第四章 翠乱の城(五)
「そう思うだけの根拠が、あなたにはあるのかい」
阮之ははっとしたように瞬きをした。
「申し訳ありません。
地下書庫で、奎厦自らが
「奎厦どのからお聞きになりましたか。よく奎厦どのがお話しくださいましたね」
「ぼくじゃない」
子怜はちらと春明に目をやった。ああ、と阮之がうなずく。
「春明どのにはかないませんね。どうも、あなたを前にすると誰もが口の
そんなことを言われたのは初めてだったので、春明はうろたえた。
「いいよねえ」
子怜がのんきな感想をもらす。
「すぐに信用してもらえるって。春明てば、人畜無害ここに極まれり、て顔してるもの」
「子怜さま、いま、さりげなくわたしのこと
「ほめたんだよ?」
「嘘おっしゃい」
まあまあおふたりとも、と阮之がなだめるような笑みを浮かべる。ようやくいつもの阮之に戻ってくれたようで、春明はほっとした。
「ですが、おそらくここまではお聞きになっていないでしょう。崔家は楼西の血筋ですが、その祖はただの民ではありません。崔家は、楼西の王の
子怜がわずかに身じろぎをした。
「めずらしいじゃないか」
ひとつの王朝がほろぼされるとき、その王族の血筋は根絶やしにされるのが常だ。復讐をおそれる征服者に、敗者の一族は赤子にいたるまで殺しつくされる。
「
崔家が楼西の王家の末裔であることを示す系譜は、いまも崔家の書庫の奥深くで眠っているという。食客として崔家に抱えられていた阮之は、書庫の整理を手伝っていた際、偶然にもその系譜を目にしたのだそうだ。
「偶然?」
子怜の口もとに、人の悪そうな笑みがひらめく。もちろん、と阮之はすました顔で、その笑みを受け流した。
「奎厦は、そのことを知っているのかい」
「おそらく。崔一族のなかでは公然の秘密といったところでしょうね。ためしに当主にさぐりをいれてみましたら、目に見えてうろたえていらっしゃいましたので。当主がご存知なら、その姉君も……」
その息子の、奎厦も。
「誇り、なのでしょうね。崔家の。我がもの顔で世を支配する梁、それを滅ぼした斉……それらよりもずっと旧い血を受け継いでいるということが」
「馬鹿らしい」
子怜が鼻で笑う。
「血筋にしがみつくしか能のない人ほど、見ていて滑稽なものはないね。まあ、崔家はちがうか。世が代わっても、いまだに名家として生き残っているんだから。歴代の当主はなかなかやり手のようだね」
「先代までは、そうだったのでしょうね」
すずしい顔で、阮之はなかなかに辛辣なことを言う。
「奎厦どのの身には、楼西の王家の血が流れております。それも、誤解をおそれず言わせていただければ、もっとも濃い血が。と、申しますのも――」
阮之はひと呼吸おいて、その事実を告げた。
「楼西の王……城壁から身を投げて自らを葬った楼西の最後の王は、緑の眼の持ち主だったとか」
暗闇で金色の光をはなつ、獣のような眼を。
「多彩な色をもつ楼西の民のなかでも、その眼をもつ者はごくわずか、かつ、王家の者にかぎられていたそうでございますよ」
「奎厦が、楼西の王の裔ねえ……」
子怜は気のない様子でつぶやいた。
「つまり、阮之どの、あなたはこう言いたいのかい。奎厦が楼西の王の裔で、だから、ぼくらの敵だと。夢の中で、ぼくらの敵役としてあらわれると」
亡霊の軍勢をしたがえ、わが都を奪いかえさんと、夜な夜な襲ってくるのだと。
「あなたにしては、いささか強引な気がするね。それじゃ、見た目が変わっているからという理由だけで、奎厦を悪役にしたてあげているのと変わらないように思えるけど」
「わかっております。ご城主、わたしはなにも奎厦どのを
そこで阮之は気まずそうな表情になる。
「失礼いたしました。食客風情がですぎた口を……」
「かまわない。あなたが奎厦のことを気にかけてくれているのはわかっている」
ぼくよりよっぽど、と子怜は冗談めかせて笑う。
「申し訳ございません。ですが、これだけはわかっていただきたいのです。その……仮に、仮にでございます、奎厦どのがこの城の悪夢になんらかの関係をお持ちだとしても、それは奎厦どのの意思によるものではありません」
奎厦の意思とは無関係に、ただ、その身に流れる血が、死してなおこの城を奪った者たちを恨み、憎みつづける楼西の王の魂を引きつけ、
そう阮之は語った。
「つまり、奎厦は楼西の最後の王とやらに操られていると?」
「そういうことになりますか」
「死人にそこまでの力があるものか」
「ですが、実際にこの城の者は、死者の魂に苦しめられております」
「まあね」
しぶい顔をした子怜に、「ご城主」と阮之はあらたまった口調で呼びかけた。
「どうかお願いいたします。奎厦どのを助けていただけませんか。いま、この城で最も苦しんでおられるのは、あの方です」
頭を垂れた阮之を、子怜はしばらく黙ってながめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「正直なところ、どうすればいいのかぼくにはわからない。すくなくとも、いまはね。それに、どうにかできたとして、あなたの望むような結果になる保証もない。それでもよければ、せいぜいやってみるさ」
「ありがとうございます」
ほっと頬をゆるめた阮之に、「ただし」と子怜は指を一本立ててみせる。
「条件がある。あなたには
阮之は大きく目を見開いた。
「なにをおっしゃるかと思えば……滅相もありません。わたしにそのような任は務まりません」
「いや、充分務まる。というか、あなたしかいないんだ。だってあなたは、ずっと奎厦のそばで働いていてくれたんでしょう。奎厦の仕事を誰よりもよくわかっているのはあなただ」
「ですが……」
「頼むよ」
阮之はなおもためらっていたが、子怜に重ねて請われ、ついにうなずいた。
「奎厦どのの謹慎が解かれるまでの間、ということでよろしければ」
子怜は満足げに微笑んだ。
「あてにしている。楊城輔」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます