある。この機を逃すなってことで、沙州関の再建がはじまったのさ。なにしろ丞相閣下は抜け目のない商家の出だからねえ。将来利を生むと踏んだものには、とことん金と手間を惜しまない。というわけで――」


 子怜はにこりと笑う。


「ぼくらの見た夢は実現する。沙州関はかつての繁栄をとりもどすだろう。まあ、そこにたどりつくまで問題も苦労も山ほど待ち受けているんだろうけど、きみたちならなんとかするでしょう」


 きみたち、という言葉に春明ははっとした。


 昨夜、子怜から持ちかけられた。食客しょっかくとしてこの城にとどまってはどうかと。


「なにせ人手不足だからね。春明にはしばらく残ってほしいんだけど、きみ、せいろくむ気にはなれないんでしょう。だから、ぼくの食客てことでどうだい」


 そのうち気が変われば、三年後の文挙ぶんきょを受けてもいいだろうと。


 申し出を受けた春明は、かろうじて礼を述べるとそそくさと子怜の前から退出した。ぶざまな泣き顔を見られないように。


「おまえも残るのか」


 奎厦に問われて恐縮しつつ春明が口をひらく前に、子怜が「そうだよ」と返事を横どりする。


「立場上は城主付きだけど、実際は奎厦の指示で動いてくれていいから。じゃ、そういうことだからあとはよろしく」

「待て」


 そのままごろりと寝ころがりかけた子怜の首根っこを、奎厦がつかんで引き起こす。


「春明がいれば、おれも助かるが」


 いまの言葉は、と春明は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。きっと死ぬまで忘れることはないだろう、と。


「だからといって、あんたが怠けていい理由にはならん。あんた、それでも沙州関の城主か」

「――月弓げっきゅう

 

 子怜の口からこぼれたその名に、奎厦はぴたりと動きを止める。


「沙州関じゃない。月弓だろう」

「なぜその名を……」

「きみの著作に書いてあったよ。この城が楼西の王城だった頃は、月弓と呼ばれていたそうだね。いい名だ。沙州関よりよほどいい。どうせ沙州なんてとうの昔に廃されていることだし、これを機にもとの名に戻すよう上奏してみようか」

「……できるのか」

「もちろん」


 子怜は自信たっぷりにうなずく。


「ならば、あんたが京師けいしに帰ったらぜひ頼む」


 子怜の笑顔が固まった。


「……きみさあ」


 子怜のしみじみとした口ぶりには、一抹いちまつの悲哀すらにじんでいた。


「そんなにぼくを追い出したいわけ? このに及んでそんなこと言われると、さすがのぼくも傷つくよ?」


 めずらしく真顔を訴えられ、奎厦は困惑したような表情になる。


「あんたは斉の軍師だろうが。梁の皇子のたくらみも阻止したことだし、いつまでもこんな辺境にいていいわけが……」

「だーかーら!」


 子怜は子どもっぽい仕草で頭をふり、奎厦の言葉をさえぎった。


「それはもう辞めたんだって。だいたい軍師なんて戦が終われば用済みさ。へたに中央に居残って兵制改革だの後任の教育だの厄介事を押しつけられるのはごめんだからね。それより辺境で気ままに過ごすほうがよっぽどしょうに合ってるってもんだよ」


 奎厦はあっけにとられた顔で子怜を見つめていたが、ふっとその口もとがゆるんだ。


「気ままじゃ困る。無駄飯食らいを養う余裕なんてこの城にはないんだ。ここにいるならそれ相応の働きはしてもらう。とりあえず、書類は今日中に片付けるぞ」

「はーい……」


 子怜はしぶしぶといった風情で立ちあがる。


「まったく、これじゃどっちが上官かわかりゃしない」

「誰のせいだ。いいからさっさと来い。日が暮れる前にやらなきゃならんことが山ほどあるんだ」


 奎厦に引きずられるように子怜が部屋を出て行ったあとも、春明は壁いっぱいに積まれた書物をぼんやりとながめていた。


 そこに積まれているのは、楼西の過去。楼西の夢。


 目を閉じれば、いまでもあの心地よい喧騒が身をつつむようだ。明るい日差しがふりそそぐ、にぎやかな街路に立っているような――


「――春明」


 やわらかな声に春明はゆっくりとまぶたを開いた。


 子怜が笑顔で手招きしている。その横ではいつもどおり不機嫌そうな、しかし穏やかな眼をした奎厦が腕組みをしている。


 不意に泣き出しそうな気持ちにおそわれ、春明は顔をゆがめた。ずいぶん変な顔をしていただろうに、ふたりは何も言わなかった。


「はい、ただいま」


 春明は晴れやかな笑みを浮かべ、かるい足どりで書庫をあとにした。

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沙州関異聞 小林礼 @cobuta

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