第一章 漠野の城(七)

「はじめから教えておいてくださいよ」


 足をぬぐった布をたらいの水ですすぎながら春明しゅんめいがぼやくと、子怜しりょうはよくわからないと言いたげに首をかしげた。


「なにを」

「子怜さまが城主さまだってことを、です」


 ぱちゃん、と水がはねた。


 ふたりがいるのは沙州関さしゅうかんの一室である。荒野で脱走兵を助け、それを追ってきた騎馬兵に出くわした子怜と春明は、そのまま彼らとともに沙州関の城門をくぐった。


 あれほどおびえていた脱走兵も、観念したのかおとなしく騎馬兵の鞍にひきずりあげられ、城門にたどりついたところで待ちかまえていた他の兵に引き渡された。


 手荒にあつかわないように、との子怜の指示に、例の緑の眼の若者はただ一言「わかった」とだけ答え、出迎えの兵にまぎれていつの間にか姿を消した。


 子怜と春明は案内役の兵にこの部屋まで案内され、ひとまず旅の埃を落としたところである。陰気な顔をした兵は、間もなく城輔じょうほが参りますと、これまた暗い声でぼそぼそと告げて退出した。


 城輔とは、子怜いわく「ぼくの補佐役で、この城で二番目にえらいひと」だそうで、そこで春明の怒りが再燃したわけである。


「最初に言ったよねえ。ぼくは斉の官吏で、再建工事の監督役だって」

「たしかにうかがいましたけど、だからといって、まさか城主さまだなんて思いませんよ。そんなにえらいお方が、なんでお一人で旅をなさっているんですか。普通お付きのひととかいますよね?」

「なんで春明が怒るかなあ」

「これが怒らずにいられますか」


 あのとき――荒野で騎馬兵に囲まれたとき、さいと名のった若者から射るような眼差しを向けられたとき、そして、子怜があっさりと若者の要求をはねつけたとき、どれほど春明は肝を冷やしたことだろう。


 子怜が早々に身分を明かしてくれていれば、あんなに怖い思いもしなかったのにと、春明は恨みがましい目であるじを見た。


「付き人なんていないよ。そりゃ京師けいしの屋敷にいくらか使用人はいたけどさ、こんな辺境に連れてくるのもかわいそうじゃない。だからこっちに来るときみんなまとめて辞めてもらったんだ」

「そっちの方がかわいそうじゃないですか」

「手当ては上乗せしといたよ?」

「まあ、それならいい……」


 いや待て、よくない。


 なにしろ、城主である。文字どおり、ひとつの城市まちおさなどというたいそうな身分の人と十日もの間ふたりきりで旅をしてきたのかと思うと、春明は今度は気が遠くなった。旅のあいだ自分の接し方に落ち度はなかっただろうかと、あらためて記憶をほりかえす。


 子怜に食事の支度をさせたことは……たぶん大丈夫だ。なぜならあれは本人がやりたがったことだから。ただ、できあがった粥を一口ふくんで吐きだしたことはまずかったかもしれない。でも、あれはまずいを通りこして毒でも入ってるんじゃないかと思うような代物で――


「春明、春明」


 子怜の声で春明は物思いからさめた。窓に腰かけ、子どものように両足をぶらつかせている主人の姿に、春明は深いため息をついた。


「……やめた」

「へ?」

「いえ、こっちの話です」


 このひとに関しては悩むだけ無駄だと、春明は早々に見切りをつけた。


「なんです。なにかおもしろいものでも見つけましたか」

「おもしろいかどうかはわからないけど、とにかく春明も見てごらんよ。上から見るとまた一段とすごいから」


 開けはなった窓の外を見た春明は「うわ……」と声をもらした。

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