第二章 悪夢の城(七)

 怪我人のために開放された兵舎の一室は、血と汗と膏薬こうやくが混ざり合った、なんともいえない匂いがたちこめていた。なかをのぞきこんだ春明しゅんめいは、胃の腑から酸っぱいものがこみあげてくるのを辛うじてこらえた。


 きょろきょろと左右を見わたし、ほどなく怪我人の間にかがみこんでいるなで肩の男を見つける。


阮之げんしどの」

「これは春明どの」


 阮之は立ちあがって微笑んだ。よどんだ空気のなか、この若者のまわりだけ清涼な風がそよいでいるかのように思える。


「なにかご用ですか」

「いえ、用ってわけじゃないんですけど、少し休まれたらどうかと思いまして」


 時刻はすでに深夜に近い。昼間の事故で運びこまれた怪我人は二十名をこえており、この城で唯一医術の心得がある阮之は、それこそ腰をおろす暇もなく働きづめだったのだ。


「ありがとうございます。ですが、この場を離れるわけにもいきませんので」

「そうおっしゃると思って」


 春明は手にした包みをかるくかかげてみせた。


「簡単につまめる夜食を持ってきました。ちょっとだけでも座ってお腹になにか入れてください。でないと阮之さまが倒れてしまいますよ。そうなったら困るのはわたしたちですから、ね」


 春明の言葉に起きていた兵たちが一斉にうなずき、阮之は目を丸くして、すぐに顔をほころばせた。


「春明どのは気がききますね」

「いえ、これは子怜さまからです。じつはわたしも夕飯がまだでして、お相伴させてもらえるとありがたいんですけど」


 大事故の後のこととて、さすがに子怜もぐうたらを決めこんではいられないらしく、城輔じょうほ奎厦けいかからひととおりの報告を受けた後は、現場にいた兵のひとりひとりに話を聞いてまわっている。


 なにか手伝うことはないかと申しでた春明に、子怜は夜食の包みをわたし、阮之に届けるように言いつけた。ついでに春明も食べておいで、誰かと一緒の方があのひとも気が楽だろうからと、笑顔でつけくわえられたことは阮之には内緒だ。


「あ、でも安心してください。これ作ったのは子怜さまじゃありませんから」


 阮之は怪訝そうな顔をしたが、賢明にも質問はさしひかえた。


 兵舎の外に出たふたりは、地べたに並んで座り、しばらく食事に専念した。


 濃紺の空は綺麗に晴れわたり、無数の星を従えた月が冴えた光を地上に投げかけている。夢の中とちがって、きちんと空は明るい。


 冷めた肉饅頭をほおばる春明のとなりで、阮之は水筒から水を飲み、ほっと小さく息をついた。その横顔には隠しきれない疲労の色がにじんでいる。怪我人の前では平気なふりをしていても、実際はかなり無理をしていたのだろう。声をかけてよかったと春明は思い、あらためて子怜のさりげない配慮に感心した。


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