第四章 翠乱の城

第四章 翠乱の城(一)

 沙州関さしゅうかんで練兵がはじまって半月ほどもたったある日のこと、春明しゅんめいはいまや常設の医務室となりつつある兵舎の一室で、ひとり掃除にはげんでいた。


 最近は阮之げんしの手伝いが忙しく、子怜しりょうとはあまり顔を合わせていない。


 子怜はもともと手のかからない主人で、付き人である春明の仕事といえば、せいぜい日に二度食事をはこぶ――手はかからないが、放っておくと平気で食事をぬき、かわりに酒ばかり食らっているので、春明としては看過できない――くらいだったが、それも他の兵に頼んでいる状況だ。


 子怜も「ぼくのことより阮之どのを」と言ってくれているので、春明としてはなんの気兼ねもなく阮之のそばで働いていられるのだが――


 春明は床をこする手をとめ、ため息をついた。


 わかっている。自分が忙しさを理由にして子怜を避けていることは。


 沙州関再建を阻止するためにやってきた、皇太子の側近。数日前、地下書庫で奎厦けいかから聞いた話は、いまも春明の胸のうちに重くしずんでいる。


 正面から訊いてしまえばいいのだ。あの話は本当ですか、と。あなたは沙州関の再建に反対で、例の訓練も本当は別のねらいがあるのですか、と。


 けれど、子怜の顔を見るたびに、その問いはどこかへいってしまう。


 もしかしたら自分は怖いのかもしれない。子怜に肯定されることが。そうだよ、と。こんな城、わざわざ手間をかけて再建するなんて馬鹿げている、と――


(いかにも言いそう)


 そうなったら自分はどうすればいいのか、その先のことを思うと途方にくれてしまう。


 この城に腰をすえて、そろそろひと月。郷里の情景は、それこそ遠い夢のようにかすんでいる。


 子怜は何も言わない。会えば「やあ、春明」と気さくに笑ってくれる。だが、その笑顔が逆にあらゆる問いをはねつけているように思えてならない。考えすぎかもしれない。けれど、たしかめるすべが、勇気が、春明にはない。


 なさけないな、と春明は目の前の床をぼろ布でこすった。床の汚れが消えれば、頭の中の整理できない思いも一緒に消えてくれるような気がして。


 あらかた床を拭き終え、ついでに柱も磨くかと立ちあがったとき、どやどやと足音がして数人の兵が部屋に入ってきた。


「お、春明ひとりか」


 先頭にいた兵が声をかける。いつだったか、「故郷におまえくらいの息子がいてなあ」と話しかけられたことがきっかけで親しくなった男だ。その息子が十二歳と聞いて、春明はその日一日落ちこんだものである。


「阮之さまはどうしたんだ」

「ちょっと他にご用事があってね。怪我人かい」

「ああ、こいつなんだがよ」


 兵がふりむいた先、仲間の背にかつがれた少年の顔を見て春明はおやと思った。

 城壁の崩落事故の際、城輔じょうほの奎厦に食ってかかっていた少年だ。名はたしか、刀児とうじといった。


「槍で突かれてよ。いや、怪我じゃないんだが、転んだ拍子に頭打っちまったみたいでな」


 ぐったりとしている刀児を寝かせ、春明はとりあえず脈をはかる。さいわい脈はしっかりしていた。呼吸も安定しているし、仲間の話によれば吐いたりもしていないらしい。


「たぶん気を失っているだけだと思うけど、やっぱり阮之さまにてもらわないと」

「なら、おれたちが探してくる。それまで頼むな」


 来たときと同じようにどやどやと兵が去っていったあとで、春明はあらためて刀児の顔をのぞきこんだ。そばかすの散った顔に血の気はなく、例の夢にうなされているらしくまぶたがぴくぴくと動いている。


 少しでも楽になればと、春明が水でぬらした布で汗ばんだ顔をぬぐってやろうとしたとき、だしぬけに刀児は目を開けた。


「よかった、気がついて……っ!」


 がばりと身を起こした刀児は、春明の両肩を強い力でつかんだ。


(あ)


 まずい、と思った。

 刀児の顔にぽっかり開いた、ふたつの黒い穴。そこに映っているのはおそらく春明の顔ではなく、憎い仇の――


「おまえ……おまえがあああ!」

「ちょっと、おちつけって……!」


 夢に囚われたまま暴れつづける刀児を、春明は必死になだめた。


「大丈夫だから。な? 刀児」


 こんな場面は何度目だと思いつつ、春明は少年の名をくりかえし呼ぶ。


「ここは現実だ。ほら、目を覚まして」


 下手に抵抗せず根気強く言い聞かせてやっているうちに、刀児の両眼からぎらついた光がすっと消えた。


「あ……おれ……」


 やれやれと春明は胸をなでおろす。


「まずは手を離してくれないかな」


 力いっぱいつかまれたせいで両肩がじんじんと痛む。きっと痣もできているだろう。とんだ災難だと思いつつも、春明は目の前の少年を恨む気にはなれなかった。夢に深くもぐったときの苦しさなら身に染みて知っている。それに、いつかのように首を絞められるよりは、はるかにましだ。


「大丈夫かい」


 熱をはかろうと額にのばした手は刀児にふりはらわれた。


「なんだよ、おまえ」

「ええと、わたしはばん……」

「知ってるよ」


 刀児はそっけなく春明の名乗りをさえぎる。


「春明とかいうんだろ。城主の供人のくせに阮之さまに付きまとってる変なやつ」

「ひどい言われようだな」


 怒るよりむしろ春明はあきれた。この少年、だれかれ構わず喧嘩をふっかけるたちなのだろうか。


「阮之さまがお忙しいから、すこし手伝いをさせてもらっているだけだよ。ちゃんと子怜さ……城主の許可もとってある。きみにとやかく言われる筋合いはないと思うけどね」

「うるさい。よそものが」


 刀児はそっぽを向いて勢いよく立ちあがった。


「ちょっと待った。阮之さまが来るまで動いちゃだめだ」

「なんでだよ」

「頭を打ったんだろう。ちゃんと診てもらってからでないと帰せないよ」

「このくらいどうってことねえよ」

「だめだって」


 春明が刀児の腕をつかんだとき、かさりとかわいた音とともに刀児の袖口から一片の紙が落ちた。


 何気なくそれを拾いあげた春明は、そこに描かれているものを見てぎくりとした。

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