第二章 悪夢の城(十)

 阮之げんし春明しゅんめいが城門に駆けつけたときには、すでに騒ぎを聞きつけた兵が集まっていた。


 兵をかきわけて前に出ると、閉ざされた城門を背にして立つ痩せた男と、その腕にがっちりと抱えこまれている小柄な人影が見えた。暗がりで人質の表情まではわからないが、その首にぎらりと光るものを認めて春明は息をのんだ。


子怜しりょうさま……」


 こうという名の兵は、捕らえた子怜の首筋に短刀をあてがっていた。


「どけ」


 背中で低い声がした。ふりむけば、数名の兵を率いた城輔の奎厦がそこに立っていた。


 耳が痛くなるような張りつめた空気のなか、奎厦は洪の前に進みでると短く問うた。


「要求は」

「……門を開けろ」


 わななきながらも、洪はおおかたの予想どおりの望みを口にする。


「……いますぐだ。さもないと、こいつの首をかき切る」

「断る」


 即座に奎厦は拒絶した。そのあまりの迷いのなさに、周囲から声にならないどよめきが湧き起こる。


 ただひとり、人質となっている子怜だけが口元に笑みをひらめかせたように春明には見えたが、ゆれる篝火が見せた幻影だったのかもしれない。


「……ふざけるな!」


 洪は子怜の首にまわした腕にさらに力をこめたようだった。いかにも目方が軽そうな子怜のつま先が宙に浮く。


「こいつが誰だか、わかってんのか!」

「無論。沙州関さしゅうかんの城主、王子怜だ」

「へえ」


 緊迫した場に不似合いな声をあげたのはほかでもない、人質の子怜だった。


「覚えていてくれたとはなにより」

「……あんたは黙っていろ」


 奎厦はかみしめた唇の間から苦々しい声をもらし、再び洪に語りかける。


「少し考えればわかることだ。ここでおれがおまえの要求どおり城門を開け、おまえを逃がしたとしよう。おまえはひとりで逃げるか? そんなことはするまい。追っ手をかけられることを考えて、おまえは人質を一緒に連れていくつもりだろう」

「……だったらどうなんだ。ここを出たらこいつは解放してやる」

「それは下策というものだ」


 奎厦はばっさりと切り捨てた。


「おれがおまえなら、人質を殺す。下手に生かしておいて、逃げた先をばらされでもしたら厄介だからな。それに、人質を生かして解放したところで、おまえの罪が軽くなるわけでもない。すでにおまえの死罪は確定している。城主を生かそうが殺そうが、どうせおまえは死ぬんだ。だったら殺してしまったほうが、後腐れがなくていいだろう」

「ねえ、それちょっと思いきりがよすぎるんじゃないの」

「いいからあんたは黙ってろ」


 性懲りもなく口をはさんだ子怜に、奎厦は苦い顔で釘をさした。


「おまえを逃がしても、ここで捕らえても、どのみち城主はおまえに殺される。だとしたら、おまえを捕らえた方がましというものだ。城主としても、己がために脱走を許したという汚名を背負って生きるより、ここで潔ぎよく死ぬことを選ぶはず」

「いや、そんな勝手に決めつけられても……」


 子怜のぼやきを無視し、奎厦はさっと腕をあげた。それを合図に背後にいた兵が一斉に弓をひきしぼる。明らかに洪を動揺させるための脅しだ。そうとわかっていても春明は声をあげずにはいられなかった。


「奎厦さま、やめ……」

「やめてくれ!」


 洪の絶叫が響いた。


「お願いだ……もうやめてくれ。もうたくさんだ……」


 哀れっぽく懇願する洪に、奎厦はいったん腕をおろした。だが、洪の哀願は次第に調子を変えていく。


「おれはもう嫌だ。この城も、あの夢も……なあ、おまえらだって、そうだろう……」


 洪の呼びかけに、彼を囲んでるいる兵たちがそろりと互いの顔を見合わせた。その不穏な空気を察したように、弓を構える兵たちの目が不安そうに泳ぐ。暗がりで見えなくとも、気配で春明はそれを悟った。矢をつがえた兵たちの腕の力がわずかにゆるんだのも、また。


「耳を貸すな」


 奎厦は鋭く命じる。


「反逆者の言うことなど」


 その言葉に、ぴくりと洪の肩が震えた。


「……反逆者、だと」


 洪は奎厦の顔を見つめ、ややあってうつむいた。そのままくつくつと低い声をもらす。声は次第に高く、大きくなった。それが笑い声だとわかったとき、春明は背中が総毛立つのを感じた。


「どっちが……」


 洪は笑いをおさめ、のっそりと顔をあげる。


「おれは知っているぞ。本当の反逆者が誰か」


 洪は短刀をゆっくりと前に突きだした。鈍く光る刃先が、真っ直ぐに奎厦へと向けられる。


「……あんた、あんたのその、眼……気味の悪いその眼……ひとの持ちもんじゃない。そいつは、けだものの眼だ」

「黙れ」

「ああ、あんた!」


 どこか調子のはずれた笑い声が場を圧する。


「あんた、おれを殺すんだろう。そうだな? おれは知っているぞ。だってあんたは、いままでだって何度も……」

「黙れというのに」


 奎厦は脅すように一歩前にでた。だが洪の口は止まらない。


「なあ、あんたは、おれたちが憎いんだろう……かくしたって無駄さ。あんたの、その眼が言ってるんだ。殺してやる……殺してやるってな。あんたは……」


 洪の顔が、ぐしゃりとゆがんだ。


「おれたちの、敵だ」

「黙れ!」


 奎厦は一声ほえると弓兵の手から弓矢をひったくった。


「奎厦どの!」


 阮之の制止の声をふりきり、洪に狙いを定めて弦をひきしぼる。


「……どうして」


 洪の顔からは先ほどまでの嘲るような笑みが消え、かわりに恐怖と怯えの色が浮かんでいた。助けを乞うようにさまよった視線が、ふと春明の顔に止まる。


「……助けてくれるって、約束……」


 たしかに約束した。だが、それは人質にとられている子怜の方だ。


 どうしたら、と春明は必死に考えをめぐらせる。どうしたら奎厦を止められる。どうしたら子怜を助けられる。焦りのあまりぎゅっと己の胸元を握りしめた手が、なにか固いものをつかんだ。


「奎厦どの!」


 悲鳴のような阮之の声に、春明ははっとした。


 奎厦がつがえた弓から矢が放たれようとした瞬間、春明は手にしたものを口にあて、力いっぱい吹き鳴らした。

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