第五章 暁天の城(七)

 ぱん、と手を打つ音が響いた。


 それを合図に、暗がりにぱっと灯りがともる。数名の兵が駆けより、手にした松明を阮之げんしに向けてかざした。


「……どういう、おつもりで」


 自分をとりかこむ兵には目もくれず、阮之はただそのひとだけをにらみつける。


「あれ」


 兵の間から華奢な人影がするりと前に進みでた。


「まだ芝居を続ける気かい」

「……子怜しりょうさま」


 あえぐように春明しゅんめいがその名を呼ぶと、子怜はにこりと微笑んだ。


「やあ春明。怪我はない?」


 こっちへおいでと手招きされて、春明は子怜のもとへ駆けよろうとしたが、その腕をぐいと引かれた。


 え、と思う間もなく、後ろからのびてきた手にあごをつかまれる。上向かされたあごの下に、血塗れた刃が押しつけられた。先ほど子怜が投じ、阮之の左袖を切り裂いた短刀だった。


「動かないでください」


 その声は、春明ではなく子怜に向けられていた。


「そこから一歩でも動いたら、この者の命はありません」

「芸がないね」


 子怜はつまらなそうにつぶやくと、懐から小さな革袋をとりだして阮之の足もとに放った。


「返すよ。あなたのだろう」


 袋の口から黒い砂のようなものがこぼれ、つんとした刺激臭をまきちらす。


「――緑散りょくさん


 春明の首にまわされた阮之の腕がぴくりと動く。


「あなたは黒霊燻こくれいくんと言ったけど、ぼくらはそう呼んだことはない。緑散と呼んでいた。名の由来はその色にある。黒に見えるけど、陽の光のもとでは、わずかに緑がかっていることがわかるはずだ。水に溶かして紙に垂らしてみればさらにはっきりする」


 ひとつの考えが、春明の頭にひらめいた。


「緑……あの、絵の」

「そうだよ」


 子怜はうなずく。


「あの絵を描いたのはあなたかい、阮之どの。それとも、薬だけわたしてこうに描かせた? まあ、どっちでもいい。いずれにせよ、あの絵を城内の兵にまわして奎厦けいかに疑いの目を向けさせたのは、あなただろう」


 ねえ阮之どの、と子怜は語りかける。


「正直、残念だよ。あのお茶、けっこうおいしかったのに」


 阮之がしばしばふるまってくれた茶は、きれいな薄緑色をしていた。


 春明の背後で、阮之がふっと笑った気配がした。


「どこであの薬の使い方をお知りになりました」

「戦場で。ああいうところでは悠長に香を焚いている暇なんてないからね。てっとりばやく飲み下したほうが効きもいいし」

「これはこれは……」


 阮之の口から嘲笑がもれた。


「戦場にも伴われるほどの寵愛ぶりという噂は本当だったのですね。飼い主の枕元でさぞよい夢が見られたのではないですか」

「それほどでも」


 あからさまな挑発を、子怜は無表情で受け流した。


「洪を殺したのも、あなただろう。彼の口からかすかにこの薬の匂いがしたからね。この薬、効きはいいけど、分量をあやまれば毒にもなる。ねえ、最初に死んだ兵、あれもわざとかい。それとも、盛る量をまちがえた?」

「このわたしが匙加減をあやまるはずはございませんよ。はじめに死人が必要だった。だから用意したまでです」

「だろうね。あなたは薬の扱いが本当にうまい。ぼくも噂は聞いたことがあるよ。毒使い……兄殺しの三公子」


 子怜は皮肉っぽい口調でその名を口にした。


りょうの第三皇子、たい叔延しゅくえん

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