第五章 暁天の城(十二)

 王家軍おうかぐん。その名は春明しゅんめいも耳にしたことがある。


 もとはりょうの旗のもとに組織された義勇軍だ。梁朝末期における最強の武力集団として勇名をはせたが、のちに反逆の嫌疑をかけられたことからせいの陣営に走り、その建国をたすけたという。


「梁に謀殺された総大将の跡を継いだのが、養子のこやつじゃ。なみいる宿将をさしおいて若僧が王家軍を引き継いだと聞いたときは、誰もが名ばかりの総大将だと思ったものだ。まさかその若僧が、斉全軍の軍略を一手ににぎる軍師になろうとは……」


 感慨深げに語る老将の声に、春明と奎厦けいかの悲鳴にも似た声が重なった。


「軍師だと!?」

「斉全軍!?」

「昔ね。ここへ来る前に辞めてきた」


 なんでもないことのようにうなずく子怜しりょうの胸倉を、今度こそ奎厦がつかんだ。


「ふざけるな! またおれをだまそうったってそうはいくか!」

「これこれ」


 何度目のことか老将が割って入り、奎厦の手から子怜を救う。


「おぬしの気持ちはよくわかるぞ。暇さえあれば寝てばかりの怠け者。枯れ井戸の底より愛想のない青二才。口も悪いが、それ以上に性格が悪い。こんな性根のねじ曲がった者を軍師と仰がねばならんかったわしらがどれほど口惜しい思いをしたか……」

宗仁そうじんどの」

「だが、その才は本物じゃ。梁に勝てたのもおぬしの働きあればこそじゃったな」


 老将はそこではたと首をひねる。


「して、おぬし、軍師を辞めたと申したか。いったいなにがあった」

「いろいろあってね……」


 子怜の浮かない顔つきで、老将はすべてを察したようだった。ひげをしごきながらにやりと笑う。


「つまりは逃げだしてきたというわけか。これはおもしろい。十万の大軍を前にしてもひるむことのなかったおぬしが、ただひとりを相手に敗走するとは」

「なんとでも」


 子怜は不機嫌そうにそっぽを向く。


「しかし、つくづくこりないおかたじゃな。おぬしに何度ふられても、いっこうにあきらめる気配もないとは。あの打たれ強さは見あげたものじゃて」

「ただの馬鹿だよ」

「めったなことを言うでない。あのおかたも、いまでは皇太子殿下であらせられるぞ」

「ああ、おかげで斉は二代にして滅亡確定だ」


 内輪話に興じるふたりを、春明はただただ呆然と見つめていたが、ふと、とんでもなく怖ろしいことに思いあたった。それは奎厦も同じだったようで、彼らしからぬ、どこかぼんやりとした顔で口をひらく。


「……子怜」


 名を呼ばれた子怜は、ぽかんとして奎厦を見あげた。このひとにしてはめずらしく、虚をつかれたような顔である。長いまつげがぱちぱちと上下し、わずかにひらいた朱唇から白い歯がこぼれている。


 いとけない童子のようなその面差しを前にして、春明はまさかと胸に浮んだ疑惑を必死に打ち消していた。


 この外見で、まさか、あり得ない。


 どくどくと脈打つ胸を押さえる春明の横で、奎厦はその決定的な問いを発した。


「――あんた、いくつだ」

「はあ?」


 子怜は首をかしげて指を折る。


「斉軍に入ったのが二十歳くらいで、梁を倒したのが、それから……十年?」

「九年じゃろう。おぬし、王家軍を率いて斉軍に加わった際、十年を待たずして斉に天下をとらせてみせようと宣言しておったではないか。あのときはたいそうな妄言を吐きよると思っとったが、実際そのとおりになったの」

「そんなこと言ったっけ。だったら三十ちょっとか。正確な年はわかんないよ。なにせ捨て子だからね」


 奎厦と春明はそろってあんぐりと口をあけた。


「……三十」

「……冗談だろう」

「その気持ちもよくわかるぞ」


 愕然とする春明と奎厦の肩を、老将が豪快にたたいた。

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